映画『聖なる泉の少女』は2019年8月24日(土)より岩波ホールでロードショー、全国順次公開!
ヨーロッパ・ジョージアの美しい山々を舞台に、古来からの風土、風習を守る一人の娘と、その父の姿を描いた『聖なる泉の少女』は、長きにわたって築き上げられた文化に、対立する現代文明への異議を唱えています。
本作は、ジョージア出身のザザ・ハルヴァシ監督が手掛けた4作目の長編作品。
空気の音が聞こえてきそうなほど静かな自然の中で、古来からの人と自然の精神的な関係、そしてそれを大きく変えようとする現代文明との関係を描き、この美しい風景に対する人、文化の在り方を問うています。
CONTENTS
映画『聖なる泉の少女』の作品情報
【日本公開】
2019年(ジョージア(グルジア)・リトアニア合作映画)
【英題】
『NAMME』
【監督】
ザザ・ハルヴァシ
【キャスト】
マリスカ・ディアサミゼ、アレコ・アバシゼ、エドナル・ボルクヴァゼ、ラマズ・ボルクヴァゼ、ロイン・スルマニゼ
【作品概要】
ジョージアのアチャラ地方に伝わる物語を基にした、聖なる泉を守る一家の姿を描いた物語。自然と人との精神的な関係を通し、現在の文明に異議を投げかけます。演出をしたのは本作が長編4作目となるザザ・ハルヴァシ監督。
出演はマリスカ・ディアサミゼ、アレコ・アバシゼら。また第30回東京国際映画祭でコンペティション部門にノミネートされ、2018年にはアカデミー賞外国語映画賞ジョージア代表作として選出、2019年には全米映画監督協会賞、スポットライト賞を受賞と、高い評価を受けています。
映画『聖なる泉の少女』のあらすじ
ジョージア(グルジア)の南西部、トルコとの国境を接するアチャラ地方の山深い村。物語は、その中にある美しい渓谷に発生した、かすかな異変の兆候から幕を開けます。
山奥にある一軒家に、主人公の娘・ツィナメ(ナーメ)は、父とともに住んでしました。
村には人々の心身の傷を癒してきた聖なる泉があり、ナーメの家族は先祖代々、泉を守り、その泉の水による治療を行ってきました。
例えば具合が悪くなった患者を連れてきては、その泉の水を飲ませる。すると不思議なことに体調が回復することも。その効果がはっきり立証されていたわけではありませんが、村の人たちはその泉の神聖さを信じていました。
しかし泉を守る儀礼を行う父親は老い、三人の息子はそれぞれ、キリスト教の一派であるジョージア正教の神父、イスラム教の聖職者、そして、無神論の科学者と、泉を守る人生とは異なる道を歩んでいました。
そして父親は、一家の使命を末娘のナーメに継がせようとしていました。
その宿命に思い悩むナーメ。また彼女は。ある日村を訪れた青年に淡い恋心も抱き、他の娘のように自由に生きることにも憧れ、さらに自分の道に苦しみを覚えるのでした。
そんなある日、川の上流に水力発電所が建設され、少しずつ山の水に影響を及ぼしていました。そしてその影響は泉へ、そしてそこに住む一匹の魚へと伝わってきたことに、父とナーメは気づくのでした…
映画『聖なる泉の少女』の感想と評価
物語を描き出すジョージアの風景
本作のテーマは、自然と人のスピリチュアルな交流を描く中で、いにしえから伝えられてきた風景、また文化を無いものっするかに見える現代文明に向けて、何らかのメッセージを投げかけるというもの。
その観客への問いかけを絶対的な存在感を見せているのが、このジョージアの風景です。
この国は古来から様々な国からの侵攻を受け、つい2008年頃まで争いが続いており、長く不安定な情勢が続いた国であります。
それだけに2008年以降、この10年に起きた国の変化はかなり目覚ましいもの。しかしそんな苛酷な歴史の中でも、この国は独自の言語と文字、信仰、伝統などを大切にしてきました。
物語で映し出される雄大な風景には、“新たな流れによる変化の中でも、守るべきものがある”そのような思いが込められています。
人物同士が対峙する場面もありますが、同時に映し出されている映像の風景は単なる背景ではない、物語のカギを握る重要な存在であります。
また出品された東京国際映画祭やトビリシ映画祭では、立ち見が出るほどの満員にもかかわらず、皆物音ひとつ立てずに作品に見入っていたといわれており、ハルヴァシ監督自身も「私は映像の芸術で、言葉の芸術ではない」と語られ、作品の中における画の重要性を説いています。
霧に包まれた山の風景、あるいは天気に恵まれた鮮やかな風景と、この作品ではそれぞれのシーンにおいて、ジョージアの雄大な風景を映し出します。その映像に切り取られた景観は、ときに息をのむような美しさで、見ている人をぐっと引き付ける魅力を持っています。
上部に貼り出している湖上のシーンは物語のラストに映し出されるものですが、そのスクリーンで見られる画の美しさと展開に、見る人はきっと圧倒されることでしょう。
局所的な音列が表現する異文化
この作品には、ほとんど音がありません。音といえば、大部分が映画に登場するジョージアの人たちの生活音です。
BGM、効果音といったものがない中で、唯一音楽的に鳴ってくる旋律があります。それは3人の兄弟がある日集まった際に歌を唄うシーン。
ここで披露されるのは民謡のようなメロディですが、何らかの詞を紡いでいるわけでもなく、3人それぞれがいつもリハーサルをしているかの如くピッタリと複雑なハーモニーが歌い上げられます。
物語のシーンの多くはナーメとその父によって描かれますが、3人は彼らの家族で、その3人がこの歌を歌い、展開にアクセントをつけることで物語が現実味を増しています。
3人はキリスト教徒、イスラム教徒、無神論者とそれぞれ番う信仰をもっており、違う場所に住んでいる。そして父、ナーメとは離れて生きており、ある意味ジョージアの古来の文化とは異なる外の世界を表すものと言えます。
そしてここで聴かれる多声音楽によって、ジョージアの古来の空気と外の文化が交わることになります。
単にナーメと父の物語にしてしまうと、伝説のお話に従った山奥の村のとある物語で終わってしまうかもしれません。この3人の歌があることで、物語の奥行きはさらに深くなっているといえます。
善悪という概念を外したテーマ
本作のテーマには、古来の文化をないがしろにする現代文化への異議を唱えるものであると書きましたが、物語には必ずしも何が正しく、何が悪であるという描き方をしていません。
テーマからすると、現代文化は悪で古来の文化は善である、と対抗軸でとらえられがちです。
しかし、物語ではナーメが一人の青年に恋心を抱きながら、その思いを遂げられないという個所などは、ある意味現代文明への移行を仕方のないもの、または必要なものと表現しているようでもあり、あくまで一方の立場に正当性を寄せるような描き方はしていません。
また、ラストシーンではナーメがある一つの行動を起こしますが、これはまさしくその意図を象徴する行動でもあります。
単に“古来のものを絶対けがしてはならない”という意図であれば、物語は全く違ったものになったはず。この作品では問題が簡単に片付けられるものではない、多くの人に様々なことを考えてもらいたいという意図を含んでいるのです。
まとめ
その静寂さと風景の美しさが描く雰囲気に、息をのむ音さえ出すことをためらいたくなるこの作品。
世界的には文化の中心地といえるヨーロッパでも、このような文化が残っている場所があったのかと、新鮮に感じられるかもしれません。
その一方で、物語は単に伝説から一つの出来事を追っているのではなく、国が持つアイデンティティや、あるべき姿などすべてのことに関して、今、改めて考え直してもらえたいと訴えかけているようにも見えます。
それは全く違う文化の中に住む私たちにも、改めて自分たちのルーツを見直す機会を与えてくれているものかもしれません。
映画『聖なる泉の少女』は2019年8月24日(土)より公開されます!