連載コラム「映画道シカミミ見聞録」第2回
森田です。第2回目は新作映画をご紹介します!映画の大学で働いていると、卒業生がかかわる作品が公開されるといううれしいニュースが、毎日のように入ってきます。
7月14日(土)に封切りされる『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』もそのうちの1本で、脚本をOBの足立紳さんが担当しているのを目にし、「これは!」と心が浮き立ちました。
映画『百円の恋』脚本家の足立紳さん
脚本家の足立紳さんは、オリジナル脚本を手がけた、映画『百円の恋』で第39回(2015)日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受賞。
2016年には『14の夜』で監督デビューも果たします。近作では『デメキン』(2017)や、『嘘八百』(2018)の脚本を務め、みなさんの記憶にも新しいのではないでしょうか。
わたしも足立さんのファンで、多くの脚本に共通して見いだせる「ルーザーたちの戦い」という世界、別の言い方をすれば「うだつの上がらない人間たちの再起をかけた一勝負」という設定に、なんど自らの境遇を重ねあわせたことでしょう。
足立さんなら、モヤモヤを抱えて過ごした思春期や、遠のく夢をぎりぎり視界の端にとどめながら送る生活をきっとわかってくれる、そういう信頼を勝手に寄せています。
コミックス『惡の華』漫画家の押見修造さん
そのような作品を得意とする足立さんが、“いびつな青春”を描かせたら右に出る者がいないといえる漫画家、押見修造さんの原作『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』と向きあうというのですから、期待はどこまでも膨らんでしまいます。
わたしが映画化のニュースを知り「これは!」と膝を打ったのは、押見作品のファンでもあるから、という理由もありました。
一躍その名を知らしめることとなった大ヒット作『惡の華』(別冊少年マガジン、2009-2014連載)では、想いを寄せるクラスメイトの体操着を盗んだ男子生徒と、それを目撃した女子生徒とのあいだで結ばれる奇妙な愛情(共犯関係)を、中学から高校時代にかけて描いた衝撃作。
いわゆる“キラキラ青春もの”を見慣れたひとにとっては、“気持ち悪い”とか“おかしい”とかの感想がまず出てきそうな描写が多分にあります。
しかし“ヒリヒリ”とした痛みでしか到達しえない青春の実像が現実にはあって、そこに触れることではじめて救われる人々は、おそらく想像以上に多くいるはずです。
漫画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』の帯に書かれたコピーには、こうありました。
「普通になれなくて ごめんなさい」
お薦めの『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』のこと
主人公の志乃ちゃんは、高校に入学したばかりの1年生。うまく言葉をしゃべれないせいで、他人と距離をおいてしまい、いつも一人でいるような少女です。
原作も映画もそれを「吃音(きつおん)」とは表現しませんが、これは押見さんの実体験に基づいています。
名前を聞かれでもすれば、胸が恐怖に満たされ、「お、お、お…」とどもってしまう。そのせいで自分からはひとに話しかけようとはせず、どんどん内向的な性格になっていったそうです。
漫画ではそんな志乃ちゃんが、音楽好きで「音痴」な同級生と友だちになり、バンドを組み、文化祭での演奏を目指すスクールライフが描かれます。
ここですこし、“映画道”ならぬ“寄り道”を。わたしも押見さんとおなじく群馬県出身で、描かれている物語に言外の文脈を読みとることもあります。
山に囲まれた土地で、その向こう側に夢や希望を託しながら――『惡の華』の中学篇では「脱出」を試みて一度クライマックスを迎えます――クラスメイトのノリにあわせて毎日を生きている。
どこにもゆけないその感じが、環境のせいなのか、能力のせいなのか、自分でもよくわからない。“ちょっと変わっている”ことを恥じればいいのか、あるいは誇ればいいのか…。
志乃ちゃんの悩みをあえて「吃音」と明記していないのは、だれもが抱える“行き場のない感情”に普遍性を持たせるためだったのでしょう。
だから、思春期を経験したひとであればみな共感できるような物語になっているのです。
幸運にも、わたしは押見さんとお会いする機会に恵まれました。
押見さんの大学の同期に、“うだつの上がらない男”がいて、それはたまに漫画のキャラとしても登場しているのですが、わたしもその方には大学時代からお世話になっているというご縁でした。
名を加藤志異さんといい、「妖怪になるのが夢」と十数年来、言っています。
とても1回のコラムでは説明できません。よろしければ、その活動を追ったドキュメンタリー映画『加藤くんからのメッセージ』(2012)をご覧ください。
参考映像:『加藤くんからのメッセージ』(2014)
押見さんは、当時連載していた『ぼくは麻理のなか』(双葉社、2012-2016連載)の「麻理」をさらさらっと描いてくださり、悩み、悩んだ末に、こんな素敵な大人になれたらいいなと、わたしはそのとき思ったほどです。
旧友の“妖怪”にも、見ず知らずの若者にも、心を配って接してくれる押見さん。「暗い青春の影」は微塵も感じませんが、漫画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』のあとがきを読むとまた、なるほどと膝を叩きます。
「吃音」の症状に悩まされた過去は、悪いことばかりだったわけではないと、押見さんはこう記します。
「ひとつは、相手の気持ちにすごく敏感になるということです。(中略)これは、漫画で表情を描くとき、すごく力になっていると思います。」
「もうひとつは、言いたかったことや、想いが、心のなかに封じ込められていったお陰で、漫画という形にしてそれを爆発させられたことです。」
どうでしょう。現在進行形で悩み、自分を疑っているひとには、金言のように聞こえるのではないでしょうか。
すくなくとも、わたしは押見さんの姿から、この言葉を信じています。しかし「別に漫画を描くわけじゃないし…」と思うのも当然でしょうから、つづきを引用します。
「僕にとっては、たまたま漫画だったというだけで、それは人それぞれにあるんだと思います。
どんなに小さな事でも、大きな事でも、世界を反転させる何かがひとつだけ、一瞬だけでもあれば、それで生きていけるんじゃないかと。」
ダメだと恐れる自分の一面から、“私らしい感情”がたまればたまるほど、「世界を反転させる力」を蓄えているのだと思いたい。
映画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』を観ることで、その姿勢に一歩だけでも近づけるようになると、お薦めさせていただきます。
筆者公式HP:http://shikamimi.com
映画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』は、7月14日(土)より、新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー