連載コラム『君たちはどう観るか』第4回
『風立ちぬ』(2013)を最後に「長編アニメーション作品の制作からの“引退”」を表明した宮崎駿が、「宮﨑駿」に改名して挑んだ映画『君たちはどう生きるか』。
奇想天外な世界観やストーリー展開の他、宮﨑監督が「宮崎駿」として生きてきた半生を振り返るかのような自伝的要素も盛りだくさんなその内容は、早くから観客の間で賛否両論の嵐を巻き起こしています。
本記事では、主人公・眞人が下の世界で遭遇した、人間並かそれ以上の巨体を持ち人語を話すインコたちと、その統率者であるインコ大王についてクローズアップ。
「羽を持つのに飛ばない者」としてのインコの姿、そしてインコの姿を通じて宮﨑監督が描こうとした「“宮崎駿”の思い描いた夢」の否定と「夢と空想が失われてゆく世界」などを考察・解説していきます。
CONTENTS
映画『君たちはどう生きるか』の作品情報
【日本公開】
2023年(日本映画)
【原作・監督・脚本】
宮﨑駿
【主題歌】
米津玄師:『地球儀』
【製作】
スタジオジブリ
【声のキャスト】
山時聡真、菅田将暉、柴咲コウ、あいみょん、木村佳乃、木村拓哉、竹下景子、風吹ジュン、阿川佐和子、大竹しのぶ、國村隼、小林薫、火野正平
映画『君たちはどう生きるか』インコ大王たちを考察解説!
インコたちは人類史の本質?
アオサギ曰く「象も食べる」というインコたちは、人間を含む多種族を食らうこともためらいがなく、愚鈍さを見せる一方で映画作中では眞人を狡猾に騙し、その肉を皆で食らおうとします。またインコ大王も「全てはインコのもとに」という言葉の通り、自己の種族の繁栄を最優先で行動しており、それを求め続けた果てに下の世界の崩壊のきっかけを生み出しました。
インコたちとそれを率いるインコ大王の姿から、「大東亜共栄圏」という名目のもと暴走の一途を辿った大日本帝国軍部や、アーリア民族繁栄という目的のためにユダヤ人絶滅政策(ホロコースト)を実行したアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツを連想することは難しくないでしょう。
くわえて、下の世界で「種の繁栄」=「本能的欲望の追求」のために他種族を貪欲に食らい続け、世界が滅びることを危惧しながらも誰よりも世界の滅亡に加担している様は、そのまま「人類史」の本質そのものと捉えることも可能でしょう。
その中でも、映画作中のインコの描写で最も重要なのは、インコたちが一部の場面を除いて羽で飛行をせず、ペリカンのように空を飛ぼうとしない点。そして、大叔父のいる巨大庭園で現実世界と同じ姿のインコたちが空を飛んでいるのを見て、インコ大王の部下たちが「ご先祖様だ」と口にした点です。
「空を飛ぶ」という人類の夢の象徴
映画『風立ちぬ』(2013)より
宮﨑監督は、かつて「宮崎駿」として手がけた『風立ちぬ』でも「飛行機とは美しくも呪われた夢だ」と形容し、『紅の豚』でも「飛べない豚はただの豚だ」と形容している通り、生物としての本能とは別に人類を突き動かしてきたもの……人類が空想と創作によって追い求め続けてきた「夢」の象徴として「空を飛ぶ」という行為を描いています。
しかし一方では「美しくも呪われた夢」と自ら言及しているように、「空を飛ぶ」という夢を追い求める行為の過程で人類が数え切れないほどの死者を生み出してきたこと、それでも空想と創作を手放せないという「呪い」を人類が背負っていることも描いており、それは『風立ちぬ』『紅の豚』のいずれでも登場した「飛行機乗りの地獄」の風景として象徴されています。
「空を飛ぶ」という空想と創作がもたらす人類の夢と、「夢を追い求める人類自身が、人類を死に至らしめる」という夢の負の側面。それは空想と創作に取り憑かれ、同時に飛行機を愛するがゆえに宮崎駿が思い至った人類の、そして自らの「夢」の在り方といえます。
「羽があるのに飛ばない者」と“退化”する世界
「空を飛ぶ」という行為が人類の夢の象徴と考えた時、生まれつき空を飛べる羽を擁する鳥たちは、映画に登場するアオサギや手塚治虫が生んだ不死鳥「火の鳥」のように、人類の夢へ外部から干渉し時には案内役も務める夢の使者とも捉えられます。
あるいは、人語を話し、塔内に立つ石の中で人間社会のような制度・生活を形成しているインコたちの姿……インコたちが「羽を持っている、人間のような者」として描かれていることからも、夢に向かって飛び立つことのできる“才能”を持つ者と捉えることも可能でしょう。
しかしながら前述の通り、インコたちは空を飛べる羽を持っているにも関わらず、映画作中ではほとんど飛行する姿は描かれず、同じ鳥であるペリカンたちのように空を飛ぶこともしません。
空を飛べる才能を持つのに、それを活かそうとしないインコたち。そしてインコ大王の部下たちが、巨大庭園で優雅に飛ぶ本来のインコの姿を見て「ご先祖様」と口にすることからも、人間のように生活するインコたちにとって「空を飛ぶ」という行為は“過去の歴史”となっていることが窺えるのです。
夢に向かって飛びことのできる“才能”=“空想”という羽を持っているのに、「空を飛ぶ」という行為自体を“過去の歴史”として捉え、自らの空想を活かすことなく生きる者たちが「種の繁栄」という本能的欲望の充足のためだけに、他者を食い荒らし続ける世界……。
それは、宮﨑監督がかつて「宮崎駿」として思い描いてきた人類の夢の在り方、空想の在り方を全否定した世界といえるでしょう。
そして「羽を持つ者」として表現されるインコたちが「羽を持つのに飛ばない者」へと“退化”の一途を辿る様を描くことで、「人類の夢を追い求める者も、空想に耽る者も失われてゆく世界」という、現在の人間社会そのものへの絶望的な、しかし現実的な見解を示したのではないでしょうか。
まとめ/“人間の愚かさ”を象徴する鳥
そもそもなぜ宮﨑監督は『君たちはどう生きるか』において、インコという鳥に人間のイメージを重ねたのでしょうか。
第一の理由として思い浮かぶのは、やはり人語を話す……その意味を理解しているか否かに関係なく、人語を発声する点でしょう。それは現実またはネット上の世界で、言葉の真の意味を解することなく、ただただ大きな声で言葉を口にする人々のイメージと重なります。
インコという鳥は日本国内では「外来種」であったものの、人間がペット用として輸入した挙句に逃がす・捨てるなどをしたことから、国内で群を成し野生化してしまった種もいるという点も見逃せないでしょう。
人間の身勝手な都合のせいで日本に運ばれ、繁殖してしまったインコは、古くから日本に生息するアオサギや「迷い鳥」として日本に訪れることもあるペリカンとは一線を画す、言うなれば人間の愚かさを象徴する鳥といえます。
そして最後に思い浮かぶ理由は、インコという鳥がそれぞれに色彩豊かな羽を持っているという点です。
多種多様に彩られたインコの羽……それは「鳥の羽=夢へと飛び立てる“空想”の才能」と考えた時、“空想”の才能は個々人ごとに大きく異なり、様々な特色があることを示すためにはこれ以上ない羽といえるでしょう。
そして映画作中では、そのような色彩豊かな羽を持ちながらも、インコ大王の独裁支配を何の抵抗もなく受け入れ、制度ある生活へと自らを埋めていく「羽を持つのに飛ばない者」としてのインコたちを描いています。
そ子には、「色彩豊かな多様性の社会」を掲げながらも、最も不可欠な他者への尊重……に最も不可欠な“空想”を活かそうとしない人々のイメージも描くという意図があったのかもしれません。
編集長:河合のびプロフィール
1995年生まれ、静岡県出身の詩人。
2019年に日本映画大学・理論コースを卒業後、映画情報サイト「Cinemarche」編集部へ加入。主にレビュー記事を執筆する一方で、草彅剛など多数の映画人へのインタビューも手がける(@youzo_kawai)。