初日から多くの観客を動員し、メディアでも注目され取り上げられる機会の多い本作『天気の子』は、前作『君の名は。』とは全く違うアプローチをしています。
映画のパンフレットや、公開に合わせて発売された雑誌のインタビューなどで新海監督は、『君の名は。』に批判的だった人に、もっと叱られる作品を作ろうと思ったと語っています。
元々個人で作品を作っていた新海監督。その美しい映像表現や内省的な世界観に魅せられた人々が徐々に増えていき、そんな監督にメジャーなステージが準備され作られたのが『君の名は。』でした。
おそらく監督の思惑以上の大ヒットとなった前作には、称賛が多く寄せられましたが、批判もまた多かったのです。
そんな前作の余熱が続いているころ、新海監督はこの『天気の子』の企画をすすめていました。
今回は、その『天気の子』の映画完成直前に監督本人が上梓した原作小説版を参考にしながら、映画では描かれていない部分を深堀りしていきます。
映画『天気の子』のネタバレ感想と評価
『君の名は。』と『天気の子』のもっとも大きな違いはなんでしょうか。
それはクライマックスで、舞台である東京が水没し、ある意味「ディストピア」と化してしまったことです。
『君の名は。』では、時を飛び越えることで事態は好転しますが、この『天気の子』では、主人公の選択によって世界は悪い方向へ向かいます。
それでも新海監督のやさしい視線により、主人公は責められることなく社会に受け入れられ、思いを寄せる少女との再会を果たすのです。
もちろん法を犯した帆高には、それなりのペナルティーが課せられます。この先も、それによって不利益を被ることがあるかもしれません。
それでも帆高は、変わってしまったこの世界で、未来に向けて新たな一歩を踏み出すことができたのです。
それでは、映画の中の人物たちの設定について考えてみましょう。
帆高が家出をした理由
高校1年生の帆高は、16年間出ることのなかった故郷の神津島からひとりで旅立ちます。
映画の中ではその理由について語られていません。セリフによって、両親が健在だということがわかるくらいです。
終盤で、無事に島で高校を卒業する描写がありますが、同級生が十数人という小さな学校で、全校生徒が顔見知りという狭い世界を帆高が窮屈に感じていたということは容易に想像できます。
でもそれだけでは、16歳の少年が東京に出ていく理由には弱いような気がします。そこで、映画公開に一日さきがけて発売された小説版でヒントを探しました。
小説でもきちんと理由は説明されませんが、きらめく陽の光を追って自転車で海岸までやってくる場面で、「殴られた痛みを打ち消すように」という描写があります。果たして、誰に殴られたのでしょうか。
小説の終盤、帆高が夢を見ている場面で「父親から殴られた痛み」とあるので、帆高は父親から暴力を受けていたことがわかります。では、母親は助けてくれなかったのでしょうか。
そのあたりは映画でも小説でも触れられていませんが、陽菜にもらったビックマックが16年で一番おいしいと言っているところをみると、少なくとも料理に起因する母からの愛情は感じられません。
父の暴力、母の愛情が感じられない家の状況が、帆高に家を出る決心をさせたのです。
陽菜の家庭環境は?
中学生の陽菜と小学生の凪。母親が一年以内に病気で亡くなった、ということしか天野家の情報はありません。
小説でも、残念ながらそれ以上のことはわかりません。母親が亡くなるまで、何ヶ月も目覚めないままだったということくらいです。
その病床で陽菜は、母と弟と三人でお日様のもと散歩した日々を思い出し、晴天を願います。そこに父親の存在はありません。記憶に残らないくらい幼いころに何らかの理由で別れたのか、そもそも最初から結婚していなかったのか、その原因は謎のままです。
警察や児童相談所に目をつけられ、そろそろ行政的に引き離されてしまいそうなタイミングで、陽菜は帆高と知り合いました。
インスタント食品をうまく利用し、最近流行りの豆苗を家で栽培して食材として使う。陽菜は、中学生なのにずいぶんしっかりしています(帆高は年上のお姉さんだと思っていますが)。
中学校に通いながら、年齢を偽ってマクドナルトでアルバイトをし、クビになったからもっと割りのいい仕事を探す。そんな陽菜が仕事をする理由は、すべて弟の凪といっしょに暮らすため。
実年齢よりもずっと大人びた二人の姉弟の絆は強いのです。
意外だった須賀と夏美の背景
小説版でもっとも驚いたのは、須賀の出自と夏美の家庭環境です。
まず、須賀の実家は地元でも名士と呼ばれる家庭で、彼の兄は東大出のエリートだそうです。それはつまり、夏美の父親ということになります。
夏美の父親は現在財務官僚として働いており、夏美はそんな父親と折り合いが悪いこともあり、細々と編集プロダクションを営んでいる叔父の須賀のもとに入り浸っているのです。
須賀は、大恋愛の末に結ばれた妻・明日花を事故で亡くし、一時期は自暴自棄に陥ってしまったことから娘の萌花を妻の両親に取られてしまっていて、なかなか会わせてもらえません。
夏美は、そんな須賀を心配しているのか、はたまた就職活動を目の前にして現実から逃げたいだけなのか、彼とともに行動し、帆高の面倒もみるようになります。
後半、帆高の逃亡を助ける夏美ですが、その行動が彼女の将来に影響するのではないか、と映画を観ながら心配になりました。けれども、財務官僚の娘ならなんとかなるのかな、なんて思ってしまうのは意地悪な見方でしょうか。
マイノリティに向けられるやさしい視線
『天気の子』を観て感じたのは、新海監督のマイノリティに対するやさしい視線です。
『君の名は。』では、三葉は大きな由緒ある神社の血筋で、余裕のある生活をしています。別居しているとはいえ父親は町長で、仲の良い友だちも地元の大きな会社を経営する社長の息子です。
今思うと、「これから東京行ってくる!」と急に朝出かけられた三葉は、相当裕福な家庭環境にあるといえます。やっと貯めた5万円を持って家出した帆高の方が、リアルに感じられます。
父親と二人暮らしだった『君の名は。』の瀧は、都内の眺めの良いマンションに住み、素敵な高校に通い、学校帰りにはクラスメイトとパンケーキを食べるような生活をしていました。
田舎の三葉が憧れる都会の表現として盛られた印象はありますが、同じ東京に暮らす陽菜と凪の生活は全く違うものです。
しかし、そんな陽菜からみても、家出中の帆高はさらに苦しい生活を強いられています。
節約のためマンガ喫茶を出た帆高ですが、公園のベンチなどには“先住民”がいます。駅やデパートでは、警備員などに声をかけられてしまうので、座り込んで長時間過ごすことはできません。
結局安心して過ごせるのは、深夜でも営業しているマクドナルドだけ。でも、バーガーを頼むことはできず、帆高は三日連続でコーンポタージュスープを晩ごはんにしていました(現在は販売されていないようです)。
最低限の住と食を確保したその場所で、帆高は陽菜にビックマックをもらうのです。
16年でダントツ一番おいしかったというこの食事ですが、他者から心配され、自分のために提供されたその食事は、久々のまともな食事という点も含め、あながち大げさではなかったのかもしれません。
子どもだけで生きる姉弟。父の暴力から逃れるためにひとりで生きる決心をした少年。
新海監督は、このようなマイノリティともいえる立場の人々を主役に据え、彼らに世界を変えさせ、そしてその彼らをあたたかく迎え入れたのです。
それが、『君の名は。』で大きくなりすぎた、自身の評価への返答なのかもしれません。
まとめ
『天気の子』のラスト手前、帆高は大学進学のため、再び東京にやってきます。新たな事務所を構えて従業員も数人雇っている須賀は、娘との同居は実現していないものの、亡き妻の実家との関係は良好のようです。
須賀のスマホの中には、父娘の楽しそうな写真がありました。そしてその中に、夏美と凪も映っています。二人はなぜが仲良くなっているらしいのです。二人があのあと、どのような生活を送ってきたのかわかりませんが、少なくとも画面の中の彼らは幸せそうに見えます。
ラストシーン、帆高は陽菜に会うため、彼女の住む田端へ向かいます。そこでどのような描き方をするか、新海監督はずいぶん迷ったといいます。
なかなか納得のいくシーンができなかった監督は、このシーンに「RADWIMPS」の野田洋次郎さんから提供された『大丈夫』という曲をあててみました。
「ぜんぶここに書いてあるじゃないか」
その歌詞に、新海監督は改めて衝撃を受けたといいます(『小説 天気の子』あとがきを参照)。一年も前に届けられていたその曲に導かれるように、監督はラストシーンの絵コンテを書き上げました。
これ以外にはありえない。『天気の子』のラストシーンがあのような再会になり、帆高が「僕たちはきっと大丈夫だ」と言ったのは必然だったと思えてなりません。
新海誠監督の最新作『天気の子』は2019年7月19日よりロードショー!