映画『はりぼて』は2020年8月16日(日)よりユーロスペースほか全国順次ロードショー!
2016年に発覚した富山市議会の事件における報道取材を通して議会と当局、そしてメディアと市民の4年間における実相を描いたドキュメンタリー『はりぼて』。
富山市議会の腐敗が暴かれたのちの様子を描いた本作は、問題発覚後の姿から、人間味あふれる議員の表情とともにそれを取材する報道者たちの姿を追い、さまざまな視点から政治の現場以外にも存在する「はりぼて」の実態をあぶり出します。
本作を手掛けたのは、富山のローカル局のチューリップテレビで当時報道キャスターを務めていた五百旗頭幸男と、取材記者の砂沢智史。今回は二人に、映画制作の経緯とともに自身の報道に対する思いなどをうかがいました。
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政治家たちを単純に“悪者”として描かない
──本作を映画として作られたことには、特別な思いがあったのでしょうか。
五百旗頭幸男監督(以下、五百旗頭):今回の取材に関することとして一つ考えていたのは、やはりテレビよりも映画のほうが表現の幅が広いということ、それとテレビだと放送しっぱなしになってしまうということにあります。テレビでは視聴者との双方向のやり取りをあまり感じることができないところもあるんです。
映画だと自分でも映画館に行って見られるし、シーンごとのお客さんの息遣いや反応も体感できます。また機会があれば実際に会場に来られた方とディスカッションするチャンスもありますし、それを次の制作活動にまた活かすことが期待できると思っていました。
またもう一つの理由として報道とはまた違うポイントですが、ローカル局が置かれている現状という点で、テレビはこれまでの放送事業だけでは食べていけなくなるという危機感から考えたところがあります。
これまでのケースでいえば、番組でドキュメントとして放送してあわよくば全国ネットで放送されて…という感じになりますが、これからはアジアや世界に向けても、ローカルからでも発信していかなければならないと思ったんです。映画を作れば、いろんな海外配信なども行えたり、とさまざまな展開が期待できるわけですから。
──例えば同じく報道を扱ったドキュメント作品として昨年公開された森達也監督の映画『i-新聞記者ドキュメント』がありましたが、本作ではまた違う報道としての視点が感じられました。
五百旗頭:あの作品では衆議院議員の菅官房長官と新聞記者の望月衣塑子さんとのやり取りが描かれましたが、どちらかというと心の通わないやり取りが印象的で、あの作品ならではの引き付けられるものがありました。
一方で今回ローカル局で私たちが撮った素材には、不正を働いた議員たちにもあるどこか憎めない人間味のようなところまでもが撮れていると思いました。
そこは中央の政治家と地方の政治家の違いみたいな感じもあり、その意味で政治家たちを単に悪者として扱わない、そんな人間味のある姿も描きたいと思いましたし、本作は非常に見た人の感情に響くものがあると考えています。
またテレビ局が作るこういった調査報道型、権力追及型のドキュメンタリーは「自分たちがここまでやったんだ」という手柄を誇示するような、手前味噌なにおいを出しがちなところがあると思うんです。
それに対して私たちは本作を絶対そういうものにしたくないと思ったし、だからこそ自分たちの恥ずかしい部分、取材でのあまり芳しくないようなところまでもちゃんと出し、本作の制作を進めましました。
自分たちが“監督”として立つことでできたもの
──本作では取材を行われた五百旗頭さんと砂沢さんご自身が監督という立場に立たれた経緯は、自分たちの姿も映すという部分を考えると非常に興味深いところでもあります。
五百旗頭:私たちがテレビで番組を作る際には、私はディレクターという表記になるんですが、それが映画になったときに“監督”という肩書きになったくらいの意識、感覚なんです。
本作の事件に関しては4年前にチューリップテレビでドキュメント番組を制作しましたが、その番組も私がディレクターをしていました。テレビ局だと記者が当然ディレクターの役割を担うので、今回はそういう感覚でしかないんです。
一方であの自分たちの姿を「ありのままに撮影できたのか?」と気にされる方もおられるかもしれませんが、そもそもありのままにできてはいないと思っています。
当然撮影したものの一部を切り取っているわけですから「完全な事実」ではない、切り取り方という点にこちらの主観も入っている、私たちが切り取って再構成した「事実」なんです。
その意味で自分たちがこのポジションに立ったのは、逆に自分たちが当事者であり、自分たちが介入しなければ作れない、というところが大きいと思っていますし、だからこそ手前味噌なものにせずああいった自分たちの「あまり本来は報道機関が出したくないようなシーン」を、意図的に入れ込んだというところがあります。
──そこは“ダブル監督”として砂沢さんもさまざまなことを考えられていたのでしょうか。
砂沢智史監督(以下、砂沢):基本的に構成、編集は五百旗頭が担当していて、私は取材という役割分担で、素材を見ながら「取材のときに、こんなことが起きていた」ということを説明しながら、途中の経過で見させてもらい意見をさせてもらったという程度です。
ただ本作に関してはラストシーンなどにからめてよく取材でもたずねられるんですが、特に取材や映画の公開にあたって、どこかから圧力があったということはまったくありませんでした。
だから100%私たちが作りたいと思った形がそのまま作品として完成させられていますし、その意味では監督二人体制という格好でも思いはそろっていて、うまく作品になっていると感じています。
自分たちの考える報道の役割
──この作品の物語ではさまざまに市議の闇が暴かれていく一方で、本作の最初と最後は会議を終えて自室に戻る議員に、取材者がカメラを向けながらコメントを求めるも、なにもなく終わるというむなしさを感じられるような画があります。こういった局面でジャーナリズムという点で考えられることはありますか。
砂沢:その2つのシーンは確かに同じような状況が使われているんですが、議員の表情を見ると冒頭のほうは明らかに議員のほうが記者より立場が強く、議員が記者を相手にしていなかった、という感じです。
でも逆に一連の不正取材のこともあって、議員と記者の立場がほぼ対当に近い関係にもあり、最後のシーンで議員がなにも答えなかったのは、絶対に答えず逃げてやる、というようにどちらかというと記者が議員を追い詰めている感じの場面なんです。
その意味でむなしさみたいなところは、私はあのシーンの表現に関しては特に感じていません。ただ私たちの仕事は、相手が人に聞いてほしくないと思っているだろうことを敢えて聞きに行かなければならなかったり、報道するまでにあたりすごく地味でしんどい事情があったり、全然カッコいい仕事ではないと思っているんです。
でもそれでもやる意味、報道する意味というものを、自分の中で常に言い聞かせ続けて毎日仕事に向き合い続けるということ自体が、ある意味ジャーナリズムというものではないかと思っています。
五百旗頭:むなしさみたいなものは、実は私たちにはまったくないんです。これは新聞メディアとテレビメディアの違いでもあるんですが、私たちからするとああいった構成をとるのは、やっぱり映画でも番組でも意図をもって作ったところがあるんです。
例えば新聞だと記事にはなりにくいところですが、テレビメディアでは私たち自身の質問をきっちり活かして、相手の反応をとらえることで、その本質を描くことができるんです。
彼らは逃げ切ったと思うかもしれないけど、その逃げる姿を見た市民や視聴者は感じるところがあると思うので、テレビはそういった手法でやり続けていかないといけないと思っています。
私たちが報道したことで世の中が何か急激に、劇的に変わるなんてことは毛頭思っていません。でもそれをあきらめてしまったらやっぱりさらにひどい状態になり、ルールも働かなくてますますやりたい放題という状態になるでしょう。
だから報道がそういったことを理解した上で、根気よくどこまでこういった地味なことをやり続けるか、ということが大事だと思っています。
中立性、公正性より“どの立場にいるか”が重要
──会見のシーンなどで、相手に対してすこし強い口調で質問をする五百旗頭さんの姿などもあります。こういったシーンからは報道という仕事はどういう立場にいるべきかを考えさせられるところがありますが、その点をどのように考えられますか。
五百旗頭:実際に番組やドキュメンタリーを映画にする中で客観性を意識すること自体は必要ですが、完全な実現は不可能だとも思っています。そもそもテレビの映像は、カメラマンの主観で切り取った映像をさらに人間の主観で編集するわけなので、その意味ではそこに完全な客観性というのはあり得ないでしょう。
だけど公正であるということを意識しながらやはり言わなければならない、ある程度私たちが考えていることは伝えるべきだと思うし、今はそれをしていない流れがあるからこそ、近年叫ばれているメディア不信というものにつながっていると思うんです。
客観性、中立性というものを優先してやるほうが自分たちに火の粉が降りかからなくなるけど、それだとやはり信頼を得られないでしょう。私たちとしては逆にリスクをとらないことのほうがリスクで、時にはある程度リスクもとらないといけないと思うんです。
だから時には相手に対して嫌がる質問ももちろんしなければならない。でも別にそこでそういう質問をして怒られても、もちろん恥じることはない。だからそこである意味相手を怒らせても気にせず鈍感でいられることが大事だったりするわけです。
もちろん感情的に言い過ぎるのはよくないですが、やっぱり取材しているからこそ実情が分かっているわけで、その中で「この状況は市民が見てもおかしいんじゃないか」と思われるようなことに関しては、毅然として質問という形で言っていかなければならない、と思っています。
砂沢:私は、報道は客観性と事実を担保することは大前提として、絶対に守らなければならないものと思っていますが、何か一つの事案に対して取材を行っている中で、自分がどっちにいるか、バランスがどこにあるのかというのは取材を進めれば進めるほどわからなくなったりするときがあるんです。
でもそこで中立性を考えるというよりは、むしろ自分が誰の立場に立つかというところのほうが大事なのではと思ったりもします。だからこの作品で描かれた政務活動費の取材では、自分の中では限りなく富山市民の立場として「ここに住んでいる人だったら、多分こう思うんじゃないか」という点を考えて質問を続けましました。
会見の現場では過激というか、厳しい批判めいた質問を浴びせる記者もいましたが、批判するために会見で質問しているわけではなくて、いろんな疑問がある中で市民が知りたいと思うことを聞く、ということを心がけていますし、その意味で同じ現場の記者全員がみんな同じ立場に立っているとは限らないと思っています。
4年間の経過で改めて感じた報道の難しさと続けることの意義
──2016年から4年間という長い間この問題に携わる中で、自分の中で改めて感じた気持ちはありますか?
五百旗頭:2016年にはあれだけたくさんの議員が辞めて報道も過熱する中で、自分たちの影響力というものを感じたんですが、でもその後、誰も辞めなくなったし市民は無関心で、その後に感じたのは、逆の無力感でした。
そこで思ったのは、自分たちのチェックも本当に正しかったわけではないことや、なにも変えられなかったというむなしさ、無力感といったものでした。でもかといってそこまで自分たちがやって来たことをあきらめていいのかといえば、そういうことにはならなかったと思うんです。
今回はこうして映画にすることで、4年前にその半年くらいの間のことを描いただけでなく、そこからさらに4年間の長いスパンで見たときにまた違ったものも見えてくるし、やっぱり私たちはこういったことをやり続けていかなければいけないんじゃないかと改めて感じています。
砂沢:私は改めて報道という仕事の難しさを感じることでした。2016年に報道記者二年目の状態で取材を行っていたんですが、最初に取材をしたときには正直なところ怖かったんです(笑)
でも取材が進んで“ドミノ辞職”が始まったころには、そんなことを考える余裕もなく逆にテンションも上がっているので、議員への取材が怖くなくなっていました。
ところがしばらく落ち着いてしまうと現場から情報が来なくなり、情報が閉ざされてしまう可能性もある中で、取材の難しさを感じるというところはありました。それでも報道しなければいけないことは報道しなければならないと厳しい状況に置かれていました。
そんな時を経て今改めて、この仕事は取材対象から嫌われたり批判的な感情を持たれながら、それでも近寄って事実に迫っていかなければならないというところがあり、非常に複雑な環境で仕事をしているということを感じた次第です。
──お二人は同期ということですが、お互いの人間性をどのように思われているのでしょう?
五百旗頭:砂沢は本当にこのまま、今しゃべっている通りの人間で表裏まったくなくて…当初私は新人のころに砂沢のことが大嫌いだったんです(笑)。
思ったことを何でもストレートに口に出して言うし、うざったく思って(笑)。でも人柄が分かってきて今の関係ができてきたんですが、取材者としてはやっぱりそういうところがベースにあるんです。
取材に関しても思ったことを素直に聞くんですが、先程の話にもあったように「市民が何を疑問に思うか」という視点で徹底的に。しかも彼のすごいのは、淡々と相手に警戒心を与えずに聞くんです。多分取材相手も全然警戒していなくて、彼は飄々と物腰も柔らかく聞き続けるので、相手もつい口を開いてしまう。
2016年に彼はまだ報道2年目で私が報道11年目だったけど、そんな差がありながらその姿勢は見習わなければならないなと思って勉強させられました。その意味で彼に関しては100%信頼しているんです。
砂沢:五百旗頭は本当に報道や社会の問題をよく勉強していろいろ考えている一方で、したたかな部分もあって会見やインタビューで相手に対していろんな質問の仕方をしたりとやり手のイメージがあるんですが、一方で根はすごく熱く真っすぐな感じがします。
私と性格やタイプは違うんですが、二人とも批判を恐れて動きを止めたり後ろに下がったりするようなことはしないということは共通していて、私も信頼しています。この取材や映画に関してもいろんなことがありましたが、そんな部分がうまく噛み合ってていたので、本作の制作にあたってはしっかり前を向いて作品に取り組め、上映にまで至ったと思っています。
インタビュー・文/桂伸也
五百旗頭幸男×砂沢智史のプロフィール
五百旗頭幸男(いおきべ ゆきお:写真左)
兵庫県生まれ。チューリップテレビでスポーツ記者や警察担当などの記者経験を積み、2016年から2020年3月まで夕方のニュース番組キャスターを兼務。見た目は穏やかだが舌鋒鋭く、これまで数々の社会問題について不正を追及してきました。2020年3月にチューリップテレビを退社。
砂沢智史(すなざわ さとし:写真左)
富山県生まれ。五百旗頭と同期でチューリップテレビに入社し、営業や編成のデスク勤務を経て2015年春から報道記者となりました。変化球が投げられず、取材も人付き合いも常に直球勝負。まじめで素直、そしてとにかくしつこいのが特徴。またコンピューターに精通し、数字に強い一面を持っています。
映画『はりぼて』の作品情報
【公開】
2020年(日本映画)
【監督・脚本】
五百旗頭幸男、砂沢智史
【プロデューサー】
服部寿人
【語り】
山根基世
【作品概要】
14人の富山市議会議員が辞職に追い込まれた政務活動費不正使用問題にまつわる「政務活動費を巡る調査報道」によって2017年度に「日本記者クラブ賞」特別賞などを受賞したローカル局のチューリップテレビが事件のその後を取材し、人間の狡猾さなどを描いたドキュメンタリー作品。
チューリップテレビは事件後にさらに4年の取材を続け、なおも続く議会の腐敗やさまざまな表情を見せる議員たちの姿をとらえました。作品は、チューリップテレビで報道を担当した五百旗頭幸男と砂沢智史が手掛けました。
映画『はりぼて』のあらすじ
市議会議員の報酬アップという議題が、その経緯に多くの疑問を残したまま可決された富山市議会。多くのメディアがこの問題に目を向ける中、2016年8月にローカル局のチューリップテレビが「自民党会派の富山市議 政務活動費事実と異なる報告」というスクープを報道したことで、“富山市議会のドン”といわれていた自民党の重鎮が自らの不正を認め辞職しました。
これを皮切りに議員たちの不正が次々と発覚し、8か月の間に14人の議員が辞職するという“ドミノ辞職”に発展していきました。この失態を反省し、富山市議会は政務活動費の使い方についての厳しい条例を制定。ところがあれから3年半が経過した2020年、市議会では不正が発覚しても議員たちは開き直り辞職せず、議会に居座るようになっていました。
そして記者たちは議員たちを取材する中で、彼ら政治家の「はりぼて」の裏にある非常識な姿や人間味のある滑稽さを目のあたりにしていきます。ところが「はりぼて」は、実は記者たちのそばにもあることを、まざまざと見せつけられていくことになるのでした。
映画『はりぼて』は2020年8月16日(日)よりユーロスペースほか全国順次公開!