Cinemarche

映画感想レビュー&考察サイト

連載コラム

Entry 2018/08/20
Update

【カメラを止めるな!】なぜ面白いのかを考察。感染源としての『竜二Forever』と『貌斬り KAOKIRI』|映画道シカミミ見聞録10

  • Writer :
  • 森田悠介

連作コラム「映画道シカミミ見聞録」第10回


(C)ENBUゼミナール

こんにちは。森田です。

今回は大ヒットを記録し、上映館拡大中の映画『カメラを止めるな!』の魅力に迫ります。

「おもしろい!」と感じたものを「なぜおもしろいのか?」と言葉に落とし込むこと、つまりは症状ではなく“感染源”を調べる時期に、そろそろ差しかかっていると思います。

ここでは2本の“メス”を用意しました。

ひとつは、「メタフィクション映画」の構造に切り込み、その意味と力を摘出するもの。

もうひとつは「自主映画」の系譜に位置づけ、継承の視点で語るものです。

そして、そのふたつのテーマが重なっている先行作品として、細野辰興監督の『竜二Forever』(2002)、と『貌斬り KAOKIRI〜戯曲「スタニスラフスキー探偵団」より〜』(2016)を取りあげます。

なお、『カメラを止めるな!』を鑑賞した人に感想をたずねると、そろって「ネタバレになるから言えない」と返されますが、本作はネタバレでおもしろさが損なわれるほどやわな映画ではありません。

考察の務めとして、また作品を尊重し信頼する証として、本記事では自由に内容を取り込んでゆきます。

【連載コラム】『映画道シカミミ見聞録』記事一覧はこちら

映画『カメラを止めるな!』(2017)

さっそく1本目のメスで“解剖”しますと、本作の構造は以下になります。

① 最初の30分はTVの企画番組『ONE CUT OF THE DEAD』の「放送映像」

② つぎは企画の立ち上げから放送にいたるまでの「ドラマ」

③ 最後は生放送の舞台裏をとらえる「メイキング」

言い換えると①は「劇中劇=映画内映画」、②と③は「劇=映画本編」となり、後者も②が③に内包されるかたちで進行します。

この「入れ子構造=メタフィクション」の各層は、それぞれの階層を映す「カメラ」に着目すると、よりわかりやすく整理できます。

“止められない”のはどのカメラ?

本作には、監督役の日暮隆之(濱津隆之)が手に持つカメラ(Aカメ)、『ONE CUT OF THE DEAD』を撮るカメラ(Bカメ)、それらの舞台裏を記録するカメラ(Cカメ)の3台が登場します。

Aカメは、「ゾンビ映画の撮影中、本物のゾンビに襲われても止めないカメラ」です。

これは日暮がヒロインの松本逢花(秋山ゆずき)に殺されることで止まります。

Bカメは上記を生放送するために用いられ、一見するとワンカット(長回し)で撮る本機こそ、タイトルの意味を示しているかのように受けとれます。

しかしこれも、30分の放送を終えれば「カット」の声がかかり、止まります。(①から②への場面転換。)

そうなりますと、斧で切られる監督や、ワンカットで挑むカメラマンとスタッフ、その戦いのすべてを静かに撮影しつづけるCカメ(③メイキングの層)が「止めてはいけないカメラ」であり、上田慎一郎監督の「想い」を担う存在として、受け止められます。

その想いとは、映画を純粋に愛する気持ちであり、スタッフと辛苦をともにする喜びであり、その文化を途切れさせてはいけないと誓う願いであるでしょう。

映画『貌斬り KAOKIRI〜戯曲「スタニスラフスキー探偵団」より〜』(2016)

それと似たアプローチをとる映画が、『カメラを止めるな!』の2年前に製作されています。

細野辰興監督の映画『貌斬り KAOKIRI』です。

美男俳優として人気を博していた長谷川一夫(1908〜1984)が、何者かに頬を斬りつけられた日本映画史上の事件をモチーフに、その犯人と動機を役者たちに舞台上で探らせて、再現を試みるとてもユニークな作品。

そう、本作も「劇中劇を映画にする」という構造を持っています。各階層を詳しくみていきましょう。

① 長谷川一夫の「貌斬り事件」を映画化するための「脚本会議」

② 真相を探るべく展開される演劇の「舞台」

③ その舞台と舞台裏を映しだす「映画」

つまり、「『事件の映画化』の舞台に挑む演劇人たちを映画にする」というメタフィクション構造となっています。

『カメラを止めるな!』と『貌斬り KAOKIRI』の共通点

これを『カメラを止めるな!』の手法と同様に換言しますと、①は「劇中劇」、②と③は「劇=映画本編」といえ、そのうち②はドラマ、③はメイキングの要素を受け持っています。

また①の「劇中劇」の物語も、「熱心な監督が妥協のない映画づくりを志す」という点で共通点が。

そして②の「ドラマ」の進行にあたるところも、片や「生放送」のライブであり、片や「舞台」の上演という、非常によく似た時間を共有していますね。

最後に舞台裏の③「メイキング」では、それぞれ「じつはこんなことが起きていた」と事実を明かし、感動に別の意味を与えています。

独創性は各層のバランスにあり


©1997 フジテレビ 東宝

『カメラを止めるな!』の独創性に言及する際、多くの人々は「生放送の裏に隠された別のドラマ」に見いだしているようです。

しかし、映画史をすこしでもふり返れば、その手のおもしろさで勝負をした作品はけっこうあります。

有名どころでは三谷幸喜監督の傑作コメディ『ラヂオの時間』(1997)でしょうか。

やり直しのきかない生放送で、役者たちのあいだで生じたトラブルをつぎつぎとドラマに回収していく筋書きは、『カメラを止めるな!』のラジオドラマ版といえるかもしれません。

本作が多くの人々の心をつかんだ理由は、劇中劇、ドラマ、メイキングの巧みなバランスにこそ求められるべきでしょう。

映画『竜二Forever』(2002)

「メタフィクション映画」のメッセージには、枠を超えていく表現の「自由」がある一方で、自由に映画がつくれないことに対する「批判」が込められていると推察できます。

『カメラを止めるな!』と『貌斬り KAOKIRI』は自主制作映画で、廃屋をさまよう前者の“ゾンビ”も、小屋を流浪する後者の“芸能の民”も、社会に抑圧された結果生まれた存在とみれます。

いわば、彼らの「自由」とは、彼らの「叫び声」であるわけです。

メタフィクションの枠組みを活かし、その声をより端的に拾った作品が、『貌斬り KAOKIRI』より先に発表された映画『竜二Forever』です。

自主映画からの大ヒット作『竜二』(1983)

細野辰興監督の『竜二Forever』は、『竜二―映画に賭けた33歳の生涯 』(1997年、幻冬舎アウトロー文庫)を原作に、俳優の金子正次が主演作『竜二』(1983)を作りあげ、早世するまでの人生をドラマにした作品です。

映画『竜二』は、 妻と娘のために足を洗い堅気になった竜二(金子正次)が、平穏無事な人生を夢見つつも、人生への焦りといら立ちから、もとの世界に戻ってゆくというストーリー。

この異色なヤクザ映画は、金子正次と友人たちが制作費を集め、さまざまな苦労の末に劇場公開までこぎつけた作品でした。

その結果、「ヤクザ映画はあたらない」とする当時の映画業界の予想を裏切り大ヒット。公開期間中、金子が胃がんで急死したこともあいまって、自主映画の伝説的な作品として語り継がれています。

そして死後、約20年の時を経て今度は細野監督がメガホンをとることに。

映画『竜二Forever』は、金子の魂と映画づくりへの姿勢をフィルムに焼きつけた作品となりました。

また細野監督は本作を「メタフィクションの出発点」として顧みています。

メタフィクション化した『竜二』

『竜二Forever』は『竜二』の製作過程を追います。例によってカメラの各層を眺めてみましょう。

① 撮影される『竜二』=劇中劇

② 『竜二』製作に臨む金子正次の人生=ドラマ

③ 『竜二』制作現場の記録=メイキング

以上に分けられますが、『竜二』も『竜二Forever』も「金子正次の人生」を参照しているため、その二重性がメタフィクションにいっそうのレイアーをかぶせています。

すなわち、こういうことです。

金子正次が命をかけて書いた『竜二』は、半自伝的な要素が散りばめられています。

一方で『竜二Forever』も当然ながら「金子の人生」を切りとります。

ということは、劇中劇の『竜二』では、「竜二のなかの金子正次」と「竜二Foreverのなかの金子正次」のふたりが合わせ鏡のごとく同一空間に存在することになるのです。

そこに映しだされるのは、微妙な差異をふくみながら、果てしなく増殖してゆく金子正次のイメージ。

メタフィクションがもたらす「差異と反復」の力により、“自主映画のヒーロー”は永遠に自己の像を刷新して、ついには『カメラを止めるな!』を生んだ現代とその構造に接合するにいたった。

映画史的に、わたしはそう考えています。

メタフィクションの時代精神

以上みてきましたように、メタフィクションは「映画で映画を問う」批判性をもって、自主映画の精神と相通じる面が多分にあります。

「抑圧されたものは回帰する」

これも精神分析の知見のひとつです。

劇中劇から劇中へ、劇中から劇場へ、劇場から現実へ…そう枠組みを拡張しつづけていくメタフィクション映画の感染力。

それは一時衰えることはあっても、決して止めることはできません。

その時々の表情を浮かびあがらせ変遷し、時代はいま、『カメラを止めるな!』の顔をしているのです。

【連載コラム】『映画道シカミミ見聞録』記事一覧はこちら

関連記事

連載コラム

映画『私というパズル』ネタバレ感想と結末までのあらすじ。亡き小さな命は親子の絆を誕生させる|Netflix映画おすすめ12

連載コラム「シネマダイバー推薦のNetflix映画おすすめ」第12回 死産という深い悲しみでバラバラになった心と家族。それはまるでパズルのようなものでした…。 Netflixのおすすめ映画『私というパ …

連載コラム

映画『エスケープルーム』ネタバレあらすじと感想。謎解きゲームには参加者の過去も重要な意味がある⁈|サスペンスの神様の鼓動30

こんにちは!「Cinemarche」のシネマダイバー、金田まこちゃです。 このコラムでは、毎回サスペンス映画を1本取り上げて、作品の面白さや手法について考察していきます。 今回ご紹介する作品は、成功す …

連載コラム

映画『ランブル』考察と評価感想。インディアンたちはアメリカと音楽界を“大地の鼓動”で揺さぶる|だからドキュメンタリー映画は面白い52

連載コラム『だからドキュメンタリー映画は面白い』第52回 彼らを抜きにして、ポピュラー音楽界の発展はなかったかもしれない──。 今回取り上げるのは、2020年8月7日(金)より渋谷ホワイトシネクイント …

連載コラム

スーパー戦隊はマンネリなのかを考える②【成長期】ゴーグルファイブからチェンジマン|邦画特撮大全7

連載コラム「邦画特撮大全」第7章 前回は第1作『秘密戦隊ゴレンジャー』(1977)から第5作『太陽戦隊サンバルカン』(1981)までの、スーパー戦隊シリーズ黎明期について分析しました。 今回はシリーズ …

連載コラム

映画『ある殺人、落葉のころに』感想評価と考察解説レビュー。三澤拓哉監督が描く“現代の歪な物語”からの救済のメタ構造|映画道シカミミ見聞録53

連載コラム「映画道シカミミ見聞録」第53回 こんにちは、森田です。 今回は、2021年2月20日(土)/東京・ユーロスペース他での劇場公開後も、4月23日(金)/京都みなみ会館にて、4月24日(土)/ …

【坂井真紀インタビュー】ドラマ『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』女優という役の“描かれない部分”を想像し“元気”を届ける仕事
【川添野愛インタビュー】映画『忌怪島/きかいじま』
【光石研インタビュー】映画『逃げきれた夢』
映画『ベイビーわるきゅーれ2ベイビー』伊澤彩織インタビュー
映画『Sin Clock』窪塚洋介×牧賢治監督インタビュー
映画『レッドシューズ』朝比奈彩インタビュー
映画『あつい胸さわぎ』吉田美月喜インタビュー
映画『ONE PIECE FILM RED』谷口悟朗監督インタビュー
『シン・仮面ライダー』コラム / 仮面の男の名はシン
【連載コラム】光の国からシンは来る?
【連載コラム】NETFLIXおすすめ作品特集
【連載コラム】U-NEXT B級映画 ザ・虎の穴
星野しげみ『映画という星空を知るひとよ』
編集長、河合のび。
映画『ベイビーわるきゅーれ』髙石あかりインタビュー
【草彅剛×水川あさみインタビュー】映画『ミッドナイトスワン』服部樹咲演じる一果を巡るふたりの“母”の対決
永瀬正敏×水原希子インタビュー|映画『Malu夢路』現在と過去日本とマレーシアなど境界が曖昧な世界へ身を委ねる
【イッセー尾形インタビュー】映画『漫画誕生』役者として“言葉にはできないモノ”を見せる
【広末涼子インタビュー】映画『太陽の家』母親役を通して得た“理想の家族”とは
【柄本明インタビュー】映画『ある船頭の話』百戦錬磨の役者が語る“宿命”と撮影現場の魅力
日本映画大学