連作コラム「映画道シカミミ見聞録」第29回
あけましておめでとうございます。森田です。
本サイトでは年明けに「2018年映画ランキング」が発表されました。
私も選出していますが、ベスト10に入れるべきだったと深く反省している映画『シュガー・ラッシュ:オンライン』を今回は紹介いたします。
大人こそわかる、楽しめるといったアニメーションは数多くありますが、本作はその白眉であり、「自分を愛せなくては、だれかを本当には愛せない」という厳しくもあたたかな視座を提供してくれます。
CONTENTS
映画『シュガー・ラッシュ:オンライン』のあらすじ(2018)
ゲームセンターのアクションゲーム「フィックス・イット・フェリックス」の悪役を長年にわたり務めてきたラルフ。
敵キャラといっても心根はやさしく、お菓子だらけの世界でレースを繰り広げる「シュガー・ラッシュ」の天才レーサー、ヴァネロペと仲良しです。
ふたりは毎日、閉店後に集まっては、他のゲームのなかに入りこんで朝まで遊んでいました。
そんなある日、ゲームセンターにWi-Fiが接続され、レトロな世界にも変化の兆しが訪れます。
折しも、シュガー・ラッシュのハンドルが壊れてしまい、ヴァネロペは大慌て。“失業”の危機です。
メーカーはすでに倒産していて、途方に暮れていたところ、オークションサイト「eBay」に1点だけそれが出品されていることがわかります。
“インターネット”がなにを意味するのかもわからない彼らでしたが、ラルフは大事なヴァネロペのために一肌脱ぐことを決意します。
私のヒーロー 前作『シュガー・ラッシュ』より
ラルフの首元には“私のヒーロー”と書かれた手製のメダルがかけられています。
これは前作の『シュガー・ラッシュ』(2012)で、ヴァネロペがみずからつくったものです。
続編においてはその“ヒーロー像”が足かせとなっていくのですが、ふたりの関係と個性をより深く読み解くためにも、出会いをすこしふり返ってみましょう。
孤独からの友情
もともとラルフは、ヒーローに強く憧れていました。仕事とはいえ、みんなから嫌われることに心底嫌気がさしていたのです。
一方でヴァネロペも最初から最強レーサーだったわけではなく、みんなから変わり者と疎まれ、レースにでることさえ許されていない存在でした。
その理由は彼女には「欠陥プログラム」があるから、とされていました。俗にいう“バグ”を抱えていたわけです。
ゲームキャラにとってもっとも恐ろしい事態は、ゲームが故障し、廃棄処分とされてしまうこと。
つまり万が一バグが深刻な不具合を引き起こしたら、全員が“家”を失い、路頭に迷ってしまいます。
そのためにヴァネロペは集団から隔離され、ひとり山のなかで暮らしていました。
出発点は「ヒーローになれない悪役と、レーサーになれない少女の物語」だったといえるでしょう。
孤独な魂がふたりを寄せあうのも、時間の問題です。
ゲームからの逃走=闘争
ラルフは他の敵キャラと悩みを共有する「悪役の会」に参加します。
「役割は変えられない。今のままの自分でいいんだ」と自己を肯定しあうのですが、どうもしっくりきません。
彼はなんと言われようが、“人並みに愛されたい”という気持ちを心からなくすことはできません。
そこで、祝福を得るためにはヒーローのフェリックスのように、メダルを獲得する必要があると信じこみます。
当然、自分のいる世界には自分に与えられるメダルなどなく、他のゲームで探すほかありません。
しかし「自分のゲームの外で死ぬとゲームオーバーになる」と周囲は猛反対。
この言葉はじつに示唆的です。
わたしたちの人生でも、既存のレールから外れようとすると「生きていけない」と反発されることがあります。
では“ゲーム”でうまく勝てなかったら、おとなしく黙っているしかないのか。
いや、ゲーム自体を変える、すなわちルールの線を引きなおすという発想も可能でしょう。
ラルフは生きるために“逃走線”を引いてみせ、やがて「シュガー・ラッシュ」の世界に入っていきます。
不具合からの強み
メダルを手に入れるには、ヴァネロペをレースに出場させ、優勝してもらうことが必要でした。
出会った当初は反目しあっていたふたりですが、協力してレーシングカーをつくったり、特製のサーキットで練習したりするうちに、いつしかヴァネロペから「ラルフは親友だよ」と言われる仲になります。
ラルフの心をいちばん強く揺さぶったのは、「本当はいちゃいけない存在なんだ」とつぶやくヴァネロペの姿であったはずです。
彼女は感情的に不安定になると、砂嵐が走ったように画が乱れます。
まわりが恐怖するバグです。しかしラルフだけは「大丈夫、不具合はちゃんとコントロールするんだ」と励ましてあげます。
結果として彼女は、“一瞬消えてしまう”という自分の癖を利用し、レース中の危機を乗り越えてだれよりも速く走れるレーサーとなりました。
“逃走”につづいて、この“欠陥”も人生に敷衍して論じられるテーマです。
落ち着きがないとされている人が、好奇心旺盛で、独創的な仕事をやり遂げることもあるでしょう。
また協調性がないとされている人が、集中力を発揮し、いつもミスのない仕事を残していることもあるでしょう。
ラルフのいうように、コントロールさえすれば短所は長所になりうるのです。
ヴァネロペの公式プロフィールによれば「プログラムにバグがあるが、それが彼女のスーパーパワーとなっている」とのこと。
まさに“バグ”かどうかは相対的な問題にすぎません。すべては環境しだいです。
これはラルフにもおなじことがいえ、彼は「私のヒーロー」という役割を与えられ、自己認識を改めるに至りました。
「オレは今の自分が好きだ」
「あの子がオレを好きでいてくれるなら、悪役もわるくない」
続編に引き継がれた課題
しかしながら、前作にはその展開によっていくつかの課題が生じています。
たとえば、ヴァネロペがプリンセスだったという設定は、「下賤と高貴の転倒」という童話の定型をなぞり、ありきたりなラストとみることができます。
また、ラルフとヴァネロペの救助にあたった他のキャラクター、フェリックスとカルホーン軍曹が愛を育み、結ばれることでハッピーエンドとはやや陳腐です。
そしてなにより、「ヒーローが少女を一方的に救う」という構造が、“愛という名の暴力”をはらんでいました。
続編におけるそれぞれの「回答」を確認していきましょう。
ロマンチックラブから里親に
前作の最後でキスを交わしてゴールインしたフェリックスとカルホーン軍曹。
今のご時世、それが決して“ゴール”ではなく、そこからが波乱万丈の“スタート”であることは、もはや子どもでも気づいているはず。
夫婦となったふたりのつぎの物語が“子育て”だとして、本作ではそれを一時休業となったシュガー・ラッシュのレーサーたち全員を彼らが引き受けることで描きます。
パーカーのプリンセス
他のレーサーが預けられているあいだ、ラルフとヴァネロペはインターネットの世界に飛びこんで、一刻も早くゲームのハンドルを入手しようとします。
SNSサイトやネットショップが大都市のように広がる空間には、ディズニープリンセスのアバターが集う「OH MY DISNEY.COM」も人気を博しています。
ヴァネロペが潜りこむと、以下、14名のプリンセスが一堂に会していました。
ラプンツェル(『塔の上のラプンツェル』)、アリエル(『リトル・マーメイド』)、モアナ(『モアナと伝説の海』)、アナとエルサ(『アナと雪の女王』)、シンデレラ(『シンデレラ』)、白雪姫(『白雪姫』)、ベル(『美女と野獣』)、オーロラ姫(『眠れる森の美女』)、ムーラン(『ムーラン』)、ジャスミン(『アラジン』)、ポカホンタス(『ポカホンタス』)、メリダ(『メリダとおそろしの森』)、ティアナ(『プリンセスと魔法のキス』)。
そうそうたる顔ぶれですね。
パーカーを着た“プリンセス”のヴァネロペは、そのなかでは浮いてしまいそうですが、カジュアルな服装の魅力を知った彼女たちが逆にTシャツを着ることになりました。
高貴さは服装にあるのではない。内面と行動に宿るのだ。そんな姿勢がうかがえます。
インターネットの大きな世界に目を見開かされたヴァネロペも、小さなアーケードゲームの世界に帰りたくないと思うようになっていきます。
ヒーローの“バグ”
一方で変化を好まないラルフは、はやくハンドルを落札して、元の世界に戻りたいと考えています。
彼に言わせれば、彼女との関係は「靴と靴下」のように分かちがたいものであるようです。
なぜならふたりは“親友”だから。自分には“私のヒーロー”のメダルがあるから。
ラルフは動画サイト「バズチューブ」で、体を張ったおもしろ動画を立てつづけに投稿し、高値で落札したハンドルのお金を稼ぎました。
さあ戻ろうと呼びかけるラルフに対し、ヴァネロペはこの場で見つけたゲーム「スローター・レース」の世界にとどまりたいと打ち明けます。
ここには変な人がいっぱいいる。なにが起こるかわからない。それが自分にとっては楽しいのだと。
つまりは“新しいコース”に行きたい、つぎの夢を見つけたということです。
ラルフは動揺を隠せず、そのレースのスピードと興奮を落とせばヴァネロペも興味を失うのではと、ウィルスを放つという愚行にでます。
それは“ヒーローの危うさ”を物語る行為です。制作者のインタビューから、より詳しくみていきましょう。
制作者のメッセージ
まず製作のクラーク・スペンサーはパンフレットでこう述べます。
「このふたりは、もう友達でなくなるかもしれないんだよ。すばらしい展開だ。本当に泣いちゃうよ」
友達でなくなることが、なぜ“すばらしい展開”なのでしょう? 監督のひとり、フィル・ジョンストンは率直に言います。
「自分をきちんと愛せない人は、本当の意味で良い友達にもなれないんだ」
そう、ラルフの自己肯定感は“あの子がオレを好きでいてくれるなら”という前提に支えられていました。
いわばヒーローの“バグ”です。
「大人だって、自分が嫌いな人はいる。それは、恋愛や友人関係、家族関係に、どんな影響を及ぼしているのだろう?」
おそらく、自分の不安、ふさいだ気持ち、自信のなさを他人で満たすようになるでしょう。そして気づかぬうちに“依存症”となっていることでしょう。
だから一度、“友達でなくなること”が必要なのです。
「この映画は、自分を受け入れ、愛することを学ぶことを語る。みんながそうすることで、世界はもっと優しく、思いやりのある場所になるだろう。今、僕らはそれを必要としていると思う」
ラルフは「ヴァネロペの視点」から自分を見るようになって、自分を好きになりました。
でもそれだけでは不十分です。「自分で自分を好きになれるのか」が、この物語でも、現代という時代でも問われています。
もうひとりの監督、リッチ・ムーアも言います。
「ヴァネロペが好きだと言ってくれるなら、ラルフは自分を好きになれる。でも、彼は、自分で自分を好きになることを学ばなければいけないんだ」
認知療法とセラピー
ラルフがばらまいたウィルスは「スローター・レース」から抜けだし、ネット世界全体を覆いつくしてしまいます。
それは“友達”を求めさまよい一体化し、ついには巨大なラルフを生みだします。
ラルフ本人は、醜悪な姿でヴァネロペを追いつめるその塊をみて「客観的に気持ち悪い」と感じるようになります。こいつ、かなりキモイなと。
ヴァネロペを好きだという気持ちが、ストーキング行為になりつつあることを自覚したのです。
ここには「認知の歪み」を修正する心理療法のプロセスが働いたといえます。
本作が特筆すべき点は、ヒーローの“バグ”をついただけでなく、その“修復過程”も現実に即して描写していることにあります。
自分を好きになれないのは、「自分は愛されない」という認識が根底にあるからです。
自分そのものを変革するというよりは、そういった認識、ものの考え方や受けとり方を修正する「認知療法」が彼には必要だったのかもしれません。
そして実際にこの一件後は、ヴァネロペ以外の友達を見つけるべく、彼はイベントやセラピーに顔をだすようになります。
そのような認知=枠組みの軌道修正と行動の積み重ねが、事後的に「愛せる自分」を形成していくのです。
ひとりになるため出会ったふたり
ラルフとヴァネロペは互いをきつく抱きしめて、別れを選択します。
ふたつに割れてしまったメダルが重なって、また“私のヒーロー”の文字があらわれます。
だれが悪かったわけでもありません。人間は変わる。そのことだけがただ重要でした。
ラルフはヴァネロペの「レーサーになりたい」という夢を叶えました。
その夢がどんな大事でも、ふたりがずっと一緒にいる理由にはならないのです。
またラルフは自分で蒔いた種とはいえ、「スローター・レース」の崩壊からヴァネロペを救いました。
ひとりの命を救ったとしても、これもまた、ふたりが離れられない理由にはなりません。
本作は「変化」という存在を擬人化したネットの世界に託し、ヒーローさえも手出しのできない領域にしています。
そして「ヒーローなき後の世界」における、各人の自由と悲しみを謳っています。
別れが辛くないはずがありません。でも、自分で自分を愛せるようにならなければ、だれかがより辛い思いをするだけです。
さよならだけが人生だ、という言葉もあります。それでもなぜ、人は人を求めるのでしょう。
本作からいえることは、より「自由なひとり」になるため、「愛すべき自分」になるために努力したふたりがいて、それは一緒でなければできなかった、ということです。