ゴールデンウィークの2017年4月29日より東京にあるポレポレ東中野で上映がスタートするお薦めの映画がある。
ルーマニア映画『トトとふたりの姉』という心震わすドキュメンタリー映画をご紹介!
この作品は現実を衝撃的告白するのではなく、子どもたちを通して環境とは何か、子どもと共に成長とは何かを見つめる映画です。
映画『トトとふたりの姉』の作品情報
【公開】
2017年(ルーマニア)
【撮影・脚本・編集・監督】
アレクサンダー・ナナウ
【キャスト】
【作品概要】
ルーマニアの首都ブカレストの郊外で、親が不在でもたくましく生きる3人の姉弟の日常を追ったドキュメンタリー。
監督はドキュメンタリー作品を数多く手がけるルーマニア生まれのドイツ人映画監督アレクサンダー・ナナウ。ルーマニア・アカデミー賞にて最優秀ドキュメンタリー映画賞、ブタペスト国際ドキュメンタリー映画祭にて作品賞、シネマ・アイ・オーナーズにてスポットライト賞ほか、50以上の世界各国映画祭で上映さてました。
また、山形国際ドキュメンタリー映画祭2015インターナショナル・コンペティション部門上映作品(映画祭上映時タイトル「トトと二人の姉」)。
映画『トトとふたりの姉』のあらすじとネタバレ
ルーマニアの首都ブカレスクの郊外。10歳になるトトは、ふたりの姉で長女アナ(17歳)とアンドレア(14歳)と暮らしていました。
3人が住む小さな部屋には、水道やコンロもなく、汚れたソファベッドと小さな棚があるだけの貧しい生活。
夜になると部屋に若い男たちが集まり、注射器を取り出すと手慣れた手つきで腕などに針を刺して薬物に耽る。
長女アナは懸命に汚れた部屋を清掃しながら、「ヤク中は出入り禁止」だと彼らを追い出そうとしますが、男たちはおかまいなしで居座ります。
仕方なくドラッグを打つ男たちを横目に、肩身の狭い思いをしながら姉弟は眠りにつくのです。
トトの母親ペトラはタルグショル刑務所に服役中で麻薬取り引きの罪で禁固7年実刑。やっと4年半の刑期をむかえるが仮釈放の見込みはありません。
次女アンドレアはいつもイライラと不機嫌で長女アナと言い争うが絶えません。だから、次女アンドレアは友人宅を泊まり歩いて家にはあまり寄り付こうとしません。
次女アンドレアが家を出て行くと、トトがソファベッドで就寝。その傍らで長女アナは、辞めていたはずのドラッグにまた手を染め、その手に注射器を取ってしまいます。
一方で友人宅にいる次女アンドレアは、映画のために監督から借りていたハンディカムカメラで、自分自身の生活を記録しています。
それは普通の少女が友人と一緒に音楽を聴いたり、ヘアスタイルを楽しんだりする様子が見られます。
次女アンドレアが友人宅に宿泊している際に、ブカレスト麻薬捜査部隊が家に突入して、長女アナと服役中の母親に代わって保護者であった
伯父シレは逮捕されてしまいます。
自宅に帰宅した次女アンドレアはその事実を知り、警察に向かいますが護送される伯父シレの姿はありますが、長女アナはどうなってしまったのかわかりませんでした。
一方のトトは児童クラブで得意ではないが勉強を教わってします。そこで次女アンドレアは遊び歩いてトトを独りにしたことを先生たちから咎められます。
先生から「何があってもトトの側を離れちゃダメ」と念をおされますが素直にはうなづくことが出来ない次女アンドレア。
その後、長女アナの裁判が行われると、傍聴席には次女アンドレアただ独り。裁判官から長女アナは事情を尋ねられますが何も言わず、黙秘ですかと告げられます。
やがて、トトと次女アンドレアは列車に乗って刑務所に向かいます。そこで母ペトラが面会室に入室すると、トトは思わず泣き出すと母親に抱きついていきます。
次女アンドレアも涙を流しますが、また、すぐに一緒に暮らせるという母親に励まされますが、それを信じることはできません。
また、母ペトラに長女アナの様子について尋ねられますが、すぐには答えられなでい次女アンドレア。
なぜなら、母ペトラが子どもたち預けた伯父シレによって、長女アナはドラックに走ってしまったからです。
ある日、児童クラブが企画したダンス課外授業の初日。コーチを務めるダンスチームが児童クラブの子どもたちを前に、ステージ上でデモンストレーションを披露。
そのダンスとリズムに食い入るように見入ってしまうトト。次第にリズムに合わせて手を波のように動かし始めると、トトは見よう見まねで全身で踊りだします。
その後、トトと一緒にダンスレッスンを楽しく受けて入る次女アンドレア。しかし、彼女は児童クラブの数学や国語など苦手な科目ばかり、ついイライラの癖が出てしまいます。
それもそのはずで、次女アンドレアには勉強と地震の他に、トトの生活、たった独りの傍聴人として姉アナの裁判にも通っています。
やがて、長女アナが出所する日。長女アナを迎えに行くのもアンドレアの仕事。嬉しさのあまりはしゃぎながら帰ってきた長女アナ…。
映画『トトとふたりの姉』の感想と評価
この作品は、観察型ドキュメンタリー映画として、子どもが強い意思を獲得する姿”を克明に描いています。
そこで第1のポイントに注目していきます。1つ目のポイントは「観察型ドキュメンタリー」とはどのようなものなのか。
第2のポイントは「子ども自身が見つけた意志」について考えてみたいと思います。
この映画のなかでは、主人公トト、そして、ふたりの姉アナとアンドレアの物語は、母ぺトラが刑期を務めている不在の状況下で、貧困や暴力、ドラックという陰惨な環境に置かれ生きています。
ただそのような状況を単に告発するのではなく、苦境を越えて、人生の豊かさを見つけて行く子どもたちを見つめる映画でした。
アレクサンダー・ナナウ監督は、一貫して子どもと対等な目線での撮影。また、子ども自身の目を通した撮影にこだわったようです。このことを一緒になって理解し合い、実現させたのが今作の観察型ドキュメンタリーなのです。
そこで作品のなかでは、アレクサンダー監督が雄弁に語るような演出はありません。もしろ彼が不可視な状態になり、観客が映画の中にいるトト、アンドレア、アナと直接的に触れ感じるように映画は作られています。
では、アレクサンダー監督が目指した“観察型ドキュメンタリー映画”とはどんなものなのでしょうか。
参考映画1:ロバート・フラハティ監督『極北のナヌーク』(1922)
この作品のロバート・ジョセフ・フラハティ監督(1884〜1951)は、その他に製作、脚本、撮影、編集も兼務。また彼は、“ドキュメンタリー映画の父”と呼ばれ映画史に名を残す人物です。
1922年に制作された作品は、今からすればドキュメンタリー映画の定義ではなく、むしろノンフィクション映画にも分けられていますが、一般的な認識では世界初のドキュメンタリーとして知られています。
フラハティ監督は、ハドソン湾の北東岸に住むナヌーク一家とその仲間たちの協力を得て撮影をしました。すでに忘れられつつあったイヌイット文化を蘇らせた作品です。
ナヌークたちは氷に穴を開けて魚を獲ったり、銛でセイウチやアザラシを捕獲したり、その毛皮を交易所に販売したりするのです。文明的ではなく原始的な“幸せ暮らし”をする人たちとして描かれています。
参考映画2:ロバート・フラハティ監督『アラン』(1934)
アレクサンダー監督は他にもフラハティの1934年の『アラン』を例にあげています。ここではアイルランドのアラン諸島を舞台に、土壌がない岩だけの島であっても人が逞しく生きる姿を描いたものです。
この物語は、生命を維持するジャガイモ栽培をするため、岩を砕いて海草とともに岩の割れに溜まった土と敷き詰めたりします。やがて、島民は越冬の夜を過ごすため、大群で現れたウバザメを捕獲して、ランプ用の油を採取しようとします。ウバザメと海で格闘するのです…。
『トトとふたりの姉』のアレクサンダー監督は、“ドキュメンタリー映画の父”として知られる、の『極北のナヌーク』と『アラン』は、天啓となった重要な作品だと述べています。
それに並んで他にもあげられたドキュメンタリー映画は、1968年に制作されたメイスルズ兄弟の『セールスマン』の影響もあります。
参考映画3:デイヴィッド&アルバート・メイスルズ監督『セールスマン』(1968)
これらの作品から学びの影響を受けたとアレクサンダー監督は、例え話として「日常」と「過去」を友人に伝えるの話し方は、小説や演劇、映画の台本のために作り上げる物語に似ていると言います。
物語を語る際に、私たちは他者にそのことを理解してもらおうと、主人公に同情や感情移入を促すようにします。
今作でいえば、子どもたちをストイックに撮影した素材を、“物語る”という他人に理解してもらうように、率直で事実に忠実することであり、決してヤラセや嘘ではないということです。
制作者が選んだ対象者(主人公)に焦点を当てて、ある一定期間において撮影したものであり、定点の監視カメラ映像を編集したものではないのです。
ドキュメンタリーやノンフェイクションの映像は、この“物語るバランス”がとても重要な作業なのですね。
1895年にパリで、“映画の父”と呼ばれるリュミエール兄弟が、映画という定義をみせてから、およそ20年後にアメリカのフラハティ監督によって、カナダのバフィン地方や北ウンガヴァ地方へと撮影機材を持ち出しました。
遠く越境の地まで足を運び、エスキモーのナヌーク一たちの生活をカメラで撮影。とはいえ、今のような小型ハンディカムカメラやスマフォではありませんから、大きな撮影機材を運ぶだけでも冒険だったとも言えますね。
博物館にあるような埃をかぶった展示ではなく、ナヌークが活き活きとセイウチやアザラシを捕獲する姿をカメラで捉えたことによって、当時の観客に観せたことは驚くべきリアルであったのでしょう。
また、それを実現するためにフラハティ監督は、ナヌークたちに観せるために上映機械やプリントを持参して、“フラハティ自身の成し遂げたい映画とは何か”を、ナヌーク一たちに説明していきながら信頼関係を育みました。
アレクサンダー監督は、『トトとふたりの姉』の制作にあたり、映画に出演する主人公を探し始めてから4ヶ月リサーチを行なった後、トト、アンドレア、アナと出会います。
子ども3人の好奇心は、アレクサンダー監督が彼らに持った好奇心と同じくらい大きかったそうです。その後、時間を共に過ごし、お互いを知り、信頼関係を築いていったそうです。
その期間は2012年2月から2012年4月にわたり14ヶ月の撮影を行ない、編集作業には約1年半ほどかけたそうです。
アンドレア監督とトトと長女アナ、次女アンドレア、母ペトラの関係の育みが、フラハティ監督とナヌークの仲間たちの関係の育みと類似していたのではないでしょうか。
異なる世界で住む他人が、異なる世界の他人の生活圏に入って来る。価値観が違ったものを受け入れることには忍耐力が必要な時もあるでしょう。また価値観が違ったものを見つめ続けることも忍耐力のいることだと思います。
どちら側にしても一対一の人間として観察されることは免れられないでしょう。信頼関係を構築することが最重要な映画作りなのだと思います。
第1ポイントに挙げた、「観察型ドキュメンタリー映画」の監督の趣旨や、それを観客の読み解くヒントがあるのかも知れません。
その信頼関係があったからこそ、実現したこの映画の重要な第2ポイント「子ども自身が見つけたもの」が読み取れる、アンドレアが自身が手持ちで撮影した生活の記録があります。
この映画の凄さは、そこに観て取れることができるのではないでしょうか。そのことは次のまとめで述べて行きます。
まとめ
アレクサンダー・ナナウ監督は、この作品を「子どもたちの視点から見た映画」にしたかったそうです。彼らが自分たちの暮らしを撮影するのはどうかというアイデアは始めからあったようです。
第2ポイントの「子どもたちが見つけたもの」については、その成功例でもあるアンドレアのハンディカム・カメラでの撮影を中心に考えてみましょう。
もちろん、「子どもたちが見つけたもの」といえば、物語のメインになっているトトがダンスと出会ったことを思い浮かべるのは、私もあなたと一緒です。
トトがダンスの楽しさに惹きこまれていく過程や成果を成し遂げたシークエンスは、それまでの観客が映画を見て感じたやり場のない思い(怒り・無常観)に対して、ある種の緊張を解放するだけの感動はありました。
そこに私は涙したのは事実ですし、アレクサンダー監督の“物語る”範疇の成功も収めている素晴らしいシークエンス。
それでもあえて、誤解を恐れずに言えば真の注目はアンドレアであり、彼女のこれから先に大きな未来を感じるのはなぜでしょう。
それは彼女が過酷で悲惨な状況や安らぎの時にもビデオカメラを向けて、物事と対じするようになりました。
見続けようとしたり、話し合おうとしたり、大切に残そうとした。カメラを持って人生にしっかり立っていたからです。
これまでの彼女はイライラとするとその場からすぐに何処かへ逃げてしまうような少女でした。しかし、カメラを手にした彼女は状況から逃げようとはしませんでした。
アレクサンダー監督は、先に“ドキュメンタリー映画の父”と呼ばれたフラハティ監督がナヌークたちに「自身の成し遂げたい映画とは何か」を説明しながら信頼関係を育んだように、子どもたちにも映画教室の学びの場を提供したそうです。
子どもたちの児童教室で10人の子どもが参加して、3ヶ月間にわたり開催したそうです。
映画教室の授業内容は、映画を観たり、映画について話したり、短い物語を描いてもらったそうです。また、アッバス・キアロスタミの短編教育映画を観た後に、一緒にリメイクをしたそうです。
さらには、子どもたちが「成果を得る」喜びを経験できるよう、短編映画制作したそうです。
これらを通して、子どもたちはビデオカメラを単なる玩具として扱うのではなく、道具として認識する撮影方法を学んだそうです。
その成果がこの映画で見られたアンドレアのいくつかの撮影シーンです。
アンドレアは、アレクサンダー監督のアイデアである、「彼女自身が撮影で参加する」考えをとても気に入ったそうです。
そこでのアレクサンダー監督の狙いについて、「彼女がビデオ日記のようなものを始めれば、それが彼女にとって自分自身と向き合うためのよい手段となり、重要なものになるだろう」と思っていたそうです。
この作品を見ていると確かに一見では、トトの持つ愛らしさに共感することは多かったように思います、しかし、アンドレアに注目をするとまた違ったことが映画から見えてくるのではないでしょうか。
このことは、道を分けてしまった長女アナにしても同じではないかと思います。この3人は誰もが人生の主人公なのですから。
つまりは、3人の道を決めてしまったのは、もちろん本人ではあります。しかし、子どもが将来の夢や想像力を育むには、置かれた状況だけではなく、どのような大人を模範として生活をするかによるのではないでしょうか。
母ペトラ、叔父シレ、ドラック依存の人たち、児童クラブの先生、ダンスレッスンのコーチ、アレクサンダー・ナナウ監督をはじめとする映画スタッフ…、皆が模範でした…。
私たちは貧しさを前にしも、その貧しさが次に相続されてしまうことに少し無頓着なのかもしれません。豊かさだけが相続され、また才能だけが遺伝されると思い込んではいないでしょうか。
アレクサンダー監督は、「正直なところ、彼女(アンドレア)がこれほど大きな才能を発揮することは予想していませんでした」と述べて、映画全体を通じての素晴らしい驚きだと述べています。
この作品は、世界各国50以上映画祭で招待されたそうです。その際に、アレクサンダー監督は子どもたちと一緒に上映に参加することもありました。
しかし今では、児童クラブの先生とトト&アンドレアたちだけで映画祭に参加するようになったそうです。
映画祭に参加する観客たちの多くから率直な感想を語ってもらうなかで、自らに自信を持ち、歩み始めた未来への強い野心となっているそうです。
「子どもたちが見つけたもの」は、その存在へ承認、未来への野心、何よりもトトとアンドレアの姉弟の絆なのです。
2017年4月29日からポレポレ東中野を封切りに、神奈川の横浜シネマ・ジャック&ベティ、愛知の名古屋シネマテーク、大阪の第七藝術劇場など、全国順次公開。
ぜひ、ルーマニア発の心を震わすドキュメンタリーの秀作は、間違いなく!今年日本公開のベストムービーになります!
子ども一緒に成長した映画とは何か?ぜひ、ご覧ください必見です!