連載コラム「シネマダイバー推薦のNetflix映画おすすめ」第25回
映画『バッド・トリップ~どっきり横断の旅~』は、2021年3月26日よりNetflixで配信されたアメリカのコメディ映画です。
見ず知らずの通行人をも巻き込んで繰り広げられるドタバタコメディを、スタンダップコメディアンのエリック・アンドレが演じています。
街でいたずらを繰り広げ、一般人の反応を隠しカメラでとらえるドッキリといえば、過激派YouTuberの企画の先駆けとなった、「ジャッカス」シリーズが連想されるところでしょう。
誰も思いつかない、思いついてもやらないような馬鹿騒ぎ、不謹慎な悪ふざけとして始まったドッキリは、ユダヤ系黒人のコメディアンによってより政治的に、よりシュールな笑いへと変化を遂げ、ナンセンスなブラックユーモアで観客に背徳的な笑いを誘います。
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CONTENTS
映画『バッド・トリップ~どっきり横断の旅~』の作品情報
【公開】
2021年(アメリカ映画)
【原題】
BAD TRIP
【監督】
キタオ・サクライ
【キャスト】
エリック・アンドレ、ミカエラ・コンリン、リル・レル・ハウリー、ティファニー・ハディッシュ
【作品概要】
主演のエリック・アンドレは、ユダヤ人の母とハイチ系黒人の父との間に生まれたユダヤ系の黒人コメディアン。
彼は『ライオンキング』(2019)のハイエナの声を担当しており、「リック・アンド・モーティ」シリーズで知られる大人向けケーブルテレビ局アダルトスイムで放送されたシュールコメディ番組のホストを務めるなど、才能は多岐にわたっています。同じNetflixでも50分のスタンダップコメディも披露。
監督を務めるのは、エリック・アンドレと長年タッグを組んできた日系アメリカ人のプロデューサー、キタオ・サクライ。
タイトルのバッド・トリップは薬物接種によるサイケデリックな幻覚、中毒症状を意味し、恐怖や被害妄想、自己同一性の喪失などを引き起こすことを表しています。
映画『バッド・トリップ~どっきり横断の旅~』のあらすじとネタバレ
フロリダ州ウェストグローブに店を構える手洗い洗車に勤めるエリック・アンドレ扮するクリスは、顧客と小話をしていたところ、そこに現れた美女にたちまち夢中になります。それは高校時代の憧れ、マリアでした。
彼女をデートに誘おうか顧客に相談するクリス。雑談を交えながら顧客に近くにあったスイッチを押してくれるよう頼むと、吸引機が勢い良く作動し、クリスの服は中へと吸い込まれ、彼はたちまち全裸に。
そこにマリアが現れ、慌てふためいた顧客とクリスを見て、彼女は別の店へと去ってしまいました。
告白が失敗したと嘆くクリスは、パソコン修理店に勤めるバドにそのことを相談します。
ちょうど店には、バドの姉トレナがナンバープレートに「クソ悪い女」と書かれたピンクのセダンに乗って店に現れました。バドは、他の客がいる前で姉から金をむしられタジタジに。
呆気に取られる客をよそに、レジの金をむしり取り、自宅軟禁用のGPS を引きちぎるトレナ。レジの金の一部をその場に居合わせた客に口止め料として渡し、「顔は覚えたからな」と言い残して去りました。
強権的な姉には逆らえないと話すバドを何とか励ますクリス。
1年後、寝坊したクリスは、仕事に遅れると急いで家を飛び出し、住宅街を横切って行きます。家と家との仕切りをぶち破り、壁を壊し、キッチンで家事をしている他人の家のガラス扉を割って通り抜け、働いているジュース店へと急ぎました。
店では、トングも使わずにグ材を素手で触るクリスが、不衛生であると訴える客と言い合いを繰り広げていました。
そこを偶然マリアが訪れ、興奮のあまり再会を喜んでいました。
店の奢りとマリアにジュースを手渡すクリスに他の客からは非難轟々。
食事に誘うも、彼女はニューヨークへ行く寸前で、そこで開かれている自身の画廊へ招待を渡して店を出ていきました。
彼女の招待状に夢中になるあまり、よそ見したままジューサーに手を突っ込むクリス。その瞬間、手は轟音を挙げ、血しぶきを放ちます。店は、クリスの血で溢れかえっていました。
絶叫し、店を出る客たち。クリスは何事もなかったかのようにマリアからの誘いにガッツポーズを見せました。
血まみれの右手はそのままに、彼は彼女のいるニューヨークへと向かうことを決意します。
「フロリダでしけた仕事を続けるよりも、一緒に大冒険に行こう」とバドを誘い、トレアの車を盗んでニューヨークへと向かいました。
その頃、フロリダ刑務所で服役していたトレナは護送車にくっついて脱獄に成功していました。
車を取りに車庫へと来たトレナ。ピンクのセダンは別の男が出庫していた事を知ります。激怒した彼女はその場を後にして、車を盗んだとされる弟とクリスを探し始めます。
ガソリンスタンドでトレナの車を給油するクリス。よそ見していると給油パイプが千切れ、ガソリンが辺り一面に溢れてしまいました。周囲の人が焦る中、その場を去るふたり。
トレナは、街で車と弟を探していました。街での聞き込みも埒があかないと感じた彼女は、パトカーの窓ガラスを破り、そのままそれに乗ってNYを目指しました。
その頃ふたりはナイトクラブ、エレクトリックカウボーイに。
アメリカを満喫しに来たと言いますが、店内にアフリカ系は彼らだけ。ブギを踊る老人たちを尻目にバーで飲み明かすクリスとバド。
凄まじい勢いで飲んだクリスは酔った勢いで高所から転落し、飲んだものを全て戻してしまいました。
サウスカロライナのモーテルで一泊し、ぼちぼちNYのマリアの務める画廊へと向かいます。同じ道のりをトレナがパトカーで追っていました。
その後ふたりは動物園に立ち寄ります。バドの一番好きな映画『最凶女装計画』について話をしていました。
クリスはゴリラの檻の中に入り、至近距離でのツーショットを試みました。ゴリラに身体を掴まれるクリス。ゴリラはクリスのパンツを剥ぎ取り、お尻に突っ込んできました。
一部始終を見ていた観光客たちは絶叫。クリスに早く逃げるよう言いますが、クリスもまた絶叫していました。
逃げようとするクリスにゴリラは、今度は顔を捉え、自分のものをクリスの顔面に浴びせました。
車に戻り、口直しにミントはないか、車内を物色するクリス。ダッシュボードからタブレットを見つけたふたりは、そのまま口へ放り込みます。
すると何だか段々暑くなり、しまいには笑いが止まらなくなってしまいました。立ち寄ったスーパーで幻覚は進み、何をしているのか分からなくなっていき、ふたりはたちまち夢の中でした。
目が覚めるとゴルフ場にいたふたりは、下半身がビニールで接着されていました。
助けを求めようにも、歩くのもままならない状態。中華料理店に駆け込んだ2人は「誰か手を貸してくれ」と叫びます。割り箸で股間を刺し、なんとか切断に成功しました。
バージニア州サウスブリッジのダイナーで、店員にデートの誘いの助言を求めます。直接的な性的表現ら控えるよう言われますが、会話はヒートアップしていき、性交渉は初デートの1時間後という結論で話を終えました。
車がデラウェア州に差し掛かったころ、お腹の不調を感じたバドは簡易トイレに駆け込みますが、立て付けが悪かったせいか、トイレごと倒れ込み、バドは糞尿を頭から被ってしまいました。
映画『バッド・トリップ~どっきり横断の旅~』の感想と評価
エンドロールが流れる中、今回のドッキリに引っかかった人たちにネタバラシするシーンや舞台裏を含めた未公開シーンには、本編では使われなかったドッキリのフッテージもあり、本作がドラマとしての起承転結を整理するためにカットしたものがあったことが分かります。
劇中何度か取り上げられる2004年のコメディ映画『最凶女装計画』は、黒人のFBI捜査官の兄弟が、警護対象の白人姉妹になりすますために女装をして任務を続けるというストーリーで、特殊メイクを用いた白人女性へのなりきりぶりの見事さが当時話題になりました。
旅の道中で、何度かこの映画が引用されるのは、エンディングに備えたフリであった事がラストに分かりますが、本作の驚くべきところは、従来の映画がテーマとするような社会批評性が内向的で、表層的に批評すると中身のない空っぽな映画に思えてしまうことです。
即物性をまとった映画
「ジャッカス」の映画シリーズが、一般人をターゲットにしたドッキリ動画まとめ的なモノだったのに対し、「ボラット」二作は一般人にドッキリを仕掛けつつ、映画のストーリーは社会問題を風刺しているという二重の批評性を持っていました。
本作はどちらでもありません。
街中にどっきりの舞台を設定し、居合わせた通行人たちに見せることで、仲裁に入る人や仰天してドン引きする人など、人々の反応を含めて成立する映画ではあります。
第三者が介入することを前提としている点では「ジャッカス」や「ボラット」と共通するものの、映画のストーリー自体に登場人物以外は関係してこない、独立したドラマと一般人の反応とが共存している映画だと言えます。
言い換えると、本作は混在する現実と虚構の線引きがはっきりしている、何がフィクションで何がリアルなリアクションであるか描き分けているのが最大の特徴です。
これは、前述した通り、映画は起承転結が整頓された丁寧な(王道的ともいえる)ドラマを骨組みとしながら、合間合間に繰り広げられるドッキリとそれに反応する一般人の反応が別のドラマを生み出していることを意味します。
サブタイトルの通り、フロリダからニューヨークにかけてアメリカを横断していく中で、それぞれの州で異なる層の人々へそれぞれ異なるドッキリを仕掛けていきます。
ドッキリは全て突発的なもので、ビックリ箱のような衝撃を観客と仕掛けられた人々に与えます。
いたるところでドッキリを仕掛けていく中、明らかになっていくのが、仕掛けられる一般人が場所によってはアフリカ系、反対に白人が集中して、それぞれ限定されていること。
エリック・アンドレは自身がホストを務めるトークショーにおいてゲストに積極的に有色人種を呼んできました。
ある意味彼のトークショーの劇場版ともいえる本作では、一度彼が外へ出てドッキリを仕掛けるとなると、ターゲットとなる一般人の群れが、人種ごとに分かれていたのです。
これは本作が意図して郊外における事実上の人種隔離を描いているわけではなく、結果としてそう見えているに過ぎません。即物的な笑いが図らずも批評性を纏ってしまったのです。
本作は、ドッキリを仕掛けられた人々の反応だけを抽出しています。
「ボラット」やマイケル・ムーア監督作との違いは、一般人をだますことでしか引き出すことが出来ないその人の内面、本音を描こうとはしていません。
エリック・アンドレの笑いが突発的であるように、一般人にある瞬発力をこそ描こうとしていました。
驚きのあまり、絶叫してその場を立ち去る人がいれば、ただ茫然と彼らの姿に呆れるだけの人々(傾向として一番多いです)、彼らを本気で心配して助け出そうとする良心的な人々。
見るからに凶悪そうなトレアの脱獄を何となく手助けしてしまう人もいれば、面白がって彼女に協力してしまう人もいます。
「反射的なリアクションこそが一番面白い」ということをエリック・アンドレは分かっているのでしょう。
まとめ
過激派YouTuberのドッキリ企画やテレビ番組のドッキリが先鋭化し、人を貶めることで生まれる笑いが退廃的とされるようになった今の時代、誰も傷つけない笑いを模索することが難題となりました。
本作のドッキリは、仕掛け人本人が自傷行為、自虐的な行いをすることによって笑いを生んでいます。
決してそれが、先進的な意識のもとに生み出されている高尚なものであるとは言えませんが、受け手側の意識を汲み取った自在に可動する相反的な笑いであると考えることは出来ます。
最近はストリーミング、VOD時代になり、映画が手軽に何本でも自由に観られるようになりました。
しかし、いざ観ようとすると、腰を上げるのがしんどくなってしまうことがあります。手軽さを手にした反面、映画を観るフットワーク、気軽さを失ってしまっているのでしょう。
気付けば何度も繰り返し観たコメディ番組をループする毎日。失われなかったコメディの手軽さが本作にもあり、比較的手が伸びやすい作品に違いありません。
そんな手軽い作品に無意識が生む相反的な笑いがありました。