はじめまして、こんにちは。
このたび、Cinemarcheで新コラム「メランコリックに溺れたい」を始めることになりましたライターの近藤です。よろしくお願いします。
映画の好みは人それぞれですが、最近話題になるのはハッピーエンドや元気がもらえるような明るい作品が多いと思いませんか?
パッとしない世の中だからさもありなん、かもしれません。でも、私は声を大にして言いたい、「暗い映画が大好きです!」と。
人生は不条理、ひとの気持ちはままならぬもの。映画はそんな私たちの心の“日陰”にも寄り添ってくれるはず。
本コラムでは陰鬱憂鬱沈痛悲惨、トラウマ級の衝撃作から、見た後は一人になりたくなる異色作まで、重ぉーい映画を積極的に取り上げていきます。
“日なた”好きの方はご注意を、ここは映画の暗がりです……。
CONTENTS
映画『タロウのバカ』(2019/大森立嗣監督)
さて、栄えある第1回は9月6日公開、大森立嗣監督の『タロウのバカ』です。
菅田将暉に仲野太賀、フレッシュな新人のYOSHIを抜擢した少年3人の青春譚が暗い映画?と疑問に思われるかもしれません。
でも、この映画、妙な軽快さはあるけれど、重いです。
のっけから障がい者が“収容”されている廃屋の施設が登場し、〈管理者〉らしい半グレの吉岡(奥野瑛太)がイライラと「バカ」を連発して呪詛の前口上を述べます。
「命は地球より重いってテレビで言ってた。バカだろ」「仲間はずれだよ、社会から排除、バカだろ、そんで弱者が弱者をいたぶる」「生死の判断つかない奴はもう全員殺した方がいいんだよ」……。
冷めた顔で吉岡を見ていたヤクザ者(國村隼)は、よく理由もわからないまま、背後から頭をパン。じめじめと降る雨音が耳にこびりつき、もう不穏な予感しかしません。
鮮烈なデビュー作『ゲルマニウムの夜』
大森監督は、近作こそ茶道教室を舞台にした『日々是好日』(18)や、母と息子の絆を描いた『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』(19)など、“普通”の映画を手掛けていますが、デビュー作『ゲルマニウムの夜』(05)を見れば、一筋縄ではいかない映画作家であることは明らかです。
『ゲルマニウムの夜』は花村萬月の同名小説を原作に、とは言っても、明確なストーリーラインはなく、ある救護院を舞台に、衝動的に人を殺して舞い戻ってきた朧(ロウ/新井浩文)が修道女を犯し、院長に嬲られ、人を殴り、殴られ、蹴り、蹴られ、偽善も露悪もなく本能のままに在る姿を淡々と描いています。
新井浩文の淀んだ瞳が何とも印象的で、よくこれをデビュー作にしたなぁ!と製作を引き受けたプロデューサー荒戸源次郎(故人)の肝っ玉に感嘆せずにはいられません。
構想から20年を経て
大森監督のオリジナル脚本である『タロウのバカ』はもともとデビュー作として構想され、『ゲルマニウムの夜』より前、90年代にはシナリオが書かれていました。
驚いたことに内容は当時からほぼ変更がないそうで、阪神大震災やオウム真理教の事件で世の中が大きく揺さぶられた前世紀末から、社会は大して変化していない、むしろより強まる閉塞感の中に生きているのかもしれないと考えさせられます。
と言うのも、古き良き〈任侠〉など崩壊した裏社会に生きる半グレの吉岡や、ネグレクトされて育ったタロウ(YOSHI)は、今の時代をこそ照射する存在だからです。
タロウには「ヨシノリ」という名があり、母親もいますが、日ごろ呼ばれない名前は記号でしかありません。
学校にも通ったことがないという「ヨシノリ」は同世代のエージ(菅田将暉)とスギオ(仲野太賀)と出会い、名も名乗れず、きっと冗談半分に「名前のない奴はタロウだ」と名付けられることによって、初めて生を得たのでしょう。
タロウはまるで野生動物のようで、痩せっぽちの体を全部使ってスクリーン中を駆け回ります。普通の高校生であったエージとスギオは、その奔放な存在に惹かれていきます。
柔道という道をケガによって絶たれ、居場所のなくなったエージと、売春をしている同級生に恋するスギオ。2人は墜ちていくのではなく、エージの言葉を借りるなら、「飛ぶ」ことになるのです。吉岡から奪った拳銃がそれに拍車をかけました。
でも、これもエージの言葉を借りれば、「飛ぶと落ちるとき……死ぬ」。
アウトサイダーへの眼差し
本作にはもう2人、重要な役どころとしてダウン症のある藍子(角谷藍子)と勇生(門矢勇生)のカップルが登場します。2人は河川敷で遊んでいるタロウの良き友達です。
大森監督の作品では、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』(10)にもダウン症のある人たちが登場します。児童養護施設で育ったケンタとジュンは、劣悪な職場から逃げ出し、刑務所にいるケンタの兄を唯一の希望として旅をします。その途中で立ち寄るのがダウン症のある人たちの作業所です。
人生で敵意と蔑みばかり浴びてきた2人にとって、皆が穏やかに動物の世話をしたり、野菜を育てたりしているその施設はまるで桃源郷のようでした。
『タロウのバカ』の藍子と勇生は茶目っ気たっぷりです。タロウと3人で話していたのに、勇生が嫉妬したのか、突然ぷいと藍子の手を引いていなくなったりします。
圧巻なのは、藍子が土砂降りの雨の中で熱唱するシーン。カメラは勇生のことを想って歌う藍子の顔を正面からアップで捉えます。歌声は力強く、愛に満ち、とても心揺さぶられるシーンです。
ダウン症のある人たちはともすれば一面的なイメージで語られがちですが、大森監督の眼差しはあくまで対等で、彼らを“そのまま”映画に出すという確固たる意思を感じます。
タロウも社会の枠からはみ出た〈外の者〉であり、監督の作品には、くびきから外れたアウトサイダーに対して、憧れさえ通底している気がしてなりません。
タロウは希望か、絶望か
ただ、本作がどうしても息が詰まるのは、タロウたちが結局どこへも行けないから。
ロシアの劇作家チェーホフは「第一幕で登場した銃は第三幕で必ず放たれる」と言いましたが、タロウたちの得た拳銃も、ずっと〈死〉の匂いを漂わせながら3人の少年たちの傍らにあり、最後は血しぶきを吹かせます。
一発は吉岡に対して。もう一発はスギオに。
吉岡は確かにタロウたち、特にエージにとっての敵ですが、たかが半グレの〈小さな敵〉であり、冒頭の長い“毒”白が物語るように、大人になって、どうにか生きるためにもがいている、現代のいちばん生々しい存在にも映ります。
スギオは自らを銃弾によってこの世から弾き飛ばしてしまいます。
エージは、吉岡たちとの乱闘中のケガがもとで、川べりに倒れます。
結局、タロウたちの拳銃が撃ったのは、彼らの狭い世界の〈中〉ではないのか――?
一般的には現実世界で、世の中をそう簡単には変えられないこと、「ここではないどこか」なんておよそないことを知っています。
だからこそ映画では突破口を、という思いと、だからこそ本作は苦くて痛くて響くんだ、という思いの両方に駆られます。
希望は、アウトサイダーの最たるタロウが生き残ることでしょう。タロウは最後、残った銃弾を自分でも他者でもなく川面に向かって放ち、河川敷でサッカーを楽しむ子供たちの中に走り込んで、悲しみの咆哮をあげます。
自主規制や右へならえの風潮、窒息しそうな世の中で、どうすれば呼吸をし続けられるのか。雨に打たれて歌う藍子や、失った痛みをあらん限りの声で叫ぶタロウは、そのヒントをくれているのではないでしょうか。
けれど一方で、この先タロウはどうやって生きていくのでしょう。タガを外したまま、飛んだまま落ちず、吉岡にもならず、そんな生き方はあるのでしょうか。
……やっぱり、本作のラストは希望と絶望に引き裂かれているのです。
まとめ
本作を見て「まるで神話のようだ」という感想が少なくないと聞きました。
確かにタロウは地に足がつかず、現実感がなく、天使か何かのようにも見えます。
だとすれば、神話のように『タロウのバカ』を見るのも一興かもしれません。古代の神話に合理性はありません。ゼウスが黄金の雨になって夜這いした話の、どこに教訓なんてあるんでしょう?
「で、オチは?」なんて無粋は無用、タロウやエージ、スギオ(と、もしかしたら吉岡も?)についてああだこうだと思いを巡らせてみてはどうでしょう。
……あ、最初に見ると一人になりたくなる映画を紹介するなんて言いましたが、『タロウのバカ』は見た後、無性に誰かと話したくなる映画、なのかもしれません。
次回のメランコリックに溺れたいは…
次回はイザベル・ユペールとクロエ・グレース・モレッツのダブル主演を果たしたスリラー映画『グレタ GRETA』を取り上げます。
お楽しみに!