連載コラム『だからドキュメンタリー映画は面白い』第40回
インドネシア大虐殺を自ら再現する加害者から見えてくる、人間の闇。
今回取り上げるのは、2014年に日本公開のジョシュア・オッペンハイマー監督作『アクト・オブ・キリング』。
1960年代インドネシアで行われた大量虐殺を、加害者側の視点から大胆に描いた戦慄のドキュメンタリーです。
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CONTENTS
映画『アクト・オブ・キリング』の作品情報
【日本公開】
2014年(デンマーク・ノルウェー・イギリス合作映画)
【原題】
The Act of Killing
【監督・製作】
ジョシュア・オッペンハイマー
【共同監督】
クリスティン・シン
【製作総指揮】
エロール・モリス、ベルナー・ヘルツォーク、アンドレ・シンガー、ヨラム・テン・ブリンク、トシュタイン・グルーテ、ビャッテ・モルネル・トゥバイト
【撮影】
カルロス・マリアノ・アランゴ・デ・モンティス、ラース・スクリー
【音楽】
エーリン・オイエン・ビステル
【キャスト】
アンワル・コンゴ、ヘルマン・コト、アディ・ズルカドリ、イブラヒム・シニク
【作品概要】
1960年代に、インドネシアで秘密裏に行われた100万人規模の大虐殺を、加害者の視点でとらえたドキュメンタリー。
アメリカ人監督ジョシュア・オッペンハイマーが、現地で事件に関する取材を長年続けたのち、加害者たちが過去の殺人を再現する様をカメラに収めた、衝撃作となっています。
製作に関わった現地スタッフは、名前を明かすと生命が脅かされる危険性があるとして、“Anonymous(匿名)”名義でクレジット。
また、『フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白』(2004)のエロール・モリス、『キンスキー、我が最愛の敵』(1999)のベルナー・ヘルツォークら巨匠たちが、テーマにほれ込んで製作総指揮を志願。
ヘルツォークは「私は少なくともこの10年間、これほどにパワフルで、超現実的で、恐ろしい映画を見たことがない。映画史上に類を見ない作品である」と称賛を送っています。
ベルリン国際映画祭観客賞受賞、アカデミー長編ドキュメンタリー賞にもノミネートされるなど、高い評価を得ました。
映画『アクト・オブ・キリング』のあらすじ
1965年にインドネシアで発生した軍事クーデター「9・30事件」後、当時の軍部が事件の黒幕を共産主義者と断定。
これにより、共産党関係者・共産主義者や疑いをかけられた一般市民が、100万人規模で虐殺されました。
その虐殺を実行したのが、「プレマン」と呼ばれる民間兵士によるものとされるも、インドネシア政府は関与を否定。
それどころか、虐殺を行った実行者たちは、現地では権力の座についているのです。
そんな中、現地で事件に関する取材を長年続けていたジョシュア・オッペンハイマー監督は、政府当局から被害者への接触を禁止されたことを受け、方針を変更。
国民的英雄とされる加害者たちに、当時の大虐殺を振りかえってもらっていた過程で、オッペンハイマーはある提案をします。
それは、殺人の様子を自ら再現してもらうというものでした…。
ディストピアなインドネシア
本作『アクト・オブ・キリング』の監督ジョシュア・オッペンハイマーは、「9・30事件」と呼ばれる1965年のインドネシアのクーデターについてのドキュメンタリーを撮ろうと、2003年ごろから取材を開始。
当初は、事件で虐殺された被害者側の視点から、彼らが今もなお周囲で暮らす加害者に怯える生活を余儀なくされているという実情に迫った内容でした。
ところが、インドネシア政府軍の圧力で被害者への取材が制限されたことで、代わりに加害者へのインタビューをすることに。
そこで映し出されたのは、過去の虐殺行為を笑顔で語る者たちでした。
地元の国営テレビ番組に出演して自慢話に花を咲かせれば、その番組の司会者も「共産主義者は殺されて当然ですね」と合いの手を入れ、加えて「デマ記事を流して虐殺を煽った」と堂々と語る新聞社の社長まで登場します。
『殺人狂時代』(1947)でのチャールズ・チャップリンのセリフ「一人を殺せば犯罪者だが、百万人なら英雄だ」を思わせる、まるでディストピア映画での冗談のような世界が、現実のインドネシアで存在している驚き。
オッペンハイマー曰く、「ホロコーストの40年後にドイツに行ったら、ナチスがまだいるような感覚」が、そこにあったのです。
加害者自ら演出もこなす“殺人遊戯”
本作の要となるのが、その加害者たちが過去の殺人を再現し、映画内映画を作っていく様子です。
彼らは「プレマン」(英語の「フリーマン」が語源)と呼ばれる、いわゆる裏社会の人間で、中でも北スマトラで最も悪名高い殺人部隊にいたアンワル・コンゴという人物に、焦点を当てます。
アンワルは、「俺たちの歴史を世に知らしめるチャンス」として、アメリカのギャング映画にヒントを得たというワイヤーでの絞殺方法を伝授。
大虐殺シーンを演出したり、特殊メイクを施して自ら被害者になりきるなど、ありとあらゆる“殺人遊戯”を披露すれば、アンワルの友人のヘルマン・コトは、女装してダミーの生首を持ってミュージカル仕立てで踊ります。
その異様ともいえる光景を観ていると思わず笑ってしまいそうになりますが、それらすべては彼らが50年以上前に実際に行っていたことを思い返すと、戦慄が走ります。
加害者としての顔を見せたかと思えば、家では優しい父・祖父としての顔を見せるアンワル。
でも、彼が暮らす近所には、幼いころに共産主義者扱いされた育ての父が殺された人物が住んでいるという、にわかには信じがたい現実も、カメラは非情に映します。
「俺たちの行為は他の国もやってる」
アンワルたちが殺人遊戯を再現してくれたことについて、オッペンハイマー監督は「実は虐殺行為を気まずく感じるあまり、逆に自分を肯定するための自慢話にしたかったのでは」と考察しています。
そのアンワルが終盤で見せる姿は、本作唯一の光明と言えるかもしれません。
一方で、アンワルと共に虐殺に加担したアディ・ズルカドリは、「俺たちがやったことは、他の国でも行われてきたことだろ?」と悟ったように語ります。
時と状況がそろえば、人間は恐ろしいことをしてしまう――インドネシアの大虐殺は、決して他人事ではありません。
大虐殺の被害者視点で描いた『ルック・オブ・サイレンス』も製作
参考:『ルック・オブ・サイレンス』予告
なお、オッペンハイマー監督は、同じインドネシアの大虐殺をテーマにした『ルック・オブ・サイレンス』(2015)も製作。
こちらは、大虐殺で家族を失った被害者が、加害者側にその罪を認めさせようと、ある行動に出る様子を追った姉妹編となっています。
ドキュメンタリーでありながら、サスペンスフィクションを観ているような展開に突入しつつ、露骨な残虐描写を用いることなく、人間の闇をあぶりだす内容となっています。
『アクト・オブ・キリング』と『ルック・オブ・サイレンス』が全世界で公開されたことで、インドネシア国内でも1965年の事件や、それまで英雄視していた虐殺行為に疑問を投げかける声が挙がりました。
人間は、過去の過ちから、学ぶことも、理解することも、受け入れることもできる生き物なのです。
次回の連載コラム『だからドキュメンタリー映画は面白い』もお楽しみに。
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