クリント・イーストウッド初の西部劇“監督”作!
謎多き“流れ者”はいったい何者なのか?
俳優にして映画監督、クリント・イーストウッド。
数々の名作を手がけてきた彼が、監督デビュー作『恐怖のメロディ』(1971)に続けて発表した映画『荒野のストレンジャー』は、イーストウッドが初めて“監督”した西部劇映画でもあります。
多くの映画ファンから「異色の西部劇」と評されている本作。
本記事では、映画のネタバレ有りあらすじとともに、「主人公が幽霊」という本作最大の特徴と、幽霊を「自然」の化身を捉えた時に見えてくるイーストウッドが本作で創造・破壊したかったものを解説してきます。
CONTENTS
映画『荒野のストレンジャー』の作品情報
【公開】
1973年(アメリカ映画)
【原題】
High Plains Drifter
【監督】
クリント・イーストウッド
【脚本】
アーネスト・タイディマン、ディーン・レイスナー
【音楽】
ディー・バートン
【キャスト】
クリント・イーストウッド、ヴァーナ・ブルーム、マリアンナ・ヒル、ミッチェル・ライアン、ジャック・キング、ステファン・ギーラシュ、テッド・ハートリー、ビリー・カーティス、ジェフリー・ルイス、ロバート・ドナー、アンソニー・ジェームズ、ダン・ヴァディス、ウォルター・バーンズ
【作品概要】
謎多きガンマンの来訪を描く、ミステリアスな異色の西部劇。監督デビュー作『恐怖のメロディ』(1971)に続く俳優クリント・イーストウッドの監督作であり、本作で初めて「西部劇映画」を手がけた。
脚本は、ウィリアム・フリードキン監督作『フレンチ・コネクション』(1971)でアカデミー脚本賞を受賞したアーネスト・タイディマン。
映画『荒野のストレンジャー』のあらすじとネタバレ
一人の流れ者が荒野の陽炎とともに現れ、やがて荒野の中に立つ町ラーゴに辿り着きます。
町の酒場へと入り、注文を済ませる流れ者。そこで彼は3人のガンマンに絡まれますが、「腕が違う」と全く相手にせず、そのまま髭剃りと風呂のために床屋へと足を運びます。
これから髭を剃り始めるというところで、先の3人組が床屋にも現れます。嫌がらせを続ける3人組でしたが、流れ者は瞬く間に全員を撃ち殺しました。
町民たちが騒ぎを聞きつけ床屋に集まる中、床屋で働く小男モーディカイは流れ者に名を尋ねますが、彼が答えることはありませんでした。
床屋を後にした流れ者は、通りでぶつかってきたのちに自身を侮蔑の言葉を浴びせた町娘のカリーを馬小屋に連れ込むと、そのまま彼女とを強引に行為へ及びました。
やがて流れ者は、ベルディングが経営する町のホテルに泊まることに。そこでの宿帳にも名を書くことを拒んだ彼は、鍵をかけた部屋で一人眠ります。
とある保安官が3人の男たちに鞭で嬲られ続け、町民たちは夜の闇の中で、助けを求める保安官をただ見殺しにする。保安官は「みな地獄に堕ちろ」という末期の言葉とともに、無念を抱いたまま絶命する……。
……そんな夢を見たのち、翌朝目を覚ました流れ者。再び床屋へ赴き風呂に入っていると、町の保安官サムが現れました。
「昨日流れ者が遭遇したビリー・アイク・フレッドは町の嫌われ者だったので、彼らを撃ち殺したことは咎めない」と伝えるサム。そこに、昨日流れ者に強引に抱かれたカリーが銃を手に襲撃し彼を殺そうとしますが、サムが取り押さえたことで事なきを得ました。
その頃、町長ジェイソン、鉱山会社を運営するドレイクとモーガンをはじめとする町民たちが、流れ者を町の用心棒として雇うことを話し合っていました。
かつてラーゴの鉱山会社では、ステイシー、コールとダンのカーリン兄弟の悪党3人を用心棒として雇っていました。しかし鉱山から金塊を盗み出した容疑をかけられ、くわえて町のもう一人の保安官であったダンカンを鞭で嬲り殺した罪を犯したことから、3人は酒で酔い潰れていたスキを狙われて逮捕・投獄されました。
そして、ステイシーたちは間もなく刑務所から出所することから、復讐を恐れた町民たちはビリー・アイク・フレッドを襲撃に備えての用心棒として雇っていましたが、その3人も流れ者に殺されてしまったため、急遽流れ者を新たに雇おうと考えたのです。
サムは用心棒になってくれないかと流れ者に頼みます。彼は依頼を断ろうとしますが、「礼は何でもする」というサムの言葉、そして「町の物は何でもタダで」という町長ジェイソンの言葉を聞いて、用心棒を引き受けることにしました。
町長ジェイソンが営む雑貨店で、ネイティブ・アメリカンの家族に店の品をタダでプレゼントする流れ者。その後も酒場の酒を店持ちで町民たちに振る舞い、自分用のブーツや馬具をタダも手に入れると、モーディカイを新たな町長兼保安官に任命。そして町民たちに、自警団「ラーゴ志願隊」を結成させます。
その頃、刑務所を出所したステイシーとカーリン兄弟。ラーゴの町民たちに復讐するため、道中で出くわした者を全員撃ち殺してその馬や服を奪うと、殺人の追っ手が来る前にと急ぎ町へと向かいます。
映画『荒野のストレンジャー』の感想と評価
異色の西部劇が描く主人公は「幽霊」?
2022年時点で92歳、「生ける伝説」といっても過言ではない俳優クリント・イーストウッド。数々の名作を手がけてきた映画監督としても知られる彼が、1971年の監督デビュー作『恐怖のメロディ』に続けて手がけたのが映画『荒野のストレンジャー』です。
映画監督イーストウッドにとしては初の「西部劇映画」となった本作を、多くの人々が「異色の西部劇」と評するその要因は、やはり作中の主人公である流れ者(Drifter)が「幽霊」であるかのように描かれているという点でしょう。
まるで「以前顔を見たことのある人間」かのように流れ者を意識するサラと、彼女との会話の場面で描かれた、流れ者の町民たちの罪を知っているかのような素振り。映画ラストに描かれた、名を再び尋ねてきたモーディカイへの「知っているはずさ」という答え……そう想像できる描写は、映画作中からいくつも挙げることができます。
何より、流れ者と町で死んだ保安官ダンカンをイーストウッド自身が一人二役で演じている点からも、流れ者は死者ダンカンの「幽霊」と想像できるはずです。
「善も悪ももたらす自然現象」としての幽霊
ダンカンの「幽霊」と想像できる流れ者が突然現れ、理解不能な行動によって人々を振り回し、破壊をもたらしてゆく中で、幽霊が出現した原因となった町民たちが犯した罪という「因縁」が次第に明かされていく……。
「ホラー西部劇」とでもいうべき物語が『荒野のストレンジャー』では描かれていきますが、果たしてイーストウッドは、ただ「異色の西部劇」または「ホラー西部劇」を描きたいがために本作の主人公を幽霊にように描いたのでしょうか。
映画作中、流れ者は自身に敵意を向けた者を容赦なく撃ち殺し、女性に対しても無理矢理犯すなど非倫理的・暴力的な行為に及びます。一方で小男モーディカイを保安官兼町長に任命し、ネイティブ・アメリカンの家族に町長の雑貨店にあった品をタダで贈るなど、その善悪の感覚は一言では形容しがたいものとして描かれています。
ダンカンの幽霊であるかのように描写される流れ者が、善行も悪行も至極当然のようにもたらす……その姿からは、「幽霊」としての振る舞いというよりも、災害も恵みも等しく与える「自然」の在り様を連想させられます。
流れ者は、確かに死者ダンカンの姿と瓜二つの幽霊であるかもしれません。しかしながら、彼はあくまでも「死者ダンカンの姿と瓜二つ」な姿を持っている幽霊というだけであり、映画は「幽霊の流れ者=死者ダンカン」を明確には描いていません。
イーストウッドは、善と悪の一切を等しくもたらす、あるいは人間が考え出した善悪などを一切意に介すことなく、ただ破壊と再生のみをもたらす「自然」を象徴する存在として幽霊=流れ者を描いたのではないか。
そして、死者ダンカンの姿と瓜二つなのは、ラーゴという町に残る彼の無念という「自然の一部」を偶然借りたに過ぎないのではないか……最後まで「幽霊の流れ者=死者ダンカン」を明確には描かなかった『荒野のストレンジャー』からは、そんな想像も可能なのかもしれません。
まとめ/自然の化身が破壊・再生する“流れ”
もしイーストウッドが本作を通じて、善と悪の一切を等しくもたらす、あるいは人間が考え出した善悪などを一切意に介すことなく、ただ破壊と再生のみをもたらす「自然」を象徴する化身としての幽霊=流れ者を描こうとしていたのだとしたら、彼は流れ者に何を破壊し、再生してもらいたかったのでしょうか。
本作の物語の舞台となる荒野に立つ町ラーゴは、金鉱で栄える町であり、その金鉱の利権を失いたくないという町民の総意が、保安官ダンカンを見殺しにするという非道をもたらしました。
そんな町民たちによる非道がもたらされた源流には、金鉱という富に固執するあまり同じ土地を離れられなくなり、「新たな幸福」または「新たな世界」を目指すなど夢にも見なくなった人々の心理……本来、社会の発展のために進歩を続け、世界の流動を続けるはずの人々の“淀み”の心理がうかがえます。
人々の“淀み”の心理……それは、多くの「西部劇」と呼ばれる作品が描く時代を象徴する言葉であり、新世界を自らの手によって切り拓こうとする「フロンティア・スピリット(開拓者精神)」と真逆の心といえます。
そして、ベトナム戦争の泥沼化やオイルショックによる不況、ウォーターゲート事件など政治スキャンダル、学生運動の衰退など、多くの人々が精神的停滞へと陥った1970年代のアメリカを評した言葉といっても過言ではないでしょう。
“淀み”の象徴である町ラーゴ(lago:イタリア語で「湖」)に大混乱を巻き起こし、町を徹底的に破壊。そして破壊された町に、フロンティア・スピリットに基づく人々の心の“流れ”を再生させる……1973年公開の映画『荒野のストレンジャー』の主人公であり、流れ者という「自然」の化身としての幽霊に、イーストウッドはその役目を託したのではないでしょうか。
映画ラストにて、サラは町を離れることを決意し、行動に移しています。彼女がそのような選択をとったことも、流れ者が再生した“流れ”の産物なのかもしれません。
ライター:河合のびプロフィール
1995年生まれ、静岡県出身の詩人。
2019年に日本映画大学・理論コースを卒業後、映画情報サイト「Cinemarche」編集部へ加入。主にレビュー記事を執筆する一方で、草彅剛など多数の映画人へのインタビューも手がける(@youzo_kawai)。