連作コラム「映画道シカミミ見聞録」第10回
こんにちは。森田です。
今回は大ヒットを記録し、上映館拡大中の映画『カメラを止めるな!』の魅力に迫ります。
「おもしろい!」と感じたものを「なぜおもしろいのか?」と言葉に落とし込むこと、つまりは症状ではなく“感染源”を調べる時期に、そろそろ差しかかっていると思います。
ここでは2本の“メス”を用意しました。
ひとつは、「メタフィクション映画」の構造に切り込み、その意味と力を摘出するもの。
もうひとつは「自主映画」の系譜に位置づけ、継承の視点で語るものです。
そして、そのふたつのテーマが重なっている先行作品として、細野辰興監督の『竜二Forever』(2002)、と『貌斬り KAOKIRI〜戯曲「スタニスラフスキー探偵団」より〜』(2016)を取りあげます。
なお、『カメラを止めるな!』を鑑賞した人に感想をたずねると、そろって「ネタバレになるから言えない」と返されますが、本作はネタバレでおもしろさが損なわれるほどやわな映画ではありません。
考察の務めとして、また作品を尊重し信頼する証として、本記事では自由に内容を取り込んでゆきます。
CONTENTS
映画『カメラを止めるな!』(2017)
さっそく1本目のメスで“解剖”しますと、本作の構造は以下になります。
① 最初の30分はTVの企画番組『ONE CUT OF THE DEAD』の「放送映像」
② つぎは企画の立ち上げから放送にいたるまでの「ドラマ」
③ 最後は生放送の舞台裏をとらえる「メイキング」
言い換えると①は「劇中劇=映画内映画」、②と③は「劇=映画本編」となり、後者も②が③に内包されるかたちで進行します。
この「入れ子構造=メタフィクション」の各層は、それぞれの階層を映す「カメラ」に着目すると、よりわかりやすく整理できます。
“止められない”のはどのカメラ?
本作には、監督役の日暮隆之(濱津隆之)が手に持つカメラ(Aカメ)、『ONE CUT OF THE DEAD』を撮るカメラ(Bカメ)、それらの舞台裏を記録するカメラ(Cカメ)の3台が登場します。
Aカメは、「ゾンビ映画の撮影中、本物のゾンビに襲われても止めないカメラ」です。
これは日暮がヒロインの松本逢花(秋山ゆずき)に殺されることで止まります。
Bカメは上記を生放送するために用いられ、一見するとワンカット(長回し)で撮る本機こそ、タイトルの意味を示しているかのように受けとれます。
しかしこれも、30分の放送を終えれば「カット」の声がかかり、止まります。(①から②への場面転換。)
そうなりますと、斧で切られる監督や、ワンカットで挑むカメラマンとスタッフ、その戦いのすべてを静かに撮影しつづけるCカメ(③メイキングの層)が「止めてはいけないカメラ」であり、上田慎一郎監督の「想い」を担う存在として、受け止められます。
その想いとは、映画を純粋に愛する気持ちであり、スタッフと辛苦をともにする喜びであり、その文化を途切れさせてはいけないと誓う願いであるでしょう。
映画『貌斬り KAOKIRI〜戯曲「スタニスラフスキー探偵団」より〜』(2016)
それと似たアプローチをとる映画が、『カメラを止めるな!』の2年前に製作されています。
細野辰興監督の映画『貌斬り KAOKIRI』です。
美男俳優として人気を博していた長谷川一夫(1908〜1984)が、何者かに頬を斬りつけられた日本映画史上の事件をモチーフに、その犯人と動機を役者たちに舞台上で探らせて、再現を試みるとてもユニークな作品。
そう、本作も「劇中劇を映画にする」という構造を持っています。各階層を詳しくみていきましょう。
① 長谷川一夫の「貌斬り事件」を映画化するための「脚本会議」
② 真相を探るべく展開される演劇の「舞台」
③ その舞台と舞台裏を映しだす「映画」
つまり、「『事件の映画化』の舞台に挑む演劇人たちを映画にする」というメタフィクション構造となっています。
『カメラを止めるな!』と『貌斬り KAOKIRI』の共通点
これを『カメラを止めるな!』の手法と同様に換言しますと、①は「劇中劇」、②と③は「劇=映画本編」といえ、そのうち②はドラマ、③はメイキングの要素を受け持っています。
また①の「劇中劇」の物語も、「熱心な監督が妥協のない映画づくりを志す」という点で共通点が。
そして②の「ドラマ」の進行にあたるところも、片や「生放送」のライブであり、片や「舞台」の上演という、非常によく似た時間を共有していますね。
最後に舞台裏の③「メイキング」では、それぞれ「じつはこんなことが起きていた」と事実を明かし、感動に別の意味を与えています。
独創性は各層のバランスにあり
『カメラを止めるな!』の独創性に言及する際、多くの人々は「生放送の裏に隠された別のドラマ」に見いだしているようです。
しかし、映画史をすこしでもふり返れば、その手のおもしろさで勝負をした作品はけっこうあります。
有名どころでは三谷幸喜監督の傑作コメディ『ラヂオの時間』(1997)でしょうか。
やり直しのきかない生放送で、役者たちのあいだで生じたトラブルをつぎつぎとドラマに回収していく筋書きは、『カメラを止めるな!』のラジオドラマ版といえるかもしれません。
本作が多くの人々の心をつかんだ理由は、劇中劇、ドラマ、メイキングの巧みなバランスにこそ求められるべきでしょう。
映画『竜二Forever』(2002)
「メタフィクション映画」のメッセージには、枠を超えていく表現の「自由」がある一方で、自由に映画がつくれないことに対する「批判」が込められていると推察できます。
『カメラを止めるな!』と『貌斬り KAOKIRI』は自主制作映画で、廃屋をさまよう前者の“ゾンビ”も、小屋を流浪する後者の“芸能の民”も、社会に抑圧された結果生まれた存在とみれます。
いわば、彼らの「自由」とは、彼らの「叫び声」であるわけです。
メタフィクションの枠組みを活かし、その声をより端的に拾った作品が、『貌斬り KAOKIRI』より先に発表された映画『竜二Forever』です。
自主映画からの大ヒット作『竜二』(1983)
細野辰興監督の『竜二Forever』は、『竜二―映画に賭けた33歳の生涯 』(1997年、幻冬舎アウトロー文庫)を原作に、俳優の金子正次が主演作『竜二』(1983)を作りあげ、早世するまでの人生をドラマにした作品です。
映画『竜二』は、 妻と娘のために足を洗い堅気になった竜二(金子正次)が、平穏無事な人生を夢見つつも、人生への焦りといら立ちから、もとの世界に戻ってゆくというストーリー。
この異色なヤクザ映画は、金子正次と友人たちが制作費を集め、さまざまな苦労の末に劇場公開までこぎつけた作品でした。
その結果、「ヤクザ映画はあたらない」とする当時の映画業界の予想を裏切り大ヒット。公開期間中、金子が胃がんで急死したこともあいまって、自主映画の伝説的な作品として語り継がれています。
そして死後、約20年の時を経て今度は細野監督がメガホンをとることに。
映画『竜二Forever』は、金子の魂と映画づくりへの姿勢をフィルムに焼きつけた作品となりました。
また細野監督は本作を「メタフィクションの出発点」として顧みています。
メタフィクション化した『竜二』
『竜二Forever』は『竜二』の製作過程を追います。例によってカメラの各層を眺めてみましょう。
① 撮影される『竜二』=劇中劇
② 『竜二』製作に臨む金子正次の人生=ドラマ
③ 『竜二』制作現場の記録=メイキング
以上に分けられますが、『竜二』も『竜二Forever』も「金子正次の人生」を参照しているため、その二重性がメタフィクションにいっそうのレイアーをかぶせています。
すなわち、こういうことです。
金子正次が命をかけて書いた『竜二』は、半自伝的な要素が散りばめられています。
一方で『竜二Forever』も当然ながら「金子の人生」を切りとります。
ということは、劇中劇の『竜二』では、「竜二のなかの金子正次」と「竜二Foreverのなかの金子正次」のふたりが合わせ鏡のごとく同一空間に存在することになるのです。
そこに映しだされるのは、微妙な差異をふくみながら、果てしなく増殖してゆく金子正次のイメージ。
メタフィクションがもたらす「差異と反復」の力により、“自主映画のヒーロー”は永遠に自己の像を刷新して、ついには『カメラを止めるな!』を生んだ現代とその構造に接合するにいたった。
映画史的に、わたしはそう考えています。
メタフィクションの時代精神
以上みてきましたように、メタフィクションは「映画で映画を問う」批判性をもって、自主映画の精神と相通じる面が多分にあります。
「抑圧されたものは回帰する」
これも精神分析の知見のひとつです。
劇中劇から劇中へ、劇中から劇場へ、劇場から現実へ…そう枠組みを拡張しつづけていくメタフィクション映画の感染力。
それは一時衰えることはあっても、決して止めることはできません。
その時々の表情を浮かびあがらせ変遷し、時代はいま、『カメラを止めるな!』の顔をしているのです。