友人や夫に裏切られた主婦、マリ子の暴走を描いた人間ドラマ『たまゆらのマリ子』。
普通に生きる事を強要されているとも言える、現代の日本において、誰もが抱える不満やストレス、隠し持った本音の危うさを、鋭い視線とユーモアを交えて描く本作をご紹介します。
CONTENTS
映画『たまゆらのマリ子』作品情報
【公開】
2018年(日本映画)
【監督・脚本・編集】
瀬川浩志
【キャスト】
牛尾千聖、山科圭太、三浦英、後藤ひかり、加藤智子、福原舞弓、根岸絵美、西尾佳織、高橋瞳天、柳谷一成、松浦慎一郎、佐々木幸子、細川佳央、高木公佑、三浦圭祐、真柳美苗、本庄司、松岡眞吾、太田正一
【作品概要】
現代の日本社会が抱える問題点を、暴走寸前の主婦マリ子の視点で描く衝撃作。
「第12回大阪アジアン映画祭」や「第26回TAMA CINEMA FORUM」で上映されており、大きな話題を集めました。
「第25回レインダンス映画祭」で、コンペティション部門に応募総数7500作品の中から選出され、ドイツやアメリカなどの、海外映画祭での招待上映を経て、国内での凱旋公開となります。
監督は、2010年の映画『焦げ女、嗤う』の瀬川浩志、音楽は中川だいじろー(ex.宇宙コンビニ)が担当。
主演は「遊園地再生事業団」などで、演劇を中心に活躍する牛尾千聖。
映画『たまゆらのマリ子』のあらすじ
バッティングセンターで、パートとして働く主婦のマリ子。
バッティングセンター内で横暴に振る舞う店長や、人の悪口と自慢話ばかりをする後輩、みはる達とは馴染めず、逆に距離を置いています。
家に帰れば、夫の智晴は明らかにマリ子を避けており、マリ子は家庭にすら居場所がありません。
マリ子は、前職の同僚だった友人まどかに連絡をしますが、無視をされて見放された状態となります。
次第に、被害妄想を抱くようになったマリ子は、不安定な精神状態となっていきます。
さらに、智晴の不倫現場を目撃したマリ子は、さらに行動が暴走していき、智晴殺害を企てるようになります。
映画『たまゆらのマリ子』の感想と評価
皮肉的に描かれた現代社会の日常
バッティングセンターで働くマリ子は、不満や怒りを感じても、絶対に口に出す事無く、心の中に溜め込んでいます。
これは「本音と建前」とも言える事で、極めて日本人的な感覚ですが、この「本音と建前」を使い分ける事が当たり前とされる、現代社会の苦しさが描かれています。
マリ子は、1人になると、無意識に独り言のように、周囲の文句を口にするようになります。
まるでコップの中に注いだ水が溢れていくかのように。
こういった経験は誰でもあるのではないでしょうか?
後半では、本能のままに動くようになったマリ子の行動が暴走気味に描かれています。
全ての人間が、本能の赴くままに動くと大変な事になってしまう、しかし、本能を押さえつけて建前での言動が強要される事により、ストレスと不満を溜め込む事になり、精神的に危険な状況となる。
これは現代社会の矛盾点とも言えるのではないでしょうか?
また、本作では他人に接触する難しさも描かれています。
印象的なシーンとして、スーツ姿のキャリアウーマン風の女性が落とした書類を、マリ子が拾い手渡すシーンがあります。
キャリアウーマン風の女性は、マリ子にお礼を言うどころか、マリ子を睨みつけて書類を奪い取ります。
まるで自分の日常にマリ子が関わってきた事が不快であるかのように。
マリ子も、バッティングセンターの同僚や店長には、心を開かず内心蔑んでおり、壁を作って必要以上の交流は持たないようにしています。
ですが、それがマリ子の孤独に拍車をかける結果となっています。
「本音と建前」を使い分け、他人との距離を測りながら日常を送る、これは誰もが経験している事であり、決して特別な人の物語ではありません。
加速していく被害妄想
職場にも馴染めず、家庭にも居場所が無いマリ子は、次第に被害妄想を抱くようになります。
自分を無視している元同僚のまどかは、自分を馬鹿にして笑っていると。
被害妄想が引き金となり、マリ子は道行く人達に暴行を加えるようになるのですが、それが妄想なのか現実なのかは分かりません。
ただ、マリ子は確実に不満を溜め込み、狂気の道へと足を踏み込みます。
狂気に走るマリ子を、瀬川浩志監督はユーモアを込めて描いており、印象的なシーンとしては、路上で踊っているダンサーに、マリ子が加わった際に、ダンサーは踊りを止めて、マリ子を不審者のような目で見ます。
ですが、公共の場である、路上で踊っているダンサーの方が明らかにおかしい訳で、その踊りにマリ子が加わる事も、公共の場で踊っている限りあり得る事です。
しかし、実際に公園などで踊っているダンサーに加わったら、この映画と同じ反応をされるでしょう。
日常的に見える光景の中にある「何かおかしくない?」という部分を、見事な視線で捉えています。
更に、マリ子が包丁を購入するシーンでは、マリ子の異常性と対峙する店員の反応が面白く、コミカルで印象的な場面となっています。
マリ子はどうなってしまうのか?
とにかく息苦しい日常で、まともに生きる事を放棄したかのように、暴走を始めるマリ子。
夫の智晴殺害まで企てた、マリ子はどうなるのでしょうか?
ここで鍵になるのが、人間関係の大切さとなります。
ここで描かれた人間関係は、職場などの「建前」ではなく、家族や親友などの「本音」で付き合える、そうあるべき関係です。
人間関係は苦痛を感じる事もありますが、人としての、最後の一線を思い止まらせてくれるのも、また人間関係の中にあるのです。
果たしてマリ子は、本当に大切にするべき存在に気付き、冷静に戻る事が出来るのでしょうか?
まとめ
前作『焦げ女、嗤う』で瀬川浩志監督は、人間の格好悪い部分を描きながら、逆に人間の愛おしい部分を描く事に挑みました。
剥き出しの状態となった人間を描いた『たまゆらのマリ子』も、シリアスとユーモアが交差する「人間の厄介さ」という部分を描いています。
また、『焦げ女、嗤う』のインタビューで「もう一歩踏み込んで、ちゃんと人を想う気持ちを伝えられるような作品を作りたい」と語っていますが、『たまゆらのマリ子』のラストに、その想いは込められているのではないでしょうか?
本作の主役マリ子は、とにかく強烈なキャラクターです。
瀬川浩志監督は、東京での生活を送る中で、「本音」を言わない方が、楽で効率的な生活が送れる事を認めながらも、「本当にこれでいいのか?」と感じ、「全てをぶっちゃければ楽になるんじゃないか?」と考えた事から、常識という概念から解き放たれた、マリ子というキャラクターが生まれました。
マリ子を演じた牛尾千聖さんが、抑えた演技で表現しており、関西弁で毒舌の素を押し殺して、表向きは冷静に大人っぽく振る舞いながら、喋る言葉には不思議と心が無い、そんなマリ子のキャラクターを自然な空気で演じており、身近な存在として感じる事ができます。
そして素の自分を解き放ち、暴走気味になったマリ子は、狂気と共に不思議な色気も感じてしまいます。
また、異常なのはマリ子だけではなく、小さなバッティングセンターで王様のように振る舞う、マリ子のバイト先の店長、理由もなく暴力を振るう若者達、マリ子の夫智晴でさえ、その行動には理解できない部分がります。
皆、普通には生きられない。
そんな人たちが集まる社会で、一体どう振る舞えば良いのか?その答えは、本作のラストに込められています。
「本音と建て前」と、他人との距離感が求められる現代において、自分らしく生きる必要さと危うさを描いた本作は、まさに今の空気を反映させた映画と言えるでしょう。
本作に登場するキャラクター達は、間違いなく日本に存在する誰かなのです。
映画『たまゆらのマリ子』は、12月1日から池袋シネマ・ロサでレイトショーとなります。