連載コラム「映画道シカミミ見聞録」第60回
こんにちは、森田です。
今回は、2021年10月8日(金)より全国公開されるアニメーション映画『神在月のこども』を紹介いたします。
日本の八百万の神をめぐる物語から、過去の慣習や古き良き時代を振り返るのではなく、現代特有の課題を乗り越えるヒントや、未来を紡ぐための知恵を見出していきます。
映画『神在月のこども』のあらすじ
都内の小学校に通う6年生のカンナ(CV.蒔田彩珠)は、母を亡くして以降、好きだった“走ること”を遠ざけるようになりました。
体育の授業は仮病で休み、父からもらった新しい靴もサイズが合わないと言って拒むなど、日々、走る局面から逃れようとするカンナ。
その緊張は恒例の校内マラソン大会を迎えた日にピークを迎え、カンナは神社の境内に身を隠します。
そこで母の形見の腕輪に触れたとき、学校の飼育小屋で親しんでいた白兎のシロ(CV.坂本真綾)が現れ、突如“神の使い”だとしゃべり出します。
いわく、旧暦10月の「神無月」には全国から神々が姿を消し、島根・出雲に集い「神議り」という翌年の縁を結ぶ会議を行うので、それに向けて各地の神から食材や料理などの馳走を預かり、出雲まで届けてほしい、と。
困惑するカンナでしたが、聞けば母の弥生(CV.柴咲コウ)も俊足の「韋駄天」の末裔として仕えていたことを知り、“神在月”となる出雲の地でまた母に会えることを期待し、その役目を引き受けます。
文字通り母の足跡をたどる旅に出たカンナは、代々の因縁から鬼の少年・夜叉(CV.入野自由)に行く手を阻まれながらも、個性的な神々との出会いをとおして着実に歩みを進めていきます。
見どころはカンナの成長
――日本には大陸と比べて広い土地はないが多くの神はいる。
この点に着目して描かれた本作は、『奥の細道』や『東海道中膝栗毛』といった近世的な風情や、長らく大衆を楽しませてきた股旅物の情緒を受け継ぎ、その文化を子どもの視点から捉えてみせたロードムービーといえます。
また忠実な美術で写し取られた全国のご当地は、コロナ禍で旅行が憚られるなかでは嬉しい観光気分に浸ることもできます。
ジャンルでみたロードムービーは、迷いを抱えた主人公が旅路で変化を遂げていくものですが、ここでも映画の見どころとして、カンナの成長のポイントを眺めていきましょう。
神への応答責任
「親を亡くした子どもが大人の役割を務めなくてはならない」という構図をもった近年のアニメでは、 『若おかみは小学生!』(2018年)がまず筆頭に挙げられます。
両親を交通事故で失った少女が、祖母の旅館で若おかみ修行に励む同作は、神社が重要な場所であることも、交流相手が霊的な存在であることも共通しています。
子どもの導き役として、若おかみにはウリ坊が、カンナには因幡の白兎という動物があてがわれているのも、大切な類似点です。
彼女たちは、いずれも「異人」から大人になるために必要なことを学んでいきます。大人になって出会うそれは「他者」です。
つまり他者との正しい向き合い方を知ることが求められ、若おかみの成長は、交通事故の加害者を宿に迎え入れたことに確認できます。
一方でカンナはどうでしょう。他者とは人間だけでなく、理解が及ばぬもの全体を指し、一つ一つの出来事も含まれます。
カンナにとっては、“なぜ私が馳走を届けなくてはならないの?”という疑問、すなわち不条理な事態をどのように受け止めていくかが鍵となります。
自分が蒔いた種ではないのに、応えなくてはならない責任。自己責任を超えたこの「応答責任」が社会には必要です。
コロナも災害もだれも自分のせいではありません。しかし、身に降りかかる災難に対し、“自分も社会の責任を分担している一人なんだ”と思えることが、最終的に自らを育む共同体の維持につながっていきます。
この不条理な他者を比喩的に“神”と呼んでもいいでしょう。特に現代では、一人ひとりが応答責任を果たしていくことが“神”から期待されているのかもしれません。
才能と返礼
カンナが悩むのは突然課せられた使命だけではありません。母ほどに速く走れないという、自分の能力に対しても疑問を抱いています。
いわゆる「才能」がない、ということですが、英語でいう“gift”は神から贈られたものという位置づけです。最近の子育てでは“ギフテッド”という表現も用いられていますね。
日常生活でもプレゼントをもらったらお返しをしなくてはと感じるように、才能に関して人間にできることも「返礼」です。
“神”に対するお返しとは、現実には社会や共同体に還元されるものであり、才能の有無など自分で決められることではありません。
とにかく、社会にできることをする。直接求められているのであれば、なおさらです。逆説的に才能があるともいえます。
ただこれも、言うは易く行うは難しで、本作ではカンナの足を引っ張る“神もどき”も現れます。
詳細は控えますが、人々を虚無へと誘う現代特有の病です。カンナがこれにどう抗うかは、大人も参考になるはずです。
偽りの神=物神
そのような偽りの神は、現代にこそ潜んでいます。
商品経済において、人と人との関係が物と物との関係に置き換わってしまうことを、カール・マルクスは「物象化」と指摘しました。
商品交換を便利にするための貨幣も、いつしかお金そのものに価値があるかのように見なされ、「物神」が崇拝の対象となります。
「神もどき」ならぬ「物の神」は、人のつながりを隠してしまう点で、似通っています。
本作では“ご縁”という言葉が頻出し、間違いなく作品のテーマと受け止められるのですが、カンナの成長物語はつながりを「断ち切る神」と「紡ぐ神」の攻防の中にあります。
後者の神の勝利のために、マルクスなら革命を唱えるでしょうが、本作ではここまでみてきたキーワードをまとめた先に答えがあります。
それは「贈与」です。応答責任も才能も“神”にお返しするという形で、実際には社会に贈り物をしていることになります。
お金のやり取りとは違い、何かを贈るという行為のさきには、相手の顔が見えます。
カンナが馳走を届けられるか否かというのは、まさしく贈与が成功するか否かということに、言い換えられるのです。
神無き時代に
経済的にも環境的にも不安定なこの時代に、頑張っているのに報われない、とんだ災難に見舞われた、神も仏もないのかと嘆きたくなるのは自然なことです。
一方、子どもたちにとってはこの状況がスタート地点であり、“神無月”を生き抜く力を否が応でも身につけなくてはなりません。
いや、神は無いというよりは、そもそも不要という姿勢かもしれず、贈与が紡ぐ縁によって、つながりベースでしなやかに生きる姿が、出雲に向かって駆け出したカンナの背中から伺えます。