スピルバーグが映像化を断念した、衝撃の史実を映画化!
イタリア史上最大の波紋を呼んだ「エドガルド・モルターラ誘拐事件」を、『甘き人生』(2017)『シチリアーノ 裏切りの美学』(2020)などで知られるマルコ・ベロッキオが映画化。
教皇ピウス9世役を、マルコ・ベロッキオ監督作『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』(2011)に出演したパオロ・ピエロボンが務めました。
1858年、イタリア・ボローニャ。ユダヤ人のモルターラ家にローマ教皇からの使いが現れ「7歳になるエドガルドは洗礼を授けられたので、教会に連れていく」と言います。
カトリック教徒ではない、ユダヤ教徒であるエドガルドが洗礼を受けるはずがないと両親は拒否しますが、権威あるローマ・カトリックを前になすすべもなく、エドガルドは連れ去られてしまいます……。
CONTENTS
映画『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』の作品情報
【日本公開】
2024年(イタリア・フランス・ドイツ合作映画)
【原題】
Rapito(英題:Kidnapped)
【監督・脚本】
マルコ・ベロッキオ
【共同脚本】
スザンナ・ニッキャレッリ、エドゥアルド・アルビナティ
【キャスト】
エネア・サラ、レオナルド・マルテーゼ、パオロ・ピエロボン、ファウスト・ルッソ・アレシ、バルバラ・ロンキ、アンドレア・ゲルペッリ、コッラード・インベルニッツィ、フィリッポ・ティーミ、ファブリツィオ・ジフーニ
【作品概要】
『甘き人生』(2017)『シチリアーノ 裏切りの美学』(2020)などで知られるマルコ・ベロッキオ監督が、イタリア史上最大の波紋をよんだエドガルド・モルターラ誘拐事件を映画化。
教皇ピウス9世役は『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』(2011)のパオロ・ピエロボン、エドガルドの父には『甘き人生』『シチリアーノ 裏切りの美学』をはじめ近年のマルコ・ベロッキオ監督作に出演し、本作が6作目の出演となるファウスト・ルッソ・アレシ。また母役のバルバラ・ロンキも『甘き人生』で監督と共にしています。
少年期のエドガルド役には、オーディションを経て本作が映画デビューとなったエネア・サラが務め、青年期のエドガルド役を『蟻の王』(2023)で映画デビューしたレオナルド・マルテーゼが務めました。
映画『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』のあらすじとネタバレ
1858年、イタリア・ボローニャ。ユダヤ人のモルターラ家に異端審問所警察がやってきます。何事かと動揺するモルターラ夫妻に、息子の一人であるエドガルドが“ある方”により洗礼を授けられたため教会に連れて行くと言い出します。
「私たちはユダヤ人で、ユダヤ教徒だ」と抵抗する両親ですが、当時の教会法で「ユダヤ人の家庭ではカトリック教徒の子どもを育てられない」と定められていました。
「1日だけ猶予をくれ」と父モモロは頼み込み、異端審問所に向かい教会へ連れて行くことを阻止しようとしますが、相手にされません。
何を言っても止められないことを悟ったモモロは「教会に連れて行くだけ、すぐに帰す」という警察の言葉を信じます。そして妻マリアンナと子どもたちに親戚の家に行くように言います。
息子が連れて行かれることを察したマリアンナは取り乱しますが、エドガルドは連れて行かれることに。エドガルドの後を違う馬車で追うと聞いていたモモロでしたが、エドガルドだけ馬車に乗せると、モモロはその場に押さえつけられます。
「話が違う!」と抵抗しても相手にされず、翌日異端審問所に向かいますが「ここにエドガルドはいない」と言われ、両親はエドガルドがどこに連れて行かれたのかすらも分からなくなってしまいます。
なぜこのようなことになったのか……洗礼を授けた人物として、以前家で雇っていたカトリック教徒の侍女アンナの存在を思い出したモモロは、アンナに「洗礼を授けたのは君なのか?教えてくれ」と尋ねますが、アンナは動揺し「あのままだと地獄に行ってしまうところだった」と要領を得ないことを口走ります。
モモロは何か聞き出そうとアンナを問い詰めますが、取り押さえられ聞けませんでした。
ユダヤ人コミュニティの助けを得て、エドガルドがローマ教皇の元にいることを知ります。そして新聞社に訴えたことで、新聞はこぞって教皇を揶揄する風刺画を書きます。
一方、エドガルドは何の事情も分からないままローマに連れてこられます。不安そうなエドガルドに、見知らぬ婦人は十字架のネックレスをエドガルドに手渡し「常に身につけているように」と言います。
教会に連れて行かれたエドガルドが寝床に案内されると、そこには同じ年頃の少年が他にもたくさんいました。家族もいない見知らぬ場所に連れていかれたエドガルドは、心細さからユダヤ教の祈りを唱えます。
すると、近くにいた少年が「ユダヤ人なの?」とエドガルドに聞きます。実は集められていた少年たちは、皆カトリック教徒ではない子どもたちでした。
少年たちは「シモーネは病に伏し、母親が改宗してシモーネの様子を見にやってきている」とエドガルドに教えます。
新聞だけでなく、国外からも非難を受けた教皇ピウス9世は「教皇のすることに口答えするなんて!」と怒り、エドガルドの洗礼を急ぐように言います。そしてエドガルドは、正式に教会で洗礼を受けさせられたのです。
映画『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』の感想と評価
権力にしがみつくローマ・カトリック
本作の題材となった実話「エドガルド・モルターラ事件」の背景には、権力が弱まりつつある当時のローマ・カトリックの実態があります。
エドガルドが誘拐されたのは1858年ですが、1848年にボローニャでは市民暴動が起きています。権力が弱まりつつあることはローマ教皇をはじめ、教会の中枢にいる人々にはわかっていたでしょう。
冒頭、侍女アンナの元にいたのはオーストリア軍の兵士です。そもそもなぜ、当時のイタリアにオーストリアの兵士がいたのでしょうか。
それは市民の暴動を受け、兵力を必要としていたローマ・カトリックがカトリック教徒であるオーストリアやフランスの軍に助けを求めていたからです。
またユダヤ人コミュニティでの連携、ローマ教皇の風刺画を載せた新聞の存在など、宗教が力を持ち国を治めていた時代から近代化へと向かう時代のうねりが本作の随所に感じられます。
そのような変わりつつある時代の中で、権力にしがみつこうとするローマ・カトリックの傲慢さが本作ではありありと描かれています。
エドガルドが連れて行かれたのは、ユダヤ教徒であったからです。ユダヤ教の家族を改宗させて取り込もうとしたり、ローマ・カトリックの力を誇示するために幼いエドガルドとモルターラ家は利用されたのです。
教会には、エドガルドと同じ境遇の少年たちがたくさんいました。家族に会うために「いい子」でいようと努力する子どもの健気さを利用しているのです。
素直な少年たちは、自分が利用されていることにも気づけず、教えられた通りにカトリック教以外の宗教に対しては良くない印象を抱くように操作されてしまいます。
病に伏すシモーネの母親は、子どもに会うために改宗しました。しかし、亡くなったシモーネの遺体にこっそりユダヤ教徒のお守りを授け、涙を流しながら教皇らを睨むその姿は、子どものために改宗したけれど、心まではカトリック教徒にはなっていなかったのではと推測されます。
「洗礼を授けられたから」という理由で親元から子どもを引き離す行為は“誘拐”でしかなく、そのようなことを神の名のもとに正当化してしまう、カトリック教の傲慢さが見てとれるのです。
カトリック教そのものは、決して悪ではないでしょう。しかし権力を行使する傲慢さは、マジョリティであることの傲慢さにもつながっているのではないでしょうか。
エドガルドに洗礼を授けたアンナはこのような大事になるとは思っておらず、洗礼を授けたのも善意によるものでした。しかし、その善意は「自分たちの考え方が正しい」というマジョリティ的な考え方のもとで、ユダヤ教に対する尊重の姿勢は感じられません。
カトリック教徒ではないことは、可哀想なことでも、地獄にいってしまうことにもなりません。そのことに気付けないのです。
さらに終盤、エドガルドは母にアンナと全く同じ行為をしようとします。エドガルドの無垢な善意こそが、教皇によって奪われたエドガルドの心そのものと言えるでしょう。
そして、それは教皇をその座から引き下ろしたところで戻ってこないものなのです。
まとめ
本作の物語は権力が弱まりつつある教皇領・ボローニャを舞台に描かれていますが、そのように権力が衰えていった“その後”に何が起こったのか、現代を生きる私たちは知っています。
ユダヤ人に対してナチスドイツが行ったことも、イタリアでファシズムが台頭したことも。また今もなお、宗教によって戦争となっている国・地域が存在することも。
繰り返される歴史と、根深い民族・宗教の問題。そしてマジョリティの持つ傲慢さ。
映画に描かれている当時の教皇は「教皇の言うことに刃向かうなんてどういうことだ」と怒り、教皇の権威が奪われることはないと信じ切っています。またカトリック教徒はユダヤ教徒よりも上であると見下し、善意によって洗礼を授けようするのです。
そこに現れているのは、どこまでも無理解で、理解しようと歩み寄る姿勢のなさです。
ユダヤ人教会が屈辱を耐えて教皇の足に口付けまでしたのは、教皇の権威に勝てない、ここで睨まれて潰されるわけにはいかないという思いがあるからでしょう。
また、ローマ・カトリックは中世において十字軍の派遣も行っていました。イスラム教徒に対してカトリック教徒が行ったことは、一方的な理由で戦争を起こしたということであり、その歴史が後の時代にまで尾を引いています。
エドガルド・モルターラ事件を通して私たちは今一度歴史を振り返り、現代社会で起きていることを見つめる必要があるのかもしれません。