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講義【映画と哲学】第7講「恋愛・性的欲望・性的行為について:サルトルの観点から『デカローグ6』を見る」

  • Writer :
  • 田辺秋守(日本映画大学教授)

講義「映画と哲学」第7講
日本映画大学教授である田辺秋守氏によるインターネット講義「映画と哲学」。

第7講では、恋愛・性的欲望・性的行為に対してサルトルが展開した「眼差し」論を踏まえた上で、彼の「眼差し」の観点からクシシュトフ・キェシロフスキの映画『デカローグ6 愛に関する物語』を分析します。

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サルトルにおける他者と眼差し


ジャン=ポール・サルトル『存在と無Ⅱ 現象学的存在論の試み』(松浪信三郎訳、ちくま学芸文庫、2007年)

 恋愛と性的な欲望と性的な行為は、分かち難く結びついている。それらは人間が他者に対して抱く欲望と行為の連関を示す典型的なものである。今回は、その「恋愛」と「性的欲望」と「性的行為」に脚光を当ててみたい。

 ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre 1905-1980)は、前期の哲学的な主著である『存在と無』(1943)の第三部の他者論のなかで、有名な「眼差し」の議論を展開している。日常生活のなかで、他者に対する根本的な関係を示すのは、自分の視界に他人が現れるというありふれた光景である。サルトルは他者の存在を表すものを、端的に「眼差し」(regard)であるという。

 サルトルによれば、他者とは原理的に「私に眼差しを向けている者」である。しかも眼差しは、必ずしも「眼」ではない。眼差しは、足音や臭いやかすかな気配などを通して、いつでも私のうえにそそがれる。とりわけ、サルトルが好むのは、鍵穴から部屋の中を覗いている状態だ。覗き見をしている状況で誰かが自分に眼差しを向けた場合、そのとき感じる羞恥は、主体のありかたではなく、モノのありかただという。他者が眼差しを向けるだけで私はモノのように固化してしまう。これが他者による他有化〔他者のものになること・疎外〕(aliénation)である。しかし、私は「眼差しを向けられる」から「眼差しを向ける」に自分を変えることもできる。他者の眼差しにおいては他者が私を拘束するが、私の眼差しでは、私が他者を拘束するようになる。ここで問題になるのは、相互変動的な関係である。だから、対他関係はどうしても葛藤(conflit)になってしまう。

恋愛からマゾヒズムへ


松浪信三郎『サルトル』(勁草書房、1994年)

 恋愛は典型的な対他関係である。恋愛を説明するのに「所有」という観念はあまり適切ではない。しかし、恋愛には相手を我がものにしたいという欲望があるのも確かだ。しかし、恋する者は、モノを所有するようなぐあいに、相手を所有したいわけではない。自由に振る舞うことができる相手の存在を、我がものにしたいのだ。これは特殊な「我有化」(appropriation)である。

 誘惑される側からいうと、誘惑とは他者の「眼差しを向けられる」に自分を置くことである。それは誘惑者の面前において自分が無であることの意識を、相手のうちに起こさせることである。誘惑されることによって、自分を一つのモノとして見なすように相手に促すのである。要するに、サルトルのいう恋愛とは疎外をテコにして、自分の自由を実感しようとするまことに逆説的な感情である(たしかに恋愛感情にはそういう不合理な面があるだろう)。つまり自己の他有化を求める一つの自由である。ここに「他有化された自由」という、恋愛が企てる(到達不可能な)理想がある。

 サルトルの論点からすると、恋愛の「愛する」(能動性)の真の意味は、「愛されたい」(受動的欲望)ということである。そもそもこれは最初から相互性を求めるから、相互受動的な欲望なのだ。恋愛関係は相手から同等を要求する(自分が好きな分だけ、相手も好きになってほしい)。それが無限に続く。対他関係である以上、葛藤を免れない。つまり恋愛関係は不安定であり、結局のところ、他有化された自由という「恋愛の企て」は挫折する。

 恋愛の挫折は、他者と自己自身との同化を求めるための新たな試みをひきおこす。つまり、一方的な受動性に退却し、自分を他者に吸収してもらおうと企てる。このように他人の主観性のうちに自己を失おうとする企てを、サルトルは「マゾヒズム」(masochism)と呼ぶ。マゾヒズムは、原理的に「挫折した愛」の姿である。恋愛もマゾヒズムも「眼差しを向けられた者」としての自分の存在の承認をめぐってなされる態度決定である。しかしその他者による存在承認がうまくいかないと分かれば、今度は決然と他者へ眼差しを向け変える以外にない。

性的欲望

 サルトルには、眼差しは同時に二つの眼差しであることはできないという奇妙なルールがある。私が相手の眼差しのうえに私の眼差しを向けるやいなや、相手の眼差しは消失し、単なる「眼」が残るだけだ。この失望がきっかけとなって、その後のいろいろな試みが生じてくるという。 

 そのひとつ、他人の自由な主観性を奪い取ろうとする試みは、「性的欲望」のうちに最もよくあらわれる。性的欲望は他者の身体についての欲望であると同時に、みずから自己の身体のうちに没入しようとする体験である。性的欲望の実現が性的行為である。性的行為は、身体(corps, body)が肉体(chair, flesh)〔=モノ〕として私に示されるかぎりにおいて、相手の身体を我がものにすることである。性的行為は、相手の身体から、その衣服と自由な運動を取り去って、この身体をたんなる肉体として存在させようとする。つまり他者の身体を肉体化することである。サルトルはそれを受肉と呼ぶ。

 その意味で、愛撫する(撫でたりキスしたりする)ことは、他人の身体を我有化することなのである。愛撫は一種の加工である。愛撫は、他者の身体を肉体として、私自身にも他者にも顕示する。私は、他者が他者自身の肉体をとおして私の肉体を味わい、そうして他者が自分を肉体として感じるように仕向ける。そこには、二重の相互的な受肉(他者の/自己の肉体化)がある。性的行為に典型的な没入の体験とは、意識が肉体によって満たされてしまうことである。「肉体相互に対しての、肉体相互による、肉体の開花こそは、性的欲望の真の目標である」(『存在と無Ⅱ』449頁)。けれども、サルトルによれば、性的欲望は最後には挫折する。私の受肉が、相手の受肉を吸収して、ついには私の受肉だけが究極目標になってしまうところに、挫折がひそんでいる。そうなると、愛撫する快楽は、愛撫されるだけの快楽に変化する。たちまち、そこには肉体的交流の断絶が生じ、性的欲望はその目標を失う。

サディズム、そして循環性


アネット・インスドーフ『ふたりのキェシロフスキ』(和久本みさ子・渡辺克義訳、青土社、2009年)

 恋愛の挫折からマゾヒズムが誕生するように、性的欲望の挫折から、他者に対する新たな態度が生まれる。すなわち、サディズム(sadism)では、自己自身の肉体化を拒否する(自分だけは優越的に「身体」である)と同時に、力づくで他者にその肉体を顕示しようとする。他者は肉体の顕示に必死に抵抗しようとする自由を示す。サディストが我がものにしようと試みるのは、他者のこの自由である。サディズムとは、他者の身体の自由を我有化したいという欲望である。けれども、サディズムの犠牲者の自由は、原理的にサディストの支配に服さない(他者も「意識」、「身体」なのだ)。そこにサディズムの挫折があらわれる。犠牲者が決然とサディストに眼差しを向け変えるだけで、サディストは自分の存在の他有化を体験せずにはいられない。他者の眼差しのこの抵抗は、サディズムの目標を崩壊させる。

 以上のような他者に対する諸関係には循環性があるとサルトルはいう。愛はそれ自身で挫折する運命にあり、愛の死から性的欲望が出現するのであり、それはやがて自ら崩れ去って、再び愛の試みに場所をゆずる。このようなサルトルの考えは、あきらかに極端であろう。特に自分が一方的に主体となったり、他者が一方的にモノになったり、またその逆が起こるという見解は反論を呼ぶ。しかし、我々の他者経験の中で、とりわけ成就し得ない恋愛の中では、一方通行が演じられることはよくある。サルトルはそうした経験の次元を捉えているのだとも言える。

 この講義で取り上げるのは三回目になるが、キェシロフスキ監督「デカローグ」シリーズの『デカローグ6 ある愛に関する物語』をサルトル的な観点から分析してみたい。

『デカローグ6 ある愛に関する物語』

 19歳の郵便局員トメクは、向かいの共同住宅に住む年上のアーティスト、マグダに対して恋心を抱いている。トメクは身寄りがなく、友人(シリアに国連軍として派遣されている)の母のアパートに同居している。トメクは目覚まし時計をマグダの帰宅時刻の午後8時半にセットし、寝室から彼女の様子を望遠鏡で覗き見る。次第に彼の行動はエスカレートする。無言電話を掛けたり、偽の呼出し状を送ったりする。彼女に近づくために牛乳配達のアルバイトも始める。マグダがほかの男と性的関係を持とうとすると、ガス漏れがするとガス公団に偽りの電話を掛け、職員に二人の性行為を邪魔させる。二度目の呼び出し状で郵便局にやってきたマグダがそのトラブルで激怒し、去っていくところをトメクは呼び止め、ひょんなことから彼女に愛を打ち明ける。マグダは他愛のない「デート」を受け入れる。トメクはカフェでこれまでやってきたことを告白する。そこで、彼女は彼を自宅に招き、性的遊戯を始めるが、彼は早々と射精してしまう。トメクは逃げ出し、自宅の浴室で手首を切って自殺を図る。彼は病院に搬送される。後日、友人の母(彼女はトメクとマグダの様子を望遠鏡で観察していた)に付き添われてトメクは帰宅する。

性的欲望と恋愛の観点から『デカローグ6』を見る

参考映像:『愛に関する短いフィルム』(1988)
KRÓTKI FILM O MIŁOŚCI – przed rekonstrukcją, cały film

(1)トメクが向かいのマグダの様子を望遠鏡で覗き見していたのは、マグダへの恋心だけからではなく、マグダの肉体に対する欲望があった(「以前は」マグダを見て自慰行為を行っていたと告白している)。たしかに、これは窃視症という「倒錯的行為」と似ている。窃視症は、自分が他者の性的な欲望に巻き込まれない「安全な」場所から、一方的に覗き見したい欲望である。だから、覗き見する者は、相手から認知されることを一切必要としないし、自分の興奮を見られる必要もない。

(2)最初、トメクの行為は「安全な」場所からの一方的な覗きには違いなかった。だがすぐに相手にいたずら電話をかけるような「危険な」行為に出て、相手から認知されることを期待していた。この意味で、トメクの欲望はふつうの恋愛願望となんら変わらない。そもそも、最初に覗きと自慰行為をしていたのはトメクの友人であり、トメクは友人の行為を模倣していたのである。

(3)一方マグダの日常は、彼女自身がトメクの言葉(「美人で、男好き」)を認めているように、複数の男たちと性行為を繰り返す多情な女という姿である。彼女には、自分の性的な魅力を自覚したナルシシズム(自己愛)がある。サルトルの言葉を借りれば、マグダは男たちの面前で自分を一つのモノとして見なすように仕向ける術を心得ている。マグダこそが誘惑者の位置にいる。

(4)一方的だったトメクの覗きが、途中からマグダの挑発によって、まったく質の違うものになる。マグダは姿の見えない「覗き魔」に対して自分たちの性行為を見せようとする(男の方がうろたえ、そのあと怒り出すのとは対照的)。ここには、見えない敵に対しても見られる快楽を否定しないマグダがいる。

(5)いよいよマグダがトメクを誘惑し、性的行為の手ほどきをするシーンに、性的欲望と性的行為の問題が集中して示される。マグダはトメクを促して、自分の裸の内腿に手を触らせる。愛撫が性的な行為の基本であることを教える。しかし、これはよくある「恋のレッスン」のようなものではない。なぜなら、マグダは、覗きをされたことに対して、ひそかに復讐を行っているからだ。マグダにはトメクに対する性的欲望はない。トメクに教える口調や態度は、かなりサディスティックなものだ。初めての体験で思わず射精してしまったトメクをあざ笑う悪意すら感じられる。「分かった?これが愛よ」というマグダの言葉は究極の皮肉である。というのも、愛を理想化しているトメクに対して、愛とは射精することだと言っているも同然だからだ。

(6)もちろんこのシーンには、通常の性的欲望にともなう、肉体相互が感じ合う快楽はない。トメクはマグダに無理やり身体の肉体化を迫られて、快楽の伴わない射精をしたでけである。これは、あたかも恥ずかしさでモノに変身させられるというサルトルの他有化の例を地で行くものだろう。マグダは他者の「眼差し」と化して、ただ冷ややかにトメクの様子を見ているだけである。トメクは「眼差し」を返すことができず、マグダの部屋を出て行く。

(7)その直後に起こったトメクの自殺未遂(リストカット)は、自傷行為に属するものだ。本当の意味で自死を目指したものではない。マグダに与えられた恥辱から、マグダへの復讐を示す有効な所作は、自分自身へのサディスティクな攻撃だとトメクは発作的に思いついたのであろう。トメクが自殺未遂を図り、病院に担ぎ込まれた後、自責の念からマグダはトメクのことが気がかりになる。トメクとマグダとの関係が文字通り逆転する。今度はマグダが毎日オペラグラスでトメクの部屋を覗く。ここから映画は核心に入っていく。この映画が描く、二人の間での本当の問題は、性的欲望の問題ではない。むしろ恋愛のレヴェルでの対他関係が問題であったのだ。

(8)孤独なトメクは、当然「愛する」が「愛されたい」であることを自覚していない。しかし、性体験が豊富なマグダのほうも、必ずしも「愛」が何であるかを知らない。彼女がトメクに対して優越的な立場から、愛の意味を教える時、彼女は「愛」を性的欲望や性的な行為に置き換えているだけである。二人は別々に、「愛する」がどういうことかを、意図せずに探していたのだと言える。二人は同類である。だが、この映画のなかでは、二人はその答えを得ることができない。

(9)ラストでトメクは郵便局を訪れたマグダに対して、「もう覗きはしてない」とぶっきらぼうに答える。頑なになってしまったトメクはマグダを拒絶し、二人の探求はすれ違ったままで終わる。つまり、「恋愛の企て」は始まる前に挫折するのである。

(10)ところで、このテレビ映画『デカローグ6』には、『愛に関する短いフィルム』(1988)という劇場公開版がある。キェシロフスキ監督によると、もともとはこの劇場公開版が制作されたのちに、『デカローグ6』が再編集されたということだ。『愛に関する短いフィルム』は、特にラストがテレビ版と異なっている。トメクの部屋からマグダが望遠鏡で向かいの自室を覗くと、泣き崩れるマグダ自身の姿が見え、そこにトメクがやってきてマグダを慰めるという光景がスローモーションで映し出される。これは一見するとメロドラマ的なラストだ(プレイスネルの音楽もそれに大きく加担する)。マグダは他有化された自由を空想し、慰撫を得たいと思っている。だが、傷ついたトメクは傍らに寝ているのであり、幻想のシナリオの切実さだけが残る。テレビ版の厳しいエンディングに劣らず、映画版も「挫折」の別のヴァージョンになっているように思う。

文献一覧

ジャン=ポール・サルトル『存在と無Ⅱ 現象学的存在論の試み』(松浪信三郎訳)ちくま学芸文庫、2007年

松浪信三郎『サルトル』勁草書房、1994年

アネット・インスドーフ『ふたりのキェシロフスキ』(和久本みさ子、渡辺克義訳)青土社、2009年

田辺秋守プロフィール


©︎Cinemarche

日本映画大学 教授、専門は現代哲学・現代思想・映画論。

早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻博士課程満期退学。ボッフム大学、ベルリン自由大学留学。

著書に「ビフォア・セオリー 現代思想の〈争点〉」(慶應義塾大学出版会、2006)。共訳書に、ベルンハルト・ヴァルデンフェルス著「フランスの現象学」(法政大学出版局、2009)。

『カンゾー先生』(今村昌平監督、1998)ドイツ語指導監修。週刊「図書新聞」映画評(「現代思想で読む映画」)連載中。WEBではCinemarcheで講義「映画と哲学」を連載。

日本映画大学 公式ホームページ→

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