映画『his』は新宿武蔵野館ほか全国公開!
『愛がなんだ』、『アイネクライネナハトムジーク』など、精力的に作品を発表している今泉力哉監督が新境地に挑んだ意欲作『his』。
テレビドラマ『偽装不倫』でセンセーションを巻き起こした宮沢氷魚がゲイだと知られることを恐れ田舎で孤独に暮らしている青年・迅に扮し、迅が恋い焦がれる相手・渚を『ケンとカズ』、『全員死刑』の藤原季節が演じています。
男性同士の恋愛を通して、彼ら自身の葛藤や周囲の人々に及ばす波紋を描き、親子、家族の問題にも踏み込んだヒューマンドラマです。
映画『his』の作品情報
【公開】
2020年公開(日本映画)
【監督】
今泉力哉
【キャスト】
宮沢氷魚、藤原季節、松本若菜、松本穂香、外村紗玖良、中村久美、鈴木慶一、根岸季衣、堀部圭亮、戸田恵子
【作品概要】
恋愛映画の旗手・今泉力哉監督が、連続ドラマ「偽装不倫」でセンセーションを巻き起こした宮沢氷魚と『ケンとカズ』、『全員死刑』の藤原季節を主演に、男性同士の恋愛と家族の形を描く。
企画・脚本を担当したのは、テレビドラマや漫画原作などで活躍しているアサダアツシ。連続ドラマ「his〜恋するつもりなんてなかった〜」(2019)を前日譚に、映画では大人になった彼らのその後が描かれている。
映画『his』あらすじとネタバレ
大学生の井川迅は高校時代に出逢った日比野渚と恋に落ち同棲していましたが、ある日、突然、別れを切り出されます。
8年後、迅は周囲にゲイだと知られることを恐れ、岐阜の田舎で自給自足のひとり暮らしをしていました。ほとんど近所付き合いもせず孤独な日々を送っていましたが、唯一、猟師の緒方にだけは心を許していました。緒方は肉をわけてくれ、そのお礼に迅は収穫した野菜を持っていくのでした。
そんなある日、6歳の娘・空を連れた渚が突然迅を訪ねてきました。迅は戸惑いを隠せません。
渚は、迅と別れた後、玲奈という女性と出逢い、結婚。娘が生まれた時は、“普通”になれたと思ったと言います。仕事に忙しい妻に代わり、家事や育児に専念してきたものの、自分が本当に好きなのは迅だということがわかり、妻に打ち明けて今は離婚調停中なのだそうです。
「しばらくの間、居候させて欲しい」と言う渚に、「俺はどういう立場で子育てすればいいわけ?」と迅は苛立つ気持ちをぶつけ、心を開こうとしません。
しかし空に懐かれ、彼も次第に3人の生活を受け入れるようになっていきます。空を中心に、迅も渚も町の人たちと交流する機会が増えてきました。そんなある日、玲奈が車でやって来て空を東京に連れ戻してしまいます。
落ち込む渚に対して、迅は「渚と空ちゃんと三人で一緒に暮らしたい」と言って、渚への愛を素直に伝えるのでした。
玲奈はフリーランスの通訳をしながら、空の面倒を見ていましたが、スカイプで大事な打ち合わせの際に空が声をかけてくるのにイライラしてつい叱ってしまいます。思わず平手打ちをしてしまい、自分でもはっとして空を抱きしめると「ごめんなさい」を繰り返すのでした。
また別の日には、疲れて睡魔に襲われているところに光が来て、遊びに行きたいと言いますが、玲奈はそのまま起き上がろうとはしませんでした。
空はひとりで町中に出てきて迷子になってしまいます。警察から電話がかかってきてびっくりした渚は空を迎えにいきました。
こうしてまた空は渚と迅のところに戻ってきました。渚が離婚調停の件で弁護士に会いに行っている時、迅は、美里という女性から付き合ってほしいと告白されます。
思ってもいなかったので驚く迅でしたが、「ありがとう。でも、ごめんなさい」と丁寧に断りました。 美里は、「気まずくなるのはいやなのでこれからも今まで通り接してくださいね」と気丈に言うのでした。
ある夜、台所で迅と渚がキスしていると、寝ぼけて起きてきた空がそれを見ていました。渚はあわてて空を抱きかかえて部屋につれていきました。
空が友だちに渚と迅がキスしていたことを話したために「男同士なんてそんなのおかしいよ」とからかわれていました。
町の人々にもそのことを知られることとなり、迅も渚も戸惑います。そんな中、緒方は迅を猟に連れ出しました。
山のてっぺんにあがった緒方は小さな町を見下ろしながら言うのでした。「町のもんはみんな噂好きだ。でも本当に悪いやつはいない。よそから来る人が昔から多かったからよそもんには優しい。毅然とほっといたらいいで。誰が誰を好きになろうとその人の勝手や。好きに生きたらいい」
カサコソとなにかが動く音がして、緒方は猟銃を構え、撃ちました。
それからまもなく緒方がぽっくりと亡くなってしまいました。葬式のあと、渚は町の人に「あんたら男同士でつきあってるんか」と問われ、「違いますよ」と笑って応えていました。
迅は突然立ち上がり「みなさん、話を聞いてもらえますか?」と呼びかけました。
迅は自分がゲイであると述べ、「誰とも付き合わなければ傷つくこともないと生活してきましたが、ここに来て、みなさんに親切にされて、優しくないのは世界じゃなくて自分だと知りました。僕は日比野渚のことを愛しています」と告白しました。
ひとりの老人が「この年になったら男も女もわからんし、どっちでもいいわ」と朗らかに言い、皆はそれ以上何もいわず迅と渚を受け入れてくれました。
映画『his』の感想と評価
「普通とは違う」「普通ではない」「特殊である」といった言葉が映画の中で何度も登場します。それは役所の役人や、離婚調停を担当する弁護士や、酒に酔った会社の仲間たちの口から出たものです。
この「普通」という言葉はなんと人間を惑わせるものなのでしょう。そもそも渚が、迅から離れ、玲奈と恋愛し、空が生まれたのも、彼が「普通」という言葉にとらわれていたからです。
渚がとった行動は確かに自分勝手なものです。彼のせいで迅も玲奈もそして空も傷つけられたのです。ですが、若かった彼が同性愛者として生きることに迷い、普通になれるものなら普通になりたいと考えたのも理解できないことではありません。
“普通”ではないと人から見られることの居心地の悪さに耐えきれなくて、個性を隠してなんとか人と同じように生きようとすることは珍しいことではありません。普通という範囲から逸脱することを決して許そうとしない“圧力”がこの社会には存在するからです。
それにしても普通とは一体何を基準にいうのでしょうか。常識と言われていることが果たして本当に全ての人にとって同じ基準で成立しているのでしょうか?
映画『his』はこうした問いかけを LGBTQの観点から行うと同時に、夫婦の在り方や、子育てといった家族間の問題、さらには、寛容であるための社会の在り方にまで範囲を広げて描いています。
迅と渚が暮らす岐阜県の小さな町の住人たちは迅と渚を暖かく迎え入れ、ある意味理想のコミュニティーとして登場します。昔から外からくる人々を迎え入れてきた地域であるということが語られることでその地域の住民が持つ“寛容さ”に説得力をもたらしていますが、迅と渚という人間を知っていたからこそ、彼らの人柄に触れていたからこそ、彼らは寛容でいられたのではないでしょうか。
社会にはびこる偏見や、その偏見で人を傷つける暴力性はそう簡単に解決できる問題ではないでしょう。でも、仮に偏見があったとしても相手の人間性に触れる機会があれば、人は寛容になることができるのだという可能性がここでは提示されているのです。
そしてもう一つ、離婚調停の際に、妻に対して渚が取る行動が本作の大切なテーマになっています。
離婚調停シーンはノア・バームバックの『マリッジ・ストーリー』(2019)を思い出させます。親権を争う裁判は互いを必要以上に傷つけ合う場です。
そんな中で、渚が弁護士の追求を止めて妻をいたわり、自身が彼女を傷つけたことを心から詫び、さらに「ありがとう」とお礼を述べるシーンにぐっと心を持っていかれました。
なぜなら、人はなかなかこうした行動が取れないからです。人は常に他者に対して“思いやりを持とう”としているのに、肝心なところで、相手を思いやれなかったり、自己保身に走ったり、自己の加害性をなかなか認めなかったりするものです。
「ごめんなさい。そしてありがとう」という言葉があるだけで、どれだけの争いが世の中からなくなることでしょう。
“思いやり”や“まごころ”などというと、そのあまりにもベタな言葉の響きに少し気恥ずかしくもなりますが、そうした気持ちの大切さを映画『his』は改めて思い出させてくれるのです。
まとめ
本作と同時期に公開されている今泉力哉監督の『mellow』(2020)は、脚本も今泉監督自身が書いていて、今泉監督作品らしい、恋愛中の人間の行動や言動のそこはかとないおかしみがユーモラスに描かれていました。
『his』は、アサダアツシが脚本を担当しており、いつもの今泉監督作品と比べると、ユーモラスな味わいというものはあまりありません。
しかし、先に述べたように作品中のメッセージが厚く心を打つと同時に、そのメッセージをあくまでも映画の中で生きる人々の日常の生活の一編として溶け込ませ、偶像劇として幾人もの人生を慈しむように描く様子は、いつもの今泉監督作品と同じです。
宮沢氷魚、藤原季節、松本若菜を始め、俳優たちが演じたこの愛すべき人々がまるで自分の日常にもふらっと現れるような、そんな錯覚さえ覚えさせる暖かな作品に仕上がっています。