連載コラム「映画道シカミミ見聞録」第63回
こんにちは、森田です。
今回は、2022年1月29日(土)に横浜シネマ・ジャック&ベティ、渋谷ユーロスペースほか全国ロードショー公開された映画『誰かの花』を紹介いたします。
30周年を迎えるジャック&ベティの企画作品でもある本作は、長編2作目となる横浜出身の奥田裕介監督が取りまとめました。
――ベランダから落ちた植木鉢が人に直撃した。その“犯人”と、犯した罪の形、そして「不確かな罪」に対する罰のあり方について、現代社会の問題と重ねあわせながら、考察していきます。
映画『誰かの花』のあらすじ
鉄工所で働く孝秋(カトウシンスケ)は、認知症の父・忠義(高橋長英)と、その介護に追われる母・マチ(吉行和子)のことが気がかりで、実家の団地を訪れます。
孝秋を見ても、数年前に交通事故で死んだ兄の名を口にする父。定期的にヘルパーの里美(村上穂乃佳)が面倒をみてくれるものの、いよいよ徘徊の頻度が増し、孝秋は父をベルトで縛っておくよう母に助言します。
そんなある日、同じ棟に夫婦と子ひとりの3人家族が越してきました。妻の灯(和田光沙)がマチのお隣さんの様子をうかがった折、その岡部(篠原篤)が姿をみせ、ろくな挨拶もせずに不愛想に立ち去っていきます。
息子の相太がベランダから階下をのぞくと、岡部の部屋のベランダには、パンジーの植木鉢が手すりに掛けられていました。
そして、強風吹き荒れる日に、事故が起こります。
ベランダから落下した植木鉢が住民に直撃し、命を落としてしまったのです。その住民とは、灯の夫でした。
この騒ぎに孝秋が慌てて父の安否を確認すると、父は何事もなかったかのように自宅にいました。
ベランダの窓を開け放ち、土が付着した手袋を傍らに落として。
罪を紡ぐ偶然
孝秋はやはり、父を疑うようになります。しかし表立っては言えません。ともに部屋に駆けつけたヘルパーの里美だけが、“その可能性”に思い当たっています。
たしかに本作は、果たして“犯人”は誰なのか? というミステリーの側面を持ちあわせています。しかし、罪人は一人とは限りません。
どういうことでしょうか。それは植木鉢が落下するまでの各々の行動を観察することでわかります。
まず孝秋ですが、里美が介助に来る前に、ひとりパチンコに出向いていました。周囲の騒音のため、マチからの電話にも出られません。
その電話は、病院からかけられたものでした。両親の留守中に相太が指に怪我をし、マチが代わりに連れて行ってあげたのです。
相太はひとりで料理をしようとし包丁で指を切り、マチのもとにやってきました。子どもがいる手前、マチは忠義をベルトで縛ることができません。
その結果、忠義だけが、自由な状態で家に残されることになりました。
つまり、事故の背景には偶然に偶然が重なっていたわけですが、植木鉢が人を直撃した瞬間に、その偶然は「罪」に意味を変えます。
強いて“犯人”を挙げるのであれば、「罪を紡いだ偶然に携わった人すべて」といえるでしょう。
マチからの電話に出られなかった罪、ベルトで縛れなかった罪、一人で料理をした罪、子どもを残して家を留守にした罪、などです。
逆に、この「偶然(罪)の輪」から外れた住民がいます。
岡部です。映画内の表象に基づく真実としては、岡部は“犯人”ではありません。
しかし彼は事故後、住民からは避けられ、遺族からは糾弾されるなど、「罪人」に仕立てられます。
団地と怨霊
まさしく「スケープゴート」ですが、見ないように抑圧したものは、やがて返ってくるのが定めです。
精神分析の知見を借りるまでもなく、不遇に処せられた者が“怨霊”となって共同体に災厄をもたらすという類の話は、枚挙にいとまがありません。
それは共同体が抱える罪悪感とでもいいましょうか。まずいことしたなというのは、無意識では感じているわけです。
個人の次元では、神経症として現れるのが一般的です。本作では、共同体=団地の罪の意識が、ある人物の神経症として回帰してきます。
それは相太です。彼は発作的に、都合よく片付けられた罪を顕在化させるかのような行動をとります。
たとえば、踊り場から卵を投げ落とす行為。一見すると、岡部をねらったようですが、すぐそばには孝秋もいます。
またあるときは、孝秋にネクタイの締め方を尋ねます。降りしきる雨のなか、黒いネクタイの結び方を。
極めつきは、壁倒立に興じているとき、孝秋をくすぐりながら突然、その腹に真顔でパンチを繰り出したことです。
作中で映されたものから判断すると、相太はおそらく犯人を見ていません。でも“知って”いるのです。
“霊”が子どもに憑依するのはホラー映画でよくありますが、この意味で、本作はミステリーに加えホラーの性格もあわせ持っています。
善悪の彼岸
抑圧された罪の意識を刺激するような台詞も見事です。
「落としましたよね?」と孝秋に詰め寄る灯。「よけられなかったんですか」と錯乱する父。
これらは「植木鉢」のことではなく、前者は手袋、後者は兄をひいた車のことです。
うまいダブルミーニングですが、ここまでの展開でいうと、“孝秋が相太の霊に憑りつかれた”とみることもできます。
徐々に回帰してくる無意識の領域を示すように、誰もいない鉄工所で溶接する姿などの心象ショットが増え、映像の虚実が入り混じっていきます。
これは同時に、加害者/被害者の境界をも揺るがしていきます。
奥田裕介監督はあるインタビューで、自分の一貫したテーマは「善意から生まれた悲劇」であり、それを「不確かな罪」と定義している、と述べています。そして、「その先の救い」までテーマに見据えているということです。
偶然の連鎖が一つの大きな罪を形づくったように、行為の善悪というのは結果論でしかなく、事後的に認識されるものです。
里美にはこんな場面があります。団地の駐輪場で、胸を空に向けあがいていた昆虫をひっくり返してあげました。でも後日、その虫は同じところで干からびて死んでいました。
彼女の行為は、意味がなかったのでしょうか。報われない善意だったのでしょうか。
そう言ってしまったら、人は人のために何もできなくなってしまいます。
また里美が“真犯人”を告発しようとすることも、孝秋がそれを制し自分の父母を守ろうとすることも、善悪で割り切れるものではありません。
孝秋や、灯と相太が参加している遺族会では、平身低頭して謝罪されると自分が加害者になった気になる、という発言がありました。
また会の代表と思しき男性が、相太をエンジンをかけたままの車に残して忘れ物を取りに戻った際、相太がアクセルに足をかけてしまったシーンなどは、誰もが次の加害者になりうる可能性を示唆しています。
不確かな罰
この世では、みな善意という名の罪を背負っている。そしてその罪は、人の善意を否定するものではない。
これが奥田監督の追求している「不確かな罪」の実体でしょう。あるいはそれを「原罪」というのかもしれません。
“事件”の因果律をたどっていけば、全員が当事者となります。罪を恐れていたら、生きることさえままなりません。
私たち人間に求められるのは、個々人はその都度の善意を信じ行動し、善意の結果については共同体全体で引き受ける、といった覚悟ではないでしょうか
人は「不確かな罪」を犯してしまうもの。その代わり、「不確かな罰」は社会で受け止めようではないか、ということです。
団地というロケーションは、単なる共同体ではなく、高齢社会の象徴でもあります。今の私たちが置かれた状況の縮図です。
主演を務めたカトウシンスケさんが「何かを作る・表現することは1%でも他者を傷つける可能性がある」といみじくも言い表しているように、誰もが誰もを傷つける可能性があると意識し、傷口についてはみんなでケアしていく、というのが理想でしょう。
つまり、生きることの暴力性を自覚している人こそ、他者に優しくなれるはずです。他者を赦せるはずです。
皆の花
認知症の忠義のため、家中のあらゆる物に名前や中身を記したシールが貼られています。
一方、本作のタイトルは“誰かの花”です。
もちろん、ストーリー上の仕掛けではありますが、これについては“持ち主”はなく、皆で「不確かな罰」を引き受けるんだというメッセージが込められていると読んだほうが、救われるでしょう。
また、「人間の行為と罪に関する考察映画」という視点において、本作はクシシュトフ・キェシロフスキ監督の『デカローグ』に比べられうるものです。
宗教とは関係なく、高齢社会を土台に、それらを考えられるということを、本作は巧みに示しています。