細野辰興の連載小説
戯作評伝【スタニスラフスキー探偵団~日本俠客伝・外伝~】(2018年12月下旬掲載)
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第一章「舞台『スタニスラフスキー探偵団~日本俠客伝・外伝~』は失敗作だったのか」
第一節「映画監督が演劇に興味を持つ日」前篇
本題に入る前に語っておかなければならいことが勃発してしまった。「語り手」になっているこの小説の「前語り」がCinemarcheにアップされる日を、結果を知って直木賞発表の電話を待つ候補者の妻の様な、或いは婚約者の様な心境で待ち焦がれていた私だが、目の前に現れたのは、「横書き」の『スタニスラフスキー探偵団~日本俠客伝・外伝~』だったのだ。
「縦書き」の原稿しか渡されていなかった私は一瞬立ち眩みに襲われ、こんな物が「作者」である細野辰興監督の目に入ったら、と口から泡を吹きそうになった。英語で書かれた小説に「縦書き」があり得ないのと同じ理屈で日本語の小説にも「横書き」はあり得ないッ。どころかルビも振ってないではないか。「~、モスラに双生児が~」の「双生児」には「ふたご」と、「~御両親の揶揄い半分の~」の「揶揄」には「からか」とルビが振ってあった筈だが跡形もないのだッ。
早速、Cinemarcheに飛んで行き出町編集長に喰ってかかった。
「ネットでは土台、『縦書き』は無理なんですよゥ。皆さん、スマホで読みますし。」
と出町編集長のいつもながらの眠たいような目で、しかも目も合わされずに一蹴されてしまった。この云い方から察すると、細野辰興監督にも既に話は伝わっているのだろう。
それはそうだ。事前に「作者」に報告しないはずがない。と云うことは、どの様な原稿でも「縦書き」に拘り続けて来た細野辰興監督も時勢には逆らえなくなって来たと云うことなのか……。
上げた拳を振り下ろす場所を失い呆然としているとスタッフから声を掛けられた。「語り手」としての出番時間になってしまったらしい。重い腰を上げると、傍らで自分の原稿をチェックしていたCinemarcheのライターの大窪さんが、
「今日からは『横書き』用に語らないとですね。」と何故か嬉しそうにウィンクして仕事場に戻って行った。
「……『横書き』用の語りか。」
そんなものが有りもしないのは重々承知しながらも、失恋し背中に哀愁を漂わせ様と恰好をつけながら柴又を去る寅さん宜しく本題に入らせて貰うことにする。
平成も終わりの年の9月上旬に高円寺の「明石スタジオ」で7日間12公演行われた細野監督作・演出の新作舞台『スタニスラフスキー探偵団 ~日本俠客伝・外伝~』(主演・尾方蓮二郎、南埜千草)は、映画『貌斬りKAOKIRI~戯曲【スタニスラフスキー探偵団】より』でそれなりに【スタニスラフスキー探偵団】の名前が認知されたことも有り、連日立ち見続きの大入りとなった。
しかし、オリジナルの再演である『スタニスラフスキー探偵団RETURNS』を凌駕したと云う評判が余り聞こえてこなかったのも亦、事実だった。
3年前の正月に同じ「明石スタジオ」で再演した『スタニスラフスキー探偵団RETURNS』は、twitterを始めとするSNSなどでも大評判になり連日立ち見まで出ただけでなく、劇場内での受け方が半端ではなかった。12公演とも撮影しながら観ていた細野監督は、観客が正に固唾を呑んで観ているのが手に取る様に判った、と『貌斬りKAOKIRI~』の完成披露記者会見で述懐している。
戦前戦後を通して「天下の二枚目」と謳われ、芸能人初の国民栄誉賞にも輝いた映画スター・長谷川一夫が林長二郎と云う芸名だった戦前に起きた「顔斬り事件」。それが前作のモチーフだった。事件は、長二郎が大手「松竹」から新興「東宝」へと移籍した直後に京都で起き、松竹の報復かッ、と取り沙汰され一大スキャンダルとなった。
実行犯たちは逮捕されたが、長二郎の懇願により捜査は打ち切られ、黒幕などの真相は謎に包まれたままとなった。
戯曲の内容はこうだ。
長谷川一夫の「顔斬り事件」をモチーフにした『貌斬り』の映画化を企む映画監督・風間重兵衛が、事件を徹底的に取材、調査する。しかし納得の行く「仮説」を発見することができず、脚本会議において事件を熟知しているスタッフ達に長谷川一夫をモデルとした馳一夫(はせかずお)や犯人らを演じさせる「風間組名物ロールプレイ」を行なう。
当事者たちの感情に成り切り「顔斬り事件」を再現することが出来れば、そして演じる役が真犯人ならば実際に馳一夫の左頬を斬ることが出来るッ、と云う方法論で事件の真相に挑む「笑毒劇」だった。時代設定は何故か戦前から戦後に移されていた。
『スタニスラフスキー探偵団』と云うタイトルの由来は、『俳優修業』(1938~1948年 全三巻)などを著し、演劇を齧った者なら泣く子も黙る「スタニスラフスキー・システム」を提唱した19世紀のロシアの著名な舞台演出家コンスタンチン・セルゲービチ・スタニスラフスキーから来ていた。劇中に何回も登場する役に成り切る「風間組名物ロールプレイ」はスタニスラフスキー・メソッドの一種と云う解釈だ。
因みに「笑毒劇」とは細野監督の造語であり、師匠の一人である今村昌平監督の造語「重喜劇」を意識していることは明らかだった。が、今ひとつ、否、二つほどポピュラーにはなっていない。
『スタニスラフスキー探偵団~日本俠客伝・外伝~』は、文字通り『スタニスラフスキー探偵団』の続篇だった。モチーフとなる事件は、東映時代劇末期に起死回生の新機軸として製作されたマキノ雅弘監督の任侠映画『日本俠客伝』(東映`64 8月公開 脚本・笠原和夫/村尾昭/野上龍雄 主演・高倉健)の企画開発段階に起きた「主演俳優交代劇」だった。主演を断ったのはトップ・スター中村錦之助。代わりに抜擢されたのは未だトップ・スターとは云えなかった高倉健だった。
そう、「任侠鉄火やくざの花道をゆく 稲妻のような獅子のような男の中の男を描く」と惹句され、後にシリーズ化された高倉健の代表作『日本俠客伝』は、当初は東映の看板スター・中村錦之助の為に企画開発されたお盆興行のオールスター作品だったのだ。
オリジナルの『スタニスラフスキー探偵団』同様、「主演俳優交代劇」の映画化を企む風間重兵衛監督が、脚本会議の場で面白い納得の行く「仮説」を発見するためにスタッフたちと共に「風間組名物ロールプレイ」を行い真実に迫ろうと云う内容だ。
「面白い『仮説』を発見できれば事実でなくても良いッ。」
と云うのが風間重兵衛の口癖でありキャラクターにもなっていた。
『スタニスラフスキー探偵団~日本俠客伝・外伝~』が失敗作だったと思っている細野監督は、原因を映画『貌斬りKAOKIRI~戯曲【スタニスラフスキー探偵団】より』の設定を取り入れたからだと考えている節があった。
映画『貌斬りKAOKIRI~』の出演者たちは、劇中舞台である『スタニスラフスキー探偵団』に出演している俳優、或いはスタッフと云う設定だった。映画の舞台となったのは上演劇場であり撮影にも使用した「明石スタジオ」の楽屋と舞台そのもの。
その設定を取り入れた舞台『スタニスラフスキー探偵団 ~日本俠客伝・外伝~』は、今度は「明石スタジオ」の舞台上に楽屋と喫茶店会議室の両方の美術装置を作り客に見せると云う趣向になったのだ。確かにその構成にすることによって長くなり、冗漫になる可能性はあった。
しかし、本当にそれが失敗の原因になったのだろうか。否、そもそも『~日本侠客伝・外伝〜』は細野監督が云う様に失敗作だったのだろうか。
検証して行く前に細野監督に関する幾つかの事を語っておかなければならない。
先ずは、映画作家である細野監督が何故、何時から、演劇の演出に興味を持ったのかを語らせて貰う。
細野監督の代表作の最右翼とされる役所広司主演の『シャブ極道』(大映`96 5月公開 脚本・成島出 共演・早乙女愛/渡辺正行)が公開されセンセーションを巻き起こした平成8年(1996年)の翌年2月、細野監督は、「日本映画学校」と云う現在は「日本映画大学」に姿を変えている専門学校で二年次演出コースのゼミナールを受け持っていた。監督が42年前に入学した「横浜放送映画専門学院」の学校法人としての発展形で三年制。当時は10期生でゼミ生は20名ほどだった。
その頃は、16㎜のカメラを使った大きな実習などは一学期と二学期に行ない三学期は比較的自由なカリキュラムを各ゼミ独自に行なっていた。
細野ゼミの外に佐藤武光ゼミ、千葉茂樹ゼミがあり、計三つの演出ゼミが映画監督志望の若者たちの「夢と野心」を受け止めていた。
佐藤武光監督は、今村昌平監督が『楢山節考』(東映/今村プロ‘83 4月公開 脚本・今村昌平 主演・緒形拳/坂本スミ子)でカンヌ映画祭のパルム・ドール受賞後一作目として東南アジアに長期ロケを敢行した大作『女衒ZEGEN』(東映/今村プロ`87 9月公開 脚本・今村昌平/岡部耕大 主演・緒形拳/倍賞美津子)のチーフ助監督を経験している羆の様な体型を持つ猛者だった。主に『大空港』(フジテレビ `78 3月~`80 3月迄放送 主演・鶴田浩二)等の連続テレビ映画の演出をしていた。
千葉茂樹監督は、新藤兼人監督の「近代映協」をベースに日ソ合作の『モスクワわが愛』(東宝`74 6月公開 監督・吉田憲二/アレクサンドル・ミッタ 脚本・相倉敏行/千葉茂樹/エドワード・ラジンスキー 主演・栗原小巻/アレグ・ビドフ)の脚本や『マザー・テレサとその世界』(`79 5月公開 監督/脚本・千葉茂樹)等のドキュメンタリーで活躍して来た学者肌のベテラン映画監督であった。
「今村プロ」に「近代映協」。
共に映画界では知らぬ者が居ない程、筋金入りの作家魂で問題作を連打して来た独立プロの「竜虎」だが、ブラック企業と紙一重の「合理主義」と、無から有を生まんとする「精神主義」が売り物だったのも亦、事実だった。それがお二人の出自だった。
尤も細野監督にしても「今平学校」と云う二つ名を持つ「横浜放送映画専門学院」から今村プロに行き、2年間を大作『ええじゃないか』(松竹/今村プロ`81 3月公開 脚本・今村昌平/宮本研 主演・桃井かおり/泉谷しげる)の準備から完成まで就き、果ては撮影のために建てられた「江戸の大オープンセット」の管理人を単身で半年以上もやってのけた「同じ穴の狢」だった。
その証拠に今村昌平監督の「合理主義と精神主義」をテーマにしたブラック・コメディ映画を密かに企画開発しようとしているほどの畏敬ぶりなのだ。
とまれ、後に「日本映画学校」最後の校長になる千葉茂樹監督が云い出したのか、三ゼミ共通の授業をやろうッ、と云う話になり、ならばと細野監督が、
「担当講師が演出家、ゼミ生が演者になりゼミ毎に芝居をやり最終日に発表会をやりませんかッ、」
と提案。二人が乗った形で演劇実習はスタートした。
細野監督は、それまでは取り立てて演劇をやりたい訳ではなかったように思うが、演出家に成るにはある程度演技が出来なければ駄目だと云う信念は持っていた様だ。自己の助監督経験、監督経験からの信念だった。
私もクランクイン寸前で頓挫した『銀座悪女伝』や『破産管財人』など何本かの細野組企画の準備中に、
「ハイ、高井は、牧野雅彦の代役を演じるッ。」
と本読みやリハーサルで断定的に命じられたことは一度や二度ではなかった。
死ぬほど恥ずかしかったが、他人を演じると云うことの愉しさと難しさを知らなければ演者に「芝居を付ける」ことなど出来はしないッ、と云う細野監督の信念には逆らうことは出来なかった。
そう、私、高井明は、1994年に成蹊大学を卒業して三菱重工系の企業に勤めたが映画への夢捨てがたく、1996年の4月に「日本映画学校」に入り直し細野ゼミで映画を学んだ映画青年の「成れの果て」なのであった。
【この節】続く
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*この小説に登場する個人名、作品名、企業名などは実在のものとは一切関係がありません。作家による創作物の表現の一つであり、フィクションの読み物としてご留意いただきお楽しみください。
細野辰興のプロフィール
細野辰興(ほそのたつおき)映画監督
神奈川県出身。今村プロダクション映像企画、ディレクターズ・カンパニーで助監督として、今村昌平、長谷川和彦、相米慎二、根岸吉太郎の4監督に師事。
1991年『激走 トラッカー伝説』で監督デビューの後、1996年に伝説的傑作『シャブ極道』を発表。キネマ旬報ベストテン等各種ベストテンと主演・役所広司の主演男優賞各賞独占と、センセーションを巻き起こしました。
2006年に行なわれた日本映画監督協会創立70周年記念式典において『シャブ極道』は大島渚監督『愛のコリーダ』、鈴木清順監督『殺しの烙印』、若松孝二監督『天使の恍惚』と共に「映画史に名を残す問題作」として特別上映されました。
その後も『竜二 Forever』『燃ゆるとき』等、骨太な作品をコンスタントに発表。 2012年『私の叔父さん』(連城三紀彦原作)では『竜二 Forever』の高橋克典を再び主演に迎え、純愛映画として高い評価を得ます。
2016年には初めての監督&プロデュースで『貌斬り KAOKIRI~戯曲【スタニスラフスキー探偵団】より』。舞台と映画を融合させる多重構造に挑んだ野心作として話題を呼びました。