映画『ミッドナイトスワン』は2020年9月25日(金)より全国にて絶賛公開中!
俳優・草彅剛を主演に迎え、『下衆の愛』(2016)の内田英治監督が自身の手がけたオリジナル脚本をもとに制作した映画『ミッドナイトスワン』。
トランスジェンダーとして日々身体と心の葛藤を抱えながらも生きる主人公と、親の愛情を知ることなく育つもバレエダンサーを夢見ている少女の間に生まれた「愛」の形を描いた「ラブストーリー」です。
本記事では、映画のエンドロール後に映し出される映像をもとに、キリスト教『新約聖書』に記されている有名なエピソード「受胎告知」との関連性、その先に見えてくる『ミッドナイトスワン』における二人の母親が「求めていたもの」、二人の母親を生み出した「もう一人の母親」について考察します。
CONTENTS
映画『ミッドナイトスワン』のあらすじ
故郷・広島を離れ、東京・新宿の新宿のショーパブで働く凪沙(草彅剛)。トランスジェンダーとして身体と心の葛藤を抱えながらも、毎日をひたむきに生きていた。
ある時、実家の母親から電話があり、親戚の早織(水川あさみ)の娘でありネグレクトに遭っていた中学3年生の少女・一果(服部樹咲)を短期間預かってほしいと頼まれる。東京に訪れた一果は「叔父」と聞いていた凪沙の姿に戸惑いながらも、やがて二人の同居が始まる。
ある日一果は、自分をからかったクラスの男子に椅子を投げつけるという問題を起こしてしまう。凪沙はその件で学校に呼び出されたが、それでも一果に対して関心を持とうとはしなかった。
最低限のルールに基づく同居が続く中で、一果はふとしたきっかけでバレエ教室を見つけ、その魅力に惹かれていく。そして講師の実花(真飛聖)の勧めでレッスンに参加するようになった。
やがてバレエ教室の月謝を払うために、一果は同じくレッスンを受けていた友人・りん(上野鈴華)の協力のもと、違法なバイトを凪沙には秘密で始める。ところがそのバイト先でトラブルが起こしてしまい、保護者である凪沙にバイトのこと、バレエ教室のことがバレてしまう。
りんの母親に家庭のことを中傷され、自傷に走る一果を見て優しく慰める凪沙。
その晩、「一果を一人にしたくない」と凪沙は自分の職場であるお店に一果を連れて行く。そこで一果のバレエダンサーとしての才能を目の当たりにした凪沙は「一果にバレエを続けさせてやりたい」と思うようになる。
それは「母親になりたい」という願いの芽生えでもあった……。
映画『ミッドナイトスワン』の感想・評価
エンドロール後に映し出される「受胎告知」の構図
映画『ミッドナイトスワン』のエンドロール後に映し出される映像。それは椅子に腰掛けた凪沙と、彼女の右側で『白鳥の湖』オデットのバレエ衣装を身に付けて佇む一果の姿です。この映像における二人の姿と「構図」をめぐって、ネットおよびSNS上では「数多くの宗教画でも題材として描かれている「受胎告知」をモデルとしているのでは?」という考察が注目されています。
「受胎告知」とは、キリスト教の聖典である『新約聖書』の中でも特に有名な逸話の一つ。処女であったマリアのもとに天使ガブリエルが降り、マリアが聖霊によってイエス・キリストを妊娠したこと(いわゆる「処女懐胎」)を告げ、ナザレの大工ヨセフと婚約していたマリアも当初は戸惑っていたものの、最後にはそれを受け入れるという物語です。
この「受胎告知」を題材とした宗教画は数え切れない程描かれており、シモーネ・マルティーニ、フラ・アンジェリコ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、エル・グレコなど名だたる芸術家たちがマリアと天使ガブリエルの姿を描いています。
その中でもこのモチーフを好んで描き、何点もの「受胎告知」の絵画を遺していることで知られているエル・グレコについては、そのほとんどの作品群において椅子に腰掛けているマリアを画面左側に、天から降ってきた天使ガブリエルを画面右側に配置し描いていること。内田英治監督の故郷・ブラジルにあるサンパウロ美術館にはエル・グレコによる「受胎告知」の絵画が一点収蔵されていることから、エンドロール後の映像における凪沙・一果による「受胎告知」の構図は彼の「受胎告知」の作品群をモデルにしている、あるいはその絵画から着想を得られているのではという考察も浮かび上がっています。
受胎告知の「赤/青」と二人の母が「求めていた色」
また「受胎告知」というモチーフについて調べていく中で、多くの方が映画作中における「二人の母親像」について「ああ、そうだったのか」という発見があったはずです。それは、一果の「母親」になろうとした凪沙と早織が着ていた「服装」です。
凪沙は一果と心を通わせる前、そして海外で性別適合手術を受けたのち一果を取り戻しに実家を訪れた際に「赤」の服をたびたび身に付けています。特に実家を訪れた際に服に関しては、コートすらも真っ赤だったため全身が赤一色と見間違える程でした。一方で、一果の実の母親である早織は序盤で描かれている水色の派手な仕事着、凪沙が実家を訪れた際に着ていた青色の服をはじめ、「青」の服を何度も身に付けています。
実は宗教画には、聖人や聖書の登場人物を描く際の「約束事」として「その人物と深くつながっている持ち物」=「アトリビュート(attribute)/持物(じぶつ)」を描くことがあります。そして「受胎告知」の登場人物である「聖母マリア」を描く際のアトリビュートには、「青」のマント(ヴェール)と「赤」の衣服が含まれているのです。
では何故、凪沙が「赤」で早織が「青」なのか。そこにも、マリアのアトリビュートである「青」のマントと「赤」の衣服が関わっています。「赤」と「青」という色彩にはそれぞれ意味が込められているのですが、「赤」は血の色を連想させることから「神の慈愛」を、「青」は空や海の色を連想させることから「天国、神聖さ、包容力、真実」を意味しているのです。
小説版『ミッドナイトスワン』でも描かれている通り、凪沙は元々「子どもを産めない体」としての「男性の肉体」に関してつらい記憶を抱えていました。そして「一果の母になりたい」という一心から、自らの肉体を「女性の肉体」へと変えました。それは「実の母親だから」「血のつながった母親だから」という理由から一果は早織のもとへ帰ってしまったのだという凪沙の切なる思いから至った行動でもあります。彼女はある意味では、実の母親である早織以上に「娘」である一果との「血」のつながりを求めていたのです。
そして早織は映画序盤でも描かれている通り、実の母親なのに娘である一果を愛することができない、愛したいのに愛することができないことに苦悩していました。それは一果を愛したいがゆえに、母親あるいは親としての「包容力」、娘の一果が母親である自身に対して求めていたものという「真実」を求めていたことに他なりません。
凪沙と一果それぞれが、一果の「母親」となるために求めていたものを表した「色」。映画『ミッドナイトスワン』の作中では、マリアのアトリビュートである「赤」と「青」の装いの一方のみを身に付けさせることでそれらを描いていたのです。
母娘の在り方という「真実」に触れる
また映画作中において、凪沙が「青」の装いを身に付けている場面があります。それは、一果と心を通わせるようになり「母娘」として生活を送るようになった日々を描いた場面です。
バレエに励む一果のために栄養に配慮した食事を作り、食べる前には「いただきます」を言いなさいと注意する。夜の公園での一果の練習に付き添い、時には基本のステップを一果から教わることも。そうした些細な出来事の連続は、凪沙が「母親」として求めていたものであると同時に、一果が「娘」として「母親」に求めていたものでもありました。
一果が「娘」として求めていたものを、凪沙は「母親」として与えることができた。そして一果も「娘」として、凪沙が「母親」として求めていたものを与えることができた。それこそが早織が「母親」となるために求めていた「真実」であり、凪沙は一果との何気ない日々を通じてその真実に触れていたのです。ですが、凪沙は一果と早織が見せた「母娘」を目の当たりにしてしまったことで「血」のつながりに固執し、自らの身体を傷つけてしまうような形でそれを求めるという結果をもたらしてしまいました。
あまりにも切ないその顛末は、「“母親”になるにはどうすればいいのか?」という今も昔も絶えることのない問いを映画を観終えてもなお深く考えるきっかけとなるはずです。
まとめ:「子」の存在が「母」を生む
「“母親”となるために求めていたもの」を示す色として、凪沙が身に付けていた「赤」の装いと早織が身に付けていた「青」の装い。実は映画作中では、その両方の色を同時に身に付けていた登場人物がいます。それは、二人の「娘」であるはずの一果本人です。
なぜ、彼女が「赤」と「青」両方の装いを身に付けていたのか。その答えは、『ミッドナイトスワン』が「凪沙が“母親”となろうとする物語」という一面を持つ点にあるのではないでしょうか。
凪沙が「母親」になろうと決意したのも、苦悩と苦痛の果てに「母親」となることができたのも「娘」である一果の出会いがあったからこそです。逆説的に言えば、「娘」である一果が「母親」としての凪沙を生み出した。「娘」という子の存在が「母親」という存在を生み出す「母親」になるということを本作は描いているのです。そしてそれを示唆する演出として、マリアのアトリビュートを表す色である「赤」と「青」両方の装いを身に付けていたわけです。
「娘」が「母親」の「母親」となる。一見すると矛盾した現象にも捉えられますが、「受胎告知」の逸話もまた「イエスという子どもを授かったことで、何者と交わることなく母親となったマリア」という「子」の存在によって「母親」が生まれるという現象を描いています。そのことをふまえると、「子」の存在が「母親」を生み出すという現象は奇跡に等しいことであると同時にとても普遍的なことでもあり、同時に「“母親”になるにはどうすればいいのか」という問いへの答えなのかもしれません。