ジョージ・A・ロメロ監督『ランド・オブ・ザ・デッド』考察解説。
現在に至るまでの全てのゾンビ映画が影響を受けた、もとい、映画史を塗り替えたと言っても過言ではない名作映画『ゾンビ(原題:Dawn of the Dead)』(1978)は『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968)と『死霊のえじき(原題:Day of the Dead)』(85年)の間に挟まれたロメロ三部作として多くの映画ファンに知られており、派生したゾンビ映画がタイトルに「~オブ・ザ・デッド」とつけることがお約束となっていきました。
言い換えるとこれはロメロ三部作がゾンビ映画において正統であることを証明しています。
しかし、その後しばらくのブランクを経て、立て続けに製作された『ランド・オブ・ザ・デッド』(2005)『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』(2007)『サバイバル・オブ・ザ・デッド』(2009)をまとめて続ロメロ三部作と呼称することはなく、合わせた6作品をまとめて語られる機会も多くありません。
これには1990年代以降、ロメロ三部作が異なるかたちで3作ともリメイクされたことが影響していると考えられます。それもあってか、以降の作品はまとまったシリーズとしてカウントされなくなり、続編には2などの表記がされるようになりました。
前作『死霊のえじき(原題:Day of the Dead)』(1985)から20年の時を経て製作された今作では本質的な終息の存在しないゾンビアポカリプスのその後の社会を描きます。
労働者階級のメタファーとして、ドラキュラやミイラ、フランケンシュタインの怪物よりも一般市民に身近なモンスターであるゾンビ。
近未来を舞台に描いた、労働者階級を囲う覇権主義のディストピア世界はゾンビの姿を通して、現実社会の今後に対する啓示を施しています。
CONTENTS
映画『ランド・オブ・ザ・デッド』の作品情報
【公開】
2005年(アメリカ映画)
【原題】
Land of the Dead
【脚本・監督】
ジョージ・A・ロメロ
【キャスト】
サイモン・ベイカー、ジョン・レグイザモ、デニス・ホッパー、アーシア・アルジェント、ロバート・ジョイ、ユージン・クラーク、ジョアンナ・ボーランド、トニー・ナッポ、ジェニファー・バクスター、トニー・マンチ、マックス・マケイブ、ペドロ・ミゲール・アリセ、クリスティナ・ブリッジ、サシャ・ロイツ、ブルース・マクフィー、フィル・ホンダカーロ、ショーン・ロバーツ、アラン・ヴァン・スプラング
【作品概要】
前三部作はそれぞれ1960年代、70年代、80年代に製作された映画で、カウンターカルチャーの挫折、大量消費社会への風刺、軍国主義へと向かうアメリカと、時代性をまとった題材を取り扱っていました。
そして今作では21世紀を迎え、911同時多発テロ事件を経たアメリカが直面するイラク攻撃、国内の経済格差を題材にしています。
シリーズの特徴としては、メインキャラクターがシリーズをまたぐことなく、緩やかに世界観と設定を踏襲するなどが挙げられ、今作も前作から歳月がたち、人類は(限定的な空間ではあるものの)経済活動を復興させ、酒や葉巻といった嗜好品をたしなむ程度には文明社会を築きあげています。
2000年代には『ドーン・オブ・ザ・デッド』(2004)「バイオハザード」シリーズ(2002年~)のアンデッドなどの走るゾンビ映画や『アイアムレジェンド』(2007)のヴァンパイアなど従来のゾンビに近似したキャラクターの登場により、ロメロ以降の近代ゾンビをゾンビたらしめるアイデンティティにゆらぎが生じはじめていました。
映画におけるゾンビのあるべき姿、既にクラシックとなっている近代ゾンビのすがたを正しく描こうという意気込みは冒頭のユニバーサル映画のロゴがモノクロの最初期版であることからも伝わってきます。
映画『ランド・オブ・ザ・デッド』のあらすじとネタバレ
死んだはずの人々が蘇り人間の肉を求めて街をさまようゾンビパンデミックが発生してからしばらくの時が経った近未来のフィラデルフィア。
人々は要塞化した大都市に基地を設け、周辺の小さな町に物資を調達しに行きながら、何とか生活を成り立たせていました。
そして都市の中央にそびえたつ高層ビル フィドラーズ・グリーンには一部の金持ち、権力者のみが住居を構え、高級な生活を満喫していました。
生前ガソリンスタンドで働いていたゾンビのビッグダディは、自分が何をしているのかもわからないまま、店先で給油パイプを握りしめ、メーターをチェックしていました。
物資調達のために周辺地域をパトロールしていたライリーは、後からついてきたチャーリーと合流し、対ゾンビ用装甲車デッド・レコニング号に乗り行動を共にします。
「今夜で最後だ」街を離れ静かに暮らしたい彼はそう言います。彼らは無駄にゾンビを殺すことなく生活必需品のみを調達し、速やかに基地へ戻ろうとしますが、チョロは「今夜で最後だ」と自分に言い聞かせながらバイク部隊を率いて別行動をします。通りに群がるゾンビを薙ぎ払いながらバイクは進みます。
ビッグダディは自分と同じようにわけも分からず辺りを徘徊するゾンビたちが無残に肉塊となっていく姿を目にし、言葉にできない気持ちを高ぶらせるのでした。
チョロたちバイク部隊は街のはずれにある酒屋へ高級バーボンや葉巻など調達をしに行ったのでした。仲間の一人がゾンビに噛まれたバイク部隊。そこへ駆けつけたライリーは何とか介抱をしようとしますが、噛まれた若者は自ら銃口を咥え、その場で自決するのでした。
酒の故買ごときで無駄な人死にを出したとライリーはチョロを責めます。
「この酒は新しい仲間との祝杯に必要なんだ」チョロは貢物を持って都市を牛耳るカウフマンのもとへむかいます。彼に取り入れば自分も高層ビルに住居を持てるかもしれない。しかしチョロの努力は虚しく、カウフマンは彼を邪険にします。
一方庶民の住むスラム街は依然と荒廃しており、ゾンビと人間を檻に入れ、賭けの対象にするなど刹那的な日々を過ごしていました。
ライリーはゾンビに襲われそうになっている売春婦のスラックを助けます。場内で発砲したことで警察に連行されるライリーとチャーリー、そしてスラック。
そのころチョロはカウフマンに復讐するためにデッド・レコニング号に乗り込み、ビルの爆破を試みます。時を同じくしてビッグダディが仲間を引き連れ居住区へ乗り込みます。守衛から偶発的に強奪した銃で彼は射撃することを覚えました。
ビル爆破の前に金銭での取引を提案するチョロ。どちらにせよ助からないと考えたカウフマンは拘留中のライリーたちにチョロの暗殺を依頼します。黙って従うライリー。
彼はチョロからデッド・レコニング号を強奪して、都市からの脱出を考えていました。
映画『ランド・オブ・ザ・デッド』の感想と評価
『ウォーキングデッド』『ワールド・ウォー・Z』以前の最後期作品
今となっては思い出しにくい時代の話ですが、一昔前の2000年代初頭は莫大な予算をかけて製作されるほど、ゾンビ映画ジャンルが稼げるコンテンツとみなされていませんでした。
いわば“超大作ゾンビ映画台頭の夜明け前”で、進化態や変異種などゾンビバリエーションも数少なく、ゾンビ自体の特性にさほど意味を持たせていませんでした。
というのも、生前の習慣を無意識下で反芻するような“徘徊ゾンビ”などは何か目的を持って行動をしておらず、何をするわけでもなくその辺に佇んでおり、登場するゾンビのすべてが人肉をむさぼる怪物ではありませんでした。これは史上初のゾンビ映画である『恐怖城(旧邦題:ホワイトゾンビ)』(1932)などロメロ以前の古典ブードゥー系ゾンビの流れをも汲んでいるからであり、労働力として死者の体を使うという点では、中国のキョンシーなどに近い概念でもあると言えます。
参考映像:『恐怖城(旧邦題:ホワイトゾンビ / 1932)』
また、今ではひとむかし前の表現に思える「走らないゾンビ」ですが、これは決して古びたものでなく、理にかなっているということが今作を観ると分かります。
「走らない」理由は殺人鬼ホラーなどにも共通する理屈ですが、命からがら逃げる人を描く“すきま”を作るためです。「喰われたくない、死にたくない」そんな極限の状態がサスペンスの緊張を盛り上げ、罠や作戦など仕掛けを盛り込むこともできます。
そして走らない昔のゾンビのも解釈を拡大させる余地がありました。息をしていないから水中で活動できるという点です。大陸間を移動できるという描写は革命的であったと言えます。
派生作品と本家続編が並立する時代
参考映像:『バタリアン』(1985)
冒頭にも書きましたがロメロだけでも「~・オブ・ザ・デッド」という映画は6作品あります。またそれ以外に派生した「~オブ・ザ・デッド」は数多くあり、『バタリアン(原題:Return of the Dead)』や『ショーン・オブ・ザ・デッド』などが有名です。
その全てがロメロ作品に影響を受けて作られているわけですが、そういった自身の後続が生まれて久しい時代に本家本元が満を持して作った映画が本作『ランド・オブ・ザ・デッド』なのです。
そんな今作は良い意味で、気合が入っていません。ハリウッド超大作のメソッドに合わせることなく、自分らしさが行き届く範囲でのびのびと作られています。
ロメロ監督にあるのは、いつだって即物的な見世物根性。ただ怖いだけのアトラクション的映画ではなく、奥に社会派なテーマを含んだ深い映画。それでいて、表面にはあっと驚く仕掛けが満載の二層仕立て。そんな映画作りを続けてきたからこそ、二流と嘲笑されるようなジャンル映画に一流の硬派な映画をも凌駕する味わい深い魅力が生まれたのでしょう。
そういったフォーマットがタイトルと共に他ゾンビ映画に踏襲されていくことで、「ゾンビ映画はぱっと見で面白く、楽しい。それでいてテーマが作品の奥行きを感じさせる」といった一般認識を広めることが出来たのでしょう。
本作おける見世物的見どころはズバリ、「バトルトラックアクション」です。
バトルトラックモノは「ワイルドスピード」シリーズ(2001)やSF・アメコミヒーロー映画の乱立によってさほど珍しくないジャンルとなりましたが、M60D機関銃やガトリング、ロケットランチャ―といった物騒な武器の数々を人間でない相手に対し臆面もなく披露しています。
「避難する人間たちを守るため」という名目で主人公たち人間ヒーローチームは次から次へとゾンビの群れを虐殺していきます。残骸を前にたたずむ主人公を通し、英雄的行動の裏側に確かにある生々しく残酷な暴力のありさまを描いています。
「被害意識」と「報復」というテーマに対する製作者の真摯な姿勢がうかがえる名シーンです。
まとめ
世相が反映されたゾンビ映画は、その時代におけるニュースの役割を果たしています。80年代に製作された前作『死霊のえじき』を観れば、1980年代の社会情勢が分かりますし、ゾンビというフィクションに置き換えることによって現実以上に当時の空気感を伝えているとも言えます。
『ランド・オブ・ザ・デッド』は上映時間も短く、後半見せ場に次ぐ見せ場のつるべ打ちで一瞬も退屈させる暇がありません。サクッと観れて、楽しい。それに加えて主人公たちの英雄的行動すら、少し突き放した視点から描くことで鑑賞後に何とも言えない余韻を残します。
それは後味の悪さでは決してありません。昨今のサバイバル映画などでは、ラストを抒情たっぷりに描き、登場人物たちの心情に寄り添うだけの十分な時間が映画に与えられています。
そういった映画のすべてが悪いとは言いませんが、本作と比較すると、観客がテーマの要点を掴みかけた途端に終わりを迎える映画が持つ訴求効果には目を見張るものがあると気付かされます。
抒情よりも物語的にひと段落ついた段階で潔く幕を閉じる映画がいかに素晴らしいか。
映画の余韻は本編の中にあるわけではなく、観終わった人それぞれの生活の中にあるのです。そんな映画をカタルシスのある良い映画と呼ぶのではないでしょうか。