連載コラム『君たちはどう観るか』第5回
『風立ちぬ』(2013)を最後に「長編アニメーション作品の制作からの“引退”」を表明した宮崎駿が、「宮﨑駿」に改名して挑んだ映画『君たちはどう生きるか』。
奇想天外な世界観やストーリー展開の他、宮﨑監督が「宮崎駿」として生きてきた半生を振り返るかのような自伝的要素も盛りだくさんなその内容は、早くから観客の間で賛否両論の嵐を巻き起こしています。
本記事では、映画公開当初から見受けられた「気持ち悪い」という感想についてクローズアップ。
宮﨑監督が“美化”ならぬ“醜化”を本作で試みた理由、「宮崎駿」の“美化”という悪癖が生まれた理由、そして“醜化”の果てに宮﨑監督が辿り着いた真実などを考察・解説していきます。
CONTENTS
映画『君たちはどう生きるか』の作品情報
【日本公開】
2023年(日本映画)
【原作・監督・脚本】
宮﨑駿
【主題歌】
米津玄師:『地球儀』
【製作】
スタジオジブリ
【声のキャスト】
山時聡真、菅田将暉、柴咲コウ、あいみょん、木村佳乃、木村拓哉、竹下景子、風吹ジュン、阿川佐和子、大竹しのぶ、國村隼、小林薫、火野正平
映画が「気持ち悪い」と思われる理由を考察解説!
“美化”ならぬ“醜化”の理由は?
『君たちはどう生きるか』が公開された当初から、映画を観た人々の感想の中で見受けられた「気持ち悪かった」という言葉。
アニメーション映画『白雪姫』の「七人の小人」を連想させ、どこか“異形”じみたイメージを見る者に感じさせる、屋敷の召使いの老婆たち。眞人に「群れ」として襲いかかった現実世界のカエルやコイ、そして下の世界のペリカンやインコたち。
現実世界の鳥「青鷺」の姿に変化していても隠しきれないアオサギの気味の悪い仕草。下の世界で眞人が解体を試みた巨大魚の腹から溢れ出す内臓。インコたちによる人肉食……確かに映画作中では、様々な形で「グロテスク(その異様な姿・形から不気味さ・不快さを与える様)」の描写が多数登場します。
しかしながら、宮﨑監督のこれまでの「宮崎駿」名義作品でも多数の異形が登場し、グロテスクと評されても納得できる描写も十分に見受けられます。
『風の谷のナウシカ』の蟲たち、『となりのトトロ』のトトロ、『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』の神々、『ハウルの動く城』の荒地の魔女やその使い魔、『崖の上のポニョ』のポニョ……「宮崎駿」監督作品を観続けてきた方ほど、具体例はいくらでも挙げられるでしょう。
なぜ、『君たちはどう生きるか』のグロテスク描写が人々に特別「気持ち悪い」と感じさせたのか。その理由を考えてみた時、『君たちはどう生きるか』では“美化”ならぬ“醜化”……本来異形ではないはずのものまでも、わざと異形として描いているという点に気づけます。
「宮﨑駿」は「宮崎駿」の“美学”を否定する
また『君たちはどう生きるか』では、これまでの「宮崎駿」名義作品では“美しいもの”として描いていたはずのものも、その“美しさ”を否定する形で描写されています。
たとえば、『紅の豚』『風立ちぬ』では「人類の夢」の象徴として描かれている飛行機の一部品であるものの、それは搭乗するパイロットが入る棺桶の蓋でもある零戦のキャノピーを、軍需工場を営む眞人の父・正一と従業員たちが屋敷に運び入れる場面。
屋敷の大広間に並べられた無数のキャノピーは『風の谷のナウシカ』の王蟲の群れを連想させる一方で、「パイロットの棺桶の蓋」という意味に立ち返った時、大広間はたちまち「死体置場」の光景のイメージと結びつけられ、同場面における眞人のセリフ「美しいですね」がいかにおぞましいものかが感じ取れるはずです。
そして「ジブリ飯」という言葉さえ生んだ「宮崎駿」名義作品の食事の描写すらも、『君たちはどう生きるか』ではその“美しさ”を否定する形で描いています。
少女ヒミに作ってもらった大量のバターとジャムを塗った食パン……日本製ではない、太平洋戦争時は“敵国”であったはずのアメリカ製の食品をたっぷり使用した食べ物を、ジャムが頰に飛び散るほどに……“返り血”を連想させるほどに貪る眞人。
そこには「ジブリ飯」がそれまで描いてきた“美しさ”の魅力はなく、軍需工場を営む……名も知らぬ日本の兵士たちを遠い戦場へ送り、死なせる父・正一の下で裕福に過ごす、眞人の生活の本質を炙り出そうとしているのです。
罪の意識が生んだ“美化”の悪癖と闘う
世界の“美化”からの“醜化”、そして「宮崎駿」が過去に描いてきた“美しさ”の否定……『君たちはどう生きるか』におけるその徹底ぶりをもたらした理由。それは、本作が宮﨑監督の少年時代に感動した小説2作を原案としている通り、宮﨑監督が「宮崎駿」として生きてきた“原点”の記憶に見出せます。
1941年に東京都で生まれた宮崎駿ですが、彼の父・勝次は零戦の部品など製造していた「宮崎航空興学」の社長を務めていたことでも知られています。また戦時中には栃木県宇都宮市という地方に工場を移転されたことから、宮崎一家は宇都宮市へ疎開。小学4年生の進級時に東京へ戻るまで同地で生活を送りました。
そうした宮崎駿の幼少期の出来事は、『君たちはどう生きるか』と、映画の原案の一つ『失われたものたちの本』の作中設定に強く重なることは想像に難くないでしょう(なお、1947年に宮崎駿の母が結核を発症した出来事も『風立ちぬ』の主人公の妻・菜穂子の設定に反映されています)。
攻撃を食らう者も、与える者も、いずれは戦場で死ぬことになる兵器を父が作り続けることで享受できていた、自らの裕福な生活。そして軍需工場を移転したせいで、1945年7月12日に宇都宮市は東京同様に空襲を受け、多くの市民が亡くなったという事実。
宮崎駿が幼少期の出来事に基づき形成していった「都会から来た、人の不幸によって幸せに生きている人間」としての罪の意識と、その反動としての「“都会的なもの”でないもの」=「自然」の尊重……という名の“美化”は、彼が作り続けてきた作品でも色濃く描かれてきた……。
そのことは、「宮崎駿」自身が誰よりも理解していたはずです。
そして「宮﨑駿」に名を改めて『君たちはどう生きるか』を手がけるにあたって、これまでに「宮崎駿」が築いてきた美学を徹底的に否定し、彼が囚われ続けてきた“美化”という悪癖を打ち破るために、あえて自然の“醜化”……あるがままの自然への肉薄を試みたのではないでしょうか。
まとめ/「“醜化”も“美化”の一種」という真実
前述の通り、「その異様な姿・形から不気味さ・不快さを与える様」という意味を持つ「グロテスク(grotesque)」。
その一方で、グロテスクは「人物・動物・花・果物などを象った装飾文様」の一名称でもあり、古代ローマの庭園に造られた人工の洞窟「グロッタ(grotta)」が語源であることでも知られています。
グロッタ内の壁に彫られた、過剰な描写に基づく奇抜・異様な文様から生まれたその語は、偶然ではあるものの「宮崎駿」の自然に対する過剰な“美化”という悪癖を皮肉った言葉とも、「宮﨑駿」が“美化”克服の果てに“醜化”へ至ったことに対する労いの言葉とも受け取れます。
また語源である「グロッタ(人工の洞窟)」も、映画作中であらゆる形で描かれる「人工的に造られた“通り道の穴”」のイメージと重なるはずです。
しかしながら、“醜化”も決して「あるがままの自然」を描いているわけではなく、そう描くことも“美化”の一つであることは、映画を観終えた誰もが感じた印象であり、やはりい宮﨑監督自身が最もそのことを理解しているでしょう。
醜さ・不気味さを追求することも“美”の追求の一部であり、創作者は決して“美”から逃れることはできない……宮﨑監督が「宮崎駿」の美学を否定し、「宮崎駿」を殺そうと試み続けた果てに辿り着いた真実は、映画終盤で描かれる眞人と大叔父の対話からも窺うことができるのです。
編集長:河合のびプロフィール
1995年生まれ、静岡県出身の詩人。
2019年に日本映画大学・理論コースを卒業後、映画情報サイト「Cinemarche」編集部へ加入。主にレビュー記事を執筆する一方で、草彅剛など多数の映画人へのインタビューも手がける(@youzo_kawai)。