稲垣吾郎、二階堂ふみがW主演を果たして描く映画『ばるぼら』
1973年から1974年まで、漫画雑誌「ビッグコミック」で連載されていた、手塚治虫の漫画『ばるぼら』。
複雑で独特の作風である事から、長年「映像化不可能」とされていた『ばるぼら』を、息子の手塚眞が実写映画化。
稲垣吾郎と二階堂ふみが主演を務め、唯一無二の世界観で表現される、大人のおとぎ話とも呼べる作品となった映画『ばるぼら』の、漫画とは違う、映像作品だからこその魅力をご紹介します。
映画『ばるぼら』の作品情報
【公開】
2020年公開(日本・ドイツ・イギリス合作映画)
【原作】
手塚治虫
【監督】
手塚眞
【脚本】
黒沢久子
【撮影監督】
クリストファー・ドイル
【キャスト】
稲垣吾郎、二階堂ふみ、渋川清彦、石橋静河、美波、大谷亮介、ISSAY、片山萌美、渡辺えり
【作品概要】
自身を「ばるぼら」と名乗る不思議な女に出会った美倉洋介の視点から、幻のような世界が繰り広げられる、大人のラブストーリー映画『ばるぼら』。
手塚治虫の原作漫画を、高校時代から映画制作を始め、1999年の映画『白痴』など、幻想的な作風が高い評価を受けている、手塚眞が映像化。
主人公の美倉洋介を演じるのは、2010年の映画『十三人の刺客』で、悪役として強烈な存在感を示し、2019年の映画『半世界』で主演を務めるなど、俳優として高い評価を得ている稲垣吾郎。
美倉を翻弄する謎の女性、ばるぼらを、2009年の映画『ガマの油』で映画デビューし、2019年の映画『翔んで埼玉』などの話題作に、数多く出演している二階堂ふみが演じています。
映画『ばるぼら』のあらすじ
小説家として成功し、人気も地位も手に入れた男、美倉洋介。
しかし美倉は、自身の小説の内容の薄さに、コンプレックスを抱ており「読者が自分を馬鹿にしている」という妄想に苦しんでいました。
そんな時、新宿のガード下で、アルコールに溺れて、ゴミのように倒れかけていた女性、ばるぼらと出会います。
ばるぼらに興味を持った美倉は、自宅にばるぼらを招きます。
しかし、ばるぼらは美倉の小説を馬鹿にし、嘲笑った事から、激高した美倉は、ばるぼらを追い出します。
美倉は同期の小説家、四谷が賞を受賞した事で、パーティーに出席します。
その会場で、政治家の里美権八郎の娘で婚約者の、里美志賀子に、父親を紹介されますが、気乗りしない美倉は、パーティー会場を後にします。
会場からの帰り道、美倉は偶然通りかかったブティックの女性店員と、店内で肉体関係を持ちますが、突如現れたばるぼらに女性は殴られます。
殴られた女性は、首が取れてしまい、美倉は驚きますが、女性店員は美倉が作り出した妄想で、美倉は店内のマネキンを抱いていました。
ばるぼらと共に、ブティックから逃げ出した美倉は、ばるぼらに「性欲が溜まっているんじゃないか?」とからかわれます。
美倉は、志賀子に呼び出され、権八郎と食事を共にします。
その際に、美倉は権八郎に「後援会の会長になってほしい」と依頼されます。
悩んだ美倉は、料亭の庭にいた志賀子と庭の中を散歩しますが、志賀子の誘惑に乗り、庭の中で性行為を始めます。
ですが、そこにもばるぼらが現れ、志賀子の後頭部を殴ります。
美倉が我にかえると、志賀子だと思っていたのは、志賀子が飼っていた犬でした。
ばるぼらと料亭から逃げ帰った美倉は、自身を抑制する為、ばるぼらとの共同生活を開始します。
美倉は、ばるぼらに心から溺れるようになっていき「いつか、お前の小説を書いてやる」と約束します。
ですが、それは美倉にとって破滅への入り口でした。
映画『ばるぼら』感想と評価
謎の女性、ばるぼらと出会った事で、破滅に向かっていく男、美倉洋介の姿を描いた映画『ばるぼら』。
本作は、主人公である美倉の視点で物語が進んでいきます。
ですが、人気小説家として成功し、地位も名誉も手に入れたはずの美倉は、逆に商業作品しか書けなくなっている自分にコンプレックスを抱いています。
コンプレックスから、マネキンや犬が女性に見えてしまう、不安定な精神状況となっているのですが、その美倉目線で語られる本作は、現実と幻想が入り混じれる、独特の世界を持つ作風となっています。
この世界を成立させるには、メインの美倉洋介を誰が演じるか?が重要な部分だったと思います。
手塚眞監督は「第32回東京国際映画祭」のインタビューで「なかなか受けてくれる役者がおらず、キャスティングは難航した」事を語っていますが、この世界観を背負える役者は、そうはいないでしょう。
美倉洋介は、常にサングラスをして街を歩き、ジャズを聞きながら高いお酒を飲んで、小説を執筆するという、1つ間違えると時代遅れのカッコよさから、逆に笑えてしまう可能性もあるキャラクターです。
ですが、美倉洋介のキャラクターが成立しない事には、『ばるぼら』という映画の世界観はブチ壊しになってしまいます。
その点で言うと、主演の稲垣吾郎は、どこか現実離れした存在感を放っており「美倉洋介を成立させる事が出来るのは、この人以外にいない」という印象すら持ちました。
その美倉洋介を惑わす存在である、ばるぼらは、自由で天真爛漫ながら、時には男性を誘惑する妖艶さを持つという、これも現実離れした存在です。
このばるぼらを、二階堂ふみが体当たりで演じており、過激な描写も自身で挑むという熱意を見せています。
稲垣吾郎と二階堂ふみ、2人の俳優の存在感が、漫画とは違う映画としての『ばるぼら』を魅力的に作り上げています。
本作の物語の主軸は「ばるぼらとは何者なのか?」という部分ですが、作中で美倉が語る「ミューズ」という表現がピッタリではないかと思いますし、間違いなく作中では、ばるぼらは「ミューズ」として描かれています。
「ミューズ」は、芸術家にインスピレーションを与える女神とされています。
美倉は、商業小説家として成功していますが、内容の薄い小説を執筆している自分に嫌気がさし、逆に芸術家としては苦悩を抱えています。
その前に現れたばるぼらは、美倉が大事に飲んでいた高級なお酒をラッパ飲みし、汚い服のまま高級ベッドに寝そべるという、タワーマンションに住み、スタイリッシュな生活を送る美倉を、汚していく事から始めます。
最終的に、ばるぼらと行き着いた山小屋で、美倉はばるぼらを失った悲しみと、飢えを感じながら、尋常ではない精神状況で執筆を開始します。
美倉が芸術家として執筆をするには、この異常な状況が必要だったという事です。
美倉の生活を汚し、全てを破壊したばるぼらですが、美倉に芸術家としての目覚めを与えたと言えます。
他者から見ると、とんでもない話かもしれませんが、狂気的とも言える迫力で執筆を開始する、ラストの美倉からは幸福感すら漂います。
映画はそこで終了しますが、自身が追い求めていた、芸術家として目覚めた事が、美倉にとっては大切な事で「その後、どうなったか?」は本作において重要な事ではないのです。
美倉のその後に関しては、観客が想像するべきで、原作と違う解釈をする人もいるでしょう。
それが、映像作品としての『ばるぼら』の楽しみ方とも言えます。
まとめ
幻想と現実が入り混じる映画『ばるぼら』。
作中で、現実を象徴する演出として、リアルな新宿の街の映像が随所に入っています。
この新宿の街に、現実離れした存在である美倉とばるぼらが存在するだけで、芸術作品のような、不思議で魅力のある構図になっており、幻想と現実が入り混じる世界観を引き立てています。
手塚眞監督は、父親である手塚治虫の漫画とは違う、映画としての『ばるぼら』を、映像が持つ力で見事に表現しています。
本作を複雑で破滅的な作風だと感じる人もいるかも知れませんが、手塚監督が目指したのはシンプルなラブストーリーで、稲垣吾郎と二階堂ふみだからこそ成立した、幻のような世界観は、本作だからこそ楽しめる唯一無二の作風となっています。