SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2020エントリー・カトリン・ゲッベス監督作品『ペリカン・ブラッド』がオンラインにて映画祭上映
埼玉県・川口市にある映像拠点の一つ、SKIPシティにておこなわれるデジタルシネマの祭典が、2020年も開幕。今年はオンラインによる開催で、第17回を迎えました。
そこで上映された作品の一つが、ドイツのカトリン・ゲッベ監督が手掛けたサスペンス映画『ペリカン・ブラッド』。養子、幼児虐待などといったさまざまな社会問題を、サスペンスエンタテインメントを織り交ぜて描いたドラマです。
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映画『ペリカン・ブラッド』の作品情報
【上映】
2020年(ドイツ、ブルガリア合作映画)
【英題】
Pelican Blood
【監督】
カトリン・ゲッベ
【キャスト】
ニーナ・ホス、カテリーナ・リポフスカ、アデリア=コンスタンス・ジョヴァンニ・オクレッポ、ムラタン・ムスル
【作品概要】
一人の孤児を養子として受け入れる女性に巻き起こる姿を通して、「母性」についての深い考察を描いた物語。
本作はゲッベ監督の長編2作目となる作品で、第76回ヴェネツィア国際映画祭オリゾンティ部門のオープニングとしてワールド・プレミアがおこなわれ、トロント国際映画祭ほか、数多くの映画祭で上映されました。
主人公ヴィープケを演じたニーナ・ホスは、『東ベルリンから来た女』(12)で一躍ドイツを代表する女優となり、『あの日のように抱きしめて』(14)、『男と女、モントーク岬で』(17)などで主演を務めるなど、活発な活動を展開しています。
カトリン・ゲッベ監督のプロフィール
ドイツ出身。初長編映画となった『Nothing Bad Can Happen』(13)はカンヌ映画祭ある視点部門でワールド・プレミアがおこなわれ、ドイツ映画批評家賞、バイエルン映画賞、AFI映画祭の新人映画監督部門批評家賞などさまざまな賞を受賞しました。
長編デビュー作の発表以前にも、ハンブルグメディアスクール在学中に撮った短編映画が受賞を果たしました。ほかにも、オランダのビジュアルアーツ&デザインアカデミーとアメリカのボストン美術館附属学校で実験的映画を撮影しています。
映画『ペリカン・ブラッド』のあらすじ
ヴィープケと養女ニコリーナは、警察が業務で使用する馬を育てる牧場で、穏やかな暮らしを送っていましたが、長きに渡りニコリーナに妹をと願っていたヴィープケは、ついに新たな養女ラヤを迎え入れることとなります。
ラヤの無邪気な表情に、当初は幸せを感じていたヴィープケでしたが、ほどなくして二コリーナの態度などから、ヴィープケはおとなしかったラヤが時に恐ろしいまでに攻撃的で、自身と他人に危険を及ぼす存在であることに気づいていくのでした。
映画『ペリカン・ブラッド』の感想と評価
世への問題意識に目を向けさせる手法
この物語は一部虚構的な側面の中で社会的な問題に大きく触れる部分があります。当然その事実性の面で大きな説得力が必要なものでありますが、その面で不自然さを感じさせない裏取りの周到さ、リサーチの徹底ぶりが強く感じられます。
そのポイントの取り上げ方としては孤児、養子、シングルマザーといった非常にピンポイントなテーマですが、だからこそといえる問題意識の明確化が図られているようでもあります。
例えばゲッペ監督は、主人公の行動を「キリスト教の宗教画に書かれたペリカン」になぞらえ描いていますが、献身的という意思が必ずしも正義ではないものに見えるその展開には、いい意味で「嫌な気持ち」にさせられます。
養子を得るという意識に関して単に「恵まれない孤児を養子にとる」という行動には、単なる憐れみのような意識になりがちなケースも想定されます。
この物語では、そんな憐れみを超えた、自身の強い家族欲ともいえる思いを覚悟する女性の姿として描きつつ、「自身の思いだけでその行動を起こすことが正しいかどうか?」などといったポイントに展開し問題、課題の提起をおこなっています。
一方でこういった家族の形成の仕方はある意味新しい形として今後さまざまなケースも考えられますが、その難しさというものを養子のラヤを見る主人公ヴィープケの目線に、彼女に思いを寄せる同僚の男性、さらにもう一人の養子二コリーナとの複雑な心理関係を交えて、うまくまとめ上げています。
本作には非常に普遍的なテーマに深く切り込んでいる姿勢が強く感じられ、ミステリーというジャンルに強く引き込まれながらも単に物語の怖さ、神秘性を味わえるだけでなく、映画から見えるショッキングなポイントを多岐に展開させています。
それは世に存在する不条理に注意を向けさせる向心力を持ったものであり、世界にある普遍的な問題への意識に対して、巧みな問いの投げかけ方をおこなっているといえるでしょう。
カトリン・ゲッベ監督インタビュー
「この作品は、親であろうとすることの悪夢を描いています。タイトルは、母親のペリカンが亡くなった子を蘇らせるためにその子に自分の血を与えるさまを描いたキリスト教の宗教画を元にしており、献身的な愛と信念を象徴しています。
主人公のヴィープケも無情な娘の心を治すために自己犠牲的な行動をとります。怪しい治療を試すことから始まり、彼女自身のジレンマの解決策を探すことにどんどん取り憑かれていきます。
当時は大きな映画に挑戦するにはまだ充分な状態ではありませんでしたが、私の中に眠っていた、物語を伝えたいという意識が蘇りました。その結果、自分の意志に反し今までで最も自叙伝的な作品を書くことになりました。」
虚構性、エンタテインメント性との絶妙なバランス感
また、この作品は社会的な深い闇の部分に切り込んでいる一方で、非常にエンタテインメント的な要素をうまく入れているところにも光る特徴があります。これは物語の後半部分に登場するエピソードですが、物語の前半、後半という境界で明確なコントラストを形成しています。
どちらかというとある意味ドキュメンタリー的でもある前半に比べ、神話的な部分に触れる後半。あくまで現実離れするシーンは存在しないのですが、それでも「どうにもならない」現実を突きつけられ絶望感すら漂う前半に比べ、何か飛躍的なポイントが現れる後半ではある意味期待を裏切られるような浮遊感を覚えるでしょう。
それはまさしく「あれ、何でこんな感じになるんだっけ?」と不思議な気持ちになるものです。そしてラストでは結果的に結論が示されず「果たして、問題は解決したのだろうか?」と完全に判断を見る側に任せる展開となっていますが、その後を引く映画の中で感じられる問題意識は、まさしくこの展開で何倍も強く感じさせるものとなっています。
まさしくそのフィクション、ファンタジー的な要素の絡め方は非常に巧みで、映画を見せるという点、見せなければ伝わらないという課題を熟考しよく煮詰めた、という印象があります。
まとめ
作品が幕を開け、平穏な家庭に一人の女の子が養子としてやってくる。そして新たな生活が始まり…と、その展開は2009年のサスペンスホラー映画『エスター』を思わせるところもあります。
そういったエンタテインメント面において本作は作品に目を向けさせる力など、単にメッセージをどう作品に込めるかというだけでなく、非常にビジネスという面でも映画の必要な要素を汲んだ、非常に間口の深い作品であるともいえるでしょう。
逆にクリエイターが作品に対して自分の訴えたいメッセージ、描きたいテーマを込めるかという課題に対してどのような要素、思惑が必要なのか、そんな点においても深く考えさせられるものでもあります。