連載コラム「映画道シカミミ見聞録」第58回
こんにちは、森田です。
今回は、2021年8月20日(金)より新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ渋谷ほかで公開される映画『うみべの女の子』を紹介いたします。
残酷なまでに丁寧に描かれた「青春の暴力性」を読みとることで、希望につながる本作の見どころを紹介していきます。
映画『うみべの女の子』のあらすじ
海辺の田舎町を舞台に、中学生の小梅(石川瑠華)が憧れの三崎先輩(倉悠貴)に振られた腹いせに、一度告白されたことのある同級生の磯辺(青木柚)を呼び出し、身体の関係を持つことから物語ははじまります。
初体験を済ませた小梅は、その後も磯辺の家に入り浸るようになり、漫画を読んだり、音楽を聴いたりしながら身体を重ねていきます。
一方で、小梅に片思いしている幼馴染の鹿島(前田旺志郎)は、ふたりの仲を怪しんで磯辺を問い詰めます。
性的関係をほのめかす磯辺と言い争いになった鹿島は、ついに拳を振り上げ、校内で流血騒ぎを起こします。
しかし、この直接的な暴力のまえから、本作ではある残酷さが美術によって表現されており、まずはそのポイントからみていきましょう。
残酷ポイント①「モテ非モテの文化資本」
磯辺の部屋は、大量のCDや本で埋め尽くされています。これらはすべて兄が遺したもので、加えてゲーム会社に勤める父親(村上淳)は家を空ける日が多いため、いつでも自由に触れられる環境があります。
対する鹿島は、とにかく元気のいい野球部員。小梅が徐々に心惹かれていくのは、幼馴染の鹿島ではなく、転校生の磯辺でした。
これに似たような敗北感を抱えたかつての少年も多いのではないでしょうか。
「都会の文化系」と「田舎の体育会系」の違いの本質は、「文化資本」の差に求められます。
生まれたときから、手の届く範囲に、親や兄弟から譲り受けた文化的要素があること。この力は実に大きなものです。
ネットが発達した今なら、努力次第である程度世界中の情報を手に入れられますが、原作の時代設定である90年代後半では、教養としてのカルチャーは誰もが等しくアクセスできるものではありませんでした。
ウエダアツシ監督は、いまでもその時代の空気を引きずっていると述べ、みずからを「音楽も漫画もフィジカルに所有する時代で、“モノ”に対する執着があった最後の世代」に位置づけていますが、その認識が本作では美術(部屋の飾り込み)で文化資本の差を明示するという残酷さに息づいているのがわかります。
そして格差は連鎖し、再生産されるという意味でも残酷です。
それは町全体を閉塞感で飲み込み、放っておけば物理的暴力の温床と化していきます。
残酷ポイント②「格差の連鎖といじめ」
実際に本作では、物語の背景に「いじめ」があります。
磯辺の兄は自殺したことが示唆され、磯辺はその罪悪感を復讐の原動力としています。
ヤンキーがいわゆるオタク(文化的強者)に対してどのような言動をとるかは、想像に難くないでしょう。
鹿島が磯辺に振るった暴力も、ただ挑発に乗せられただけでなく、理解の及ばぬ「他者」への羨望や憎しみが込められていたはずです。
また磯辺がこの暴力の連鎖を止められるかどうかも、本作の鍵となります。これを断ち切らないかぎり、真の救いは訪れません。
暴力的な事件の前後で、「動」から「静」へストーリーが転調するのは、押見修造の描いた『惡の華』の展開に近いですが、大爆発(自暴自棄)のあとも続く生活のなかで、どのようにまた他者と関わり合いを持つかが共通のテーマとして浮かび上がります。
残酷ポイント③「満たされない欲望」
結局のところ、暴力性は他者をめぐる物語の中で発露するといえます。
小梅は磯辺と激しく交わったあと、“してもしても何かが足りない気がするのはなぜ”と尋ねます。
これが意味することは、「欲求は満たされるが、欲望は満たされない」ということです。
つまり「自己の生理的欲求」と「他者を求める欲望」は異なります。そして他者とは所有できない存在です。
部分的な対象(生殖器官)への愛着(所有欲)を超え、他者は自分のものになりえないと知るのが大人への第一歩になりますが、だからこそ孤独なふたりが1つになろうとする希求は激しさを増すという葛藤と矛盾。
本作が性愛をとおして見事に映し出しているのは、この残酷な関係です。
それも思春期の少年少女にかぎらない、人間の本質的な哀しさとして見せることに成功しています。
ふたりの女の子
欲求から欲望への変化。両者の違いは、小梅と磯辺の“優しさ”にも表されています。
磯辺は“好きな人は優しい人”と言う一方で、小梅は徐々に思いを募らせていくなかで“優しくしたい”と行動するようになります。
この気持ちは交差するようでしていません。なぜなら、前者は自分の「欲求」にとどまり、後者は他者を求める「欲望」に向かい始めているからです。
磯辺は最初は小梅に片思いをしていたものの、海辺で拾ったSDカードに写っていた女の子を見てからは、彼女をPCのデスクトップの背景にしてしまうほど夢中になってしまいます。
彼を満たすのはあくまで「イメージ」であり、実際に彼女と出会えるかどうかは関係ありません。
これは彼の“復讐”においても同様です。磯辺は鹿島に殴られながら“お前どこみて話してるんだ”と詰められます。
その答えは「自分」です。磯辺は自分を傷つけるものに対していつも“他人の痛みを想像できないやつを許さない”と捨て台詞を吐くのですが、彼も基本的に自分しか見ていないことに変わりはありません。
自己のイメージの世界で行われる勝手な復讐は自己満足に過ぎず、映画『タクシードライバー』(1976年)や『ジョーカー』(2019年)の主人公たちの行為(正義)になぞらえることができるでしょう。
隣にいる小梅と、想像のなかの美少女。欲望と欲求を体現する“ふたりの女の子”が磯辺の行く末を占っています。
青春の残酷な希望
そして小梅の欲望はある「贈り物」に象徴されています。何かを贈るという行為は、いうまでもなく他者を必要とします。
その贈り物は本作のモチーフであると同時に、小梅が自己の欲求を離れ他者と再びつながりを求めようとする成長の記号でもあります。
人間は愛を覚えてしまう。ゆえに自己充足的な幸福な関係が永続することはない。これこそが本作の提示するもっとも残酷な真理かもしれません。
海をとらえる手持ちのカメラが、風に吹かれて、波に揺れているように、小梅たちは漂流のさきに落ち着くべきところにたどりつくでしょう。
それぞれがそれぞれの愛の形を見つけること、また、時が経てばどうにかなってしまうという人間の底しれぬエネルギーが、青春の残酷な希望として輝いています。その名状しがたい光をぜひスクリーンでご覧ください。