『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』の高畑勲監督オリジナル作品
『火垂るの墓』(1988)『おもひでぽろぽろ』(1991)の高畑勲監督が1994年に手掛けたスタジオジブリ制作のアニメーション映画。高畑勲監督が原作・脚本を務めたオリジナル作品です。
昭和40年代の多摩丘陵を舞台に都市計画で住処をなくしたタヌキたちの姿をユーモラスに描きます。
住処を人間たちから取り返すべく奮闘するタヌキたちは、何かに化けたり幻を見せたりする“化け学”で人間たちを脅かします。一世一代の大勝負では“妖怪大作戦”も遂行されますが…。
本記事ではタヌキたちのあれやこれやの化け合戦といった見どころ、ユーモラスに描かれたタヌキたちに込められた高畑勲監督のメッセージをネタバレありで考察していきます。
CONTENTS
映画『平成狸合戦ぽんぽこ』の作品情報
【公開】
1994年(日本映画)
【英題】
Pom Poko
【監督・脚本】
高畑勲
【キャスト】
古今亭志ん朝、野々村真、石田ゆり子、三木のり平、清川虹子、泉谷しげる、芦屋雁之助、村田雄浩、林家こぶ平、福澤朗、桂米朝、桂文枝、柳家小
【作品概要】
『火垂るの墓』(1988)『おもひでぽろぽろ』(1991)の高畑勲監督が原作・脚本も務めた初のオリジナル作品。
スタジオジブリは、本作で初めてCGを導入しました。
声のキャストは、影森のタヌキ・正吉役を野々村真、おキヨ役を石田ゆりこ、正吉の幼馴染・ぽん吉を林家こぶ平、鷹ヶ森の権太役を泉谷しげるが務めました。
その他にも豪華キャストが脇を固めます。語りを古今亭志ん朝が務めるなど、落語家たちの共演にも話題になりました。
映画『平成狸合戦ぽんぽこ』あらすじとネタバレ
昭和40年代。多摩丘陵の里山に多くのタヌキが暮らしていました。しかし、多摩ニュータウン計画の推進により森林の伐採が進められ、行き場を失ったタヌキたちの縄張り争いも加速していくことに。
ぽんぽこ31年の秋。鈴ヶ森と鷹ヶ森のタヌキたちの激しい合戦が始まりますが、火の玉おろく婆の仲裁により、タヌキ同士で戦っている場合ではないと終止符が打たれます。
多摩ニュータウン建設は多摩丘陵の山容を完全に変貌させる計画でした。
多摩丘陵全域のタヌキたちは、この緊急事態に奥山の荒れ寺に集合し、開発を阻止するために化学の復興と人間研究に取り組むことを決めます。
おろく婆と鶴亀和尚の指導の下、タヌキたちは変化するための特訓と人里に降りての人間観察に日々鍛錬していきました。
その間にも、森林の伐採が進み造成地は増え続けました。タヌキたちは、それらを「のっぺら丘」と呼びました。
タヌキたちは、化学総仕上げとして、人間に化けての街頭実習も行いました。
その頃、鷹ヶ森の半分がのっぺら丘と化していたことを知った鷹ヶ森の長・権太が、人間撃退作戦の発動を提案します。
おろく婆は、化学の変化は一通りできるようになったが、まだ経験が足りなく正体が露呈する危険性を指摘しますが、権太を筆頭に鷹ヶ森のタヌキたちは、身を引かず、影森の正吉も参戦すると名乗りを上げます。
見かねたおろく婆は、もし失敗しても、5日間はキツネの死体に見える秘術を授けました。
ぽんぽこ32年の夏。権太を首領とする若手有志約10名は、身に付けたばかりの変化術を応用した奇襲作戦に出て、雨降りの開発現場で工事トラックなどを横転させます。
今回の作戦で犠牲になった人間に1分間の黙祷を捧げますが、作戦の成功に嬉しさを隠せずにはいられないタヌキたちは、クスクスと笑い出し沈黙を破ります。たちまち、歌えや踊れやの騒ぎに。
しかし、TVから流れてきたニュースは、開発現場でのことを大雨での事故と放送し、開発が中止されることはありませんでした。
胴上げ中の不慮の事故で権太が全治一ヶ月の怪我を負います。
開発が中止されることはありませんでしたが、今回のことをテレビのコメンテーターが祟りや罰が当たったのではないかと発言。
それを受けてタヌキたちは、すぐさま作戦を開始します。伐採予定の山道でお地蔵さんに化けて、見事に業者を目くらませたり、お仕えキツネに化けて儀式を中止させ、伐採を見送らせます。
次々と習った化学で人間たちを脅かすタヌキたち。変化はすっかりタヌキたちの楽しみとなっていました。
怪我を負った権太は、人間を脅かすだけでは生ぬるいと一喝し、事故を起こして人間を殺せと言いだします。
世間では多摩ニュータウンの怪奇現象が話題をさらいましたが、その間にも開発は進んでいきました。
有名な変化ダヌキを化学指南として、長老を迎えに佐渡へは玉三郎が、四国には文太が任地に赴きました。
映画『平成狸合戦ぽんぽこ』感想と評価
高畑勲監督の描く“リアリズム”
本作に登場する変化タヌキは、本来なら妖怪大作戦で見せた神がかった力で崇め奉られる存在になりそうですが、そうはなりません。里山を一変させた人間がさも神か仏の仕業のように描かれます。
冒頭のシーンから、巨大な大仏さまが寝そべって山を削り取り、さらには一枚の葉っぱの上をブルドーザーで虫食い状態にするという、まさに神の御業として都市開発を表しています。
人間が自然界のあらゆるものを利用してきた文明開化という一面にしかすぎない、このシーンが妙に心に響きます。
常に神の領域を侵し続けてきた文明社会という比喩が仏の温和な画に比例して重みを帯びているからでしょう。
ジブリ作品の中で自然環境という概念が大きな役割を果たしています。
宮崎駿監督の『もののけ姫』(1997)は、神(自然)と人間の対比・共生を描き、登場する祟り神は、時におどろおどろしい姿となって、人間たちに牙を剥き、両者の争いは激しい闘争となります。
本作もまた、破壊された自然を取り戻そうとタヌキたちが奮闘します。しかし、怪力乱神の出来事が起こっても、神と妖怪(タヌキ)が表裏一体の存在であることに、劇中の社会は気づこうとすらしません。
人間たちは「不思議なこともあるものね」と呑気な様子なのです。ここで感極まって大騒ぎしているのは子どもたちだけ。
むしろ、奇怪な現象を会社の利益にしようとする社長が登場したりします。
激しい闘争という場面でも、「我ら特攻精神により よし壮烈なる玉砕を遂ぐるとも」と強硬派の権太たちが自爆攻撃に出ますが、タヌキと人間が直接対峙することはないのです。
すべてを奪われながらも、“人がいい、調子がいい、サービスしすぎる”タヌキたちの一喜一憂は面白おかしく描かれますが、命をかけても情け容赦も無いという悲しき世界。
宮崎駿監督は、作品の舞台そのものを超自然的な世界観で描き出そうとするのに対して、高畑勲監督は、現実的な世界に超自然的な要素を取り入れたリアリズムあるアニメーションを追求したと言えるでしょう。
高畑勲監督は本作で落語調の語りで風刺の利いた軽妙さで、タヌキ目線の現実社会の縮図を浮かび上がらせました。
そのものが滑稽であればあるほど笑いを誘うのです。
環境・社会問題の提起という一面を観客へのメッセージに込めたというより、人間を美化せず、闇雲に否定することもせず、様々な側面を描き出そうとしたのではないでしょうか。
その視点は、痛烈で容赦がない。だから、笑いが必要なのです。
まさに人間のダメさを許容し笑いを生み出す落語という娯楽が江戸時代の庶民に親しまれていたように。
タヌキの金玉はセンス・オブ・ワンダー?!
タヌキたちは、化学で人間を脅かし、開発を阻止しようとします。
鶴亀和尚が雄タヌキだけに伝授したのは、金玉(睾丸)を自由自在に操ることでした。
タヌキの金玉は大きく広がり、それを駆使できると序盤から示唆されるのです。
権太たちが自爆攻撃に出た場面では、金玉をパラシュートにして夜空を舞い、金玉を武器に闘争します。
禿狸が並の狸を連れて死出の旅に出る際には、“南無阿弥陀仏”と書かれた金玉を八畳敷きまで伸ばし、乗り込む宝船も金玉という変化術。
それは、日本の昔話にある“タヌキの金玉八畳敷き”という言葉通りの姿です。
さらに、江戸時代の浮世絵師・歌川国芳がタヌキの金玉を誇張して描いた作品がモチーフにもなっています。
また、その他にも歴史的な浮世絵の数々や妖怪絵巻、百鬼夜行絵巻などがモチーフとなり、タヌキたちが化けるキャラクターとしてわんさか登場し、想像を凌駕します。
終盤、妖怪大作戦という一世一代の大勝負も空しく、住処としていた森は消え失せました。それでも正吉の提案でタヌキたちは風景だけでも幻術で蘇らせます。それは、人間とタヌキが共に暮らしていた里山の風景でした。
文太は「そんなことをして何になるんだ」と言いますが、鶴亀和尚とおろく婆、六代目金長は「遊び心を失くせば タヌキももやはタヌキではないか」と言って話に乗ったのです。
高畑勲監督は、痛烈な風刺を利かせてはいますが、本作でもっとも伝えたいことは、このセリフに込められているように感じます。
タヌキたちを描きながらも、タヌキそのものが戦後を経てきた日本人にも重なり、そう考えると、遊び心を失くしてしまえば、人間ももはや人間ではないとさえ言っているように聞こえてくるのです。
奇想天外に化けまくるタヌキたちは、馬鹿らしいことをとことん追求し、すこぶる完成度の高い化学を披露します。
それは、観るものを驚かし、圧倒させます。まさにセンス・オブ・ワンダー(神秘さや不思議さに目を見張る感性)を感じる体験と言えるでしょう。
まとめ
人間の悲喜こもごもを題材として、そのダメさ加減を笑い飛ばす落語という噺を“見る落語”として、誕生させた『平成狸合戦ぽんぽこ』。
舞台となった多摩ニュータウンは、昭和40年代、多摩丘陵に位置する八王子から、町田、多摩、稲成の4市にわたって、実際に都市開発が行われました。
また、闘争場面では、自爆攻撃に出て命を落としたり、集団自決ととれる宝船で漕ぎだす死出の旅といった表現は、日本の戦時中を想起させます。
それは戦後の日本人という歳月が凝縮されているような重圧な世界観です。
しかし相反して、言葉の重みよりも語りを務めた古今亭志のリズムとメロディーに引き込まれます。
そんな軽快で饒舌な語りとともにタヌキたちの群像劇の加速に目を見張ります。
また、「たぬきさんたぬきさん遊ぼじゃないか 今ご飯の真っ最中~」や「あんたがたどこさ」と言った意味に反してリズムのいいわらべ歌や「たんたん たぬきのキンタマは~風もないのに ぶ~らぶら」という間が抜けた可笑しみを含む歌が各所に散りばめられたりと、聞き飽きません。
そして、物語の大部分を占めているのは、化学で七変化するタヌキたちのオンパレードという遊び心満載なのです。
人間と社会、人間と自然を浮き彫りにさせながらも、その営みを都合よく解釈することもせず、笑いや可笑しみ、美しさを見せることで心に響かせます。