細野辰興の連載小説
戯作評伝【スタニスラフスキー探偵団~日本俠客伝・外伝~】(2019年8月下旬掲載)
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第一章「舞台『スタニスラフスキー探偵団~日本俠客伝・外伝~』は失敗作だったのか」
第二節「一枚のポスター」其の参
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「一にスター、二にプロデューサー、三、四がなくて、五に監督」
と云っても差し支えない東映時代劇映画&ヤクザ映画全盛時代の「スター・システム」。しかも東映映画の創立に拘った重役スター片岡千恵蔵の力は、時代劇がヤクザ映画に取って代わられようとしていた過渡期でもまだまだ絶大なものがあった様だ。
その証拠が『博徒対テキ屋』のトップタイトルに如実に現れていると云っても良いのではないだろうか。幾ら鶴田浩二がヤクザ映画『人生劇場 飛車角』シリーズや『博徒』(東映京都 `64・7月公開 監督・小沢茂弘 脚本・村尾昭 主演・鶴田浩二)シリーズで当てて来たからと云っても所詮は「外様」扱いと云うことなのだろう。
京都撮影所では尚更だった。
世間的には奇妙に思えた片岡千恵蔵のトップタイトルも強固な「スター・システム」を貫いて来た東映関係者にはごく当たり前のことだったのだ。
「そんな馬鹿な!?」と思う方にはドキュメンタリー映画の鬼才・原一男監督編著の『映画に憑かれて 浦山桐郎 インタビュー・ドキュメンタリー』(現代書館 `98・4月発行)を読まれることをお勧めする。
東映に於ける別格スター吉永小百合主演の『夢千代日記』(東映京都 `85・6月公開 監督・浦山桐郎 脚本・早坂暁 主演・吉永小百合/北大路欣也)。その製作過程に起きた浦山桐郎監督VS吉永小百合、浦山桐郎監督VS東映プロデューサーたちとの確執と顛末が、色々な関係者へのインタビューで緻密に検証し尽くされている。
「一にスター、二にプロデューサー、三、四がなくて、五に監督」に翻弄される浦山桐郎監督の最晩年の姿がリアルに迫り、胸を撃たれてならない。
そう、浦山桐郎監督は、『夢千代日記』が公開された四ケ月後の10月に54歳の若さで急逝されたのだ。
名作『キューポラのある街』(日活 `62・4月公開 監督・浦山桐郎 脚本・今村昌平/浦山桐郎 主演・吉永小百合)で吉永小百合を一躍トップ・スターにし、傑作『私が棄てた女』(日活 `69・9月公開 監督・浦山桐郎 脚本・山内久 主演・河原崎長一郎/小林トシ江/浅丘ルリ子)では70年安保直前の高度経済成長期の日本に呪いを掛け、更に『青春の門』(東宝 `75・2月公開 監督・浦山桐郎 脚本・早坂暁/浦山桐郎 主演・田中健/仲代達矢/吉永小百合)では吉永小百合に迫真のベッドシーンを演じさせ脱皮させた名匠・浦山桐郎監督にしてこの扱いだったのだ。
往年の東映京都撮影所の「スター・システム」、怖るべしッ、なのである。
しかし、流石の東映でも助演である片岡千恵蔵を宣伝時にトップタイトルにする訳には行かなかった。何故ならば『博徒対テキ屋』は、鶴田浩二主演の『博徒』シリーズの三本目だったからだ。ポスターなどの宣材は全て順当に鶴田浩二がトップタイトルになっている。
そこが『日本俠客伝』の中村錦之助と決定的に違う点だった。
『日本俠客伝』では、中村錦之助の名前はあらゆる宣材でトップに扱われ、スチル写真も錦之助と三田佳子の愁嘆場のシーンが使用された。
何処から見ても『日本俠客伝』はトップ・スター中村錦之助の主演映画として宣伝されていたのだ。
久し振りの「錦ちゃん」「錦兄ィ」の痛快娯楽作品として「待ってましたッ。」と劇場に『日本俠客伝』を観に行った客が、トップタイトルが中村錦之助でないのに先ず驚いたのもむべなるかな、なのである。
細野監督もその一人だった。
監督は、『日本俠客伝』を小学校6年生の時に「逗子東映」(昭和48年1月末に閉館)で観ている。勿論、親に連れて行かれて観たに過ぎず、クレジットタイトルの名前の順番までは印象に残っていないが、錦之助が映画の途中で死んだのには唯々、ビックリしたと云う。
細野少年も中村錦之助の主演映画として観たと云うことだ。
中村錦之助は、当時、東映の看板スターであることは言わずもがな、日活の石原裕次郎、東宝の三船敏郎と肩を並べる日本映画界のトップ・スターとして10年間、名実ともに光を放ち続けていた「スターの中のスター」だった。
黒澤明と「世界のミフネ」コンビによる『用心棒』(東宝/黒澤プロ `61・4月公開 監督・黒澤明 脚本・黒澤明/菊島隆三 主演・三船敏郎)『椿三十郎』(東宝/黒澤プロ `62・1月公開 監督・黒澤明 脚本・黒澤明/菊島隆三/小國英雄 主演・三船敏郎)ショックがあったとは云え、錦之助の興行的価値は東映にとって唯一無二には違いなかった。
「錦之助から髷を取り、着流しヤクザにさせ『長谷川伸の世界』を演じさせれば必ず当たるッ。」
昭和39年2月に東京撮影所から京都撮影所長に返り咲き、時代劇からヤクザ映画にシフトチェンジすることを画策していた岡田茂が確信を持つのも当然だった。
岡田茂とは後に東映の社長に成り会長にまで上り詰めた、あの岡田茂だ。
ヤクザ映画にチェンジしても中村錦之助を看板スターに据え続ける積りだったのだ。
それ程、加藤泰監督の名作『瞼の母』(東映 `62・1月公開 監督/脚色・加藤泰 主演・中村錦之助)から二年振りに「長谷川伸の世界」を演じた『関の弥太ッぺ』(東映 `63・11月公開 監督・山下耕作 脚本・成沢昌茂 主演・中村錦之助)の錦之助も亦、素晴らしかった。
因みに錦之助の『関の弥太ッぺ』は、細野監督の生涯のベストワン作品とのことだ。私も是非、観るべしッ、と学生時代に云われ、至上のひと時を味合わさせて貰った。正に「珠玉の名作」とはこの映画のことを云うのではないのだろうか。
今年の3月から2ヶ月間、「錦之助映画ファンの会」代表である藤井秀之さん肝煎りで行われた「ラピュタ阿佐ヶ谷」での『錦之助特集』にも『関の弥太ッぺ』をコッソリ観に行ってしまった。
その時の余談になるが、ラストの大団円、弥太郎の
「おさよさん、この娑婆にゃあ辛れえこと哀しいことが一杯ある。でもな、忘れるこったァ、忘れて陽が暮れりゃァ、明日が来る。あゝ、明日も天気かァ。」
と云う台詞に十朱幸代演じるおさよが、弥太郎こそが十年前の恩人だッ、とやっと気づき、
「貴方は!?」
と云う件。
溢れ出る涙を必死に堪えて観ていると、後ろの席で辺りを憚らず嗚咽を漏らしている男性が居た。気に成り窺うと他ならぬ細野監督ではないかッ。
私の脳裏に思わず、ドリフターズの加藤茶の「アンタも好きねえ」ならぬ「監督も好きねえ」がフラッシュ・バックしたことを告白しておく。
話を元に戻そう。
錦之助は、しかし、『日本俠客伝』の出演を断わった。スケジュールが理由だと云われている。
名作『ちいさこべ』(東映京都 `62・6月公開 監督・田坂具隆 脚本・田坂具隆/鈴木尚之/野上龍雄 主演・中村錦之助/江利チエミ)に続いての巨匠・田坂具隆監督との野心作『鮫』(東映京都 `64・6月公開 監督・田坂具隆 脚本・鈴木尚之/田坂具隆 主演・中村錦之助)の撮影スケジュールが遅れ、亡父、三代目・時蔵、亡兄、四代目・時蔵の追善興行の間に『日本俠客伝』に主演するのは無理、と云うのが表向きの理由だった。
『清水港の名物男 遠州森の石松』(東映京都 `58・6月公開 監督・マキノ雅弘 脚本・観世光太 主演・中村錦之助)などで錦之助を演技開眼させたと自負するマキノ雅弘監督は、しかし、ここでは立腹まではしなかった様だ。
そこで苦肉の策のピンチヒッターとして大抜擢されたのが高倉健だった。
大抜擢、と書いたが決して大袈裟ではない。
同じ東映とは云っても京都撮影所と比べると格下と見られていた東京大泉撮影所で俳優になった高倉健は、時代劇の添え物としての現代劇には主演もしていたが、東映の主流である京都撮影所での主演経験はなかった。
その高倉健が、京都撮影所で製作される東映オールスターのお盆映画でトップ・スター中村錦之助の代わりに主役を演じるのだ。正に大抜擢だった。
この経緯にも勿論、諸説ある。
錦之助の自伝『わが人生 悔いなくおごりなく』(東京新聞出版局 `95・10月発行)に拠れば、自分がスケジュールの都合で出演できなくなり、代わりに高倉健を推薦した、と記されている。
一方、岡田茂の幾つかの自伝に拠れば、『人生劇場 飛車角』などの健さんを見て岡田が抜擢したと述懐している。
亦、マキノ雅弘監督の『映画渡世・地の巻』(平凡社 `77・8月発行)に拠れば、
「(錦之助は)四日間ならやれると云いだした。しかし、それにしても、四日間で主演がやれるはずがない。」
そこで、錦之助にも話し、錦之助が目にかけてやっていた高倉健を主役に話をこしらえ直した、と記されている。
一寸した『羅生門』、否、『藪の中』だ。
しかし、当時の高倉健では誰の胸にも興行的に不安があったのも事実だった様だ。
そこで岡田茂は、京都撮影所長として映画館主や配給から不安の声が上がる前に中村錦之助の特別出演を画策した、と云われている。
「可愛がっている高倉健が錦兄ィの代わりに立つんだ、しかも初の京撮主演映画だ、助けてやって欲しい。」
昭和37年に岡田が東京大泉撮影所長に左遷と決まった時に、中村錦之助が餞として約していた
「岡田茂が京都撮影所に戻った時には、何を置いても岡田茂の拘る作品に出演する」
との一文までをも持ち出して来たとの説もある。
となると、錦之助にはスケジュールだけではなく『日本俠客伝』に出たくない何か別の理由があったと考えられるかも知れない。
細野監督は、この疑問を舞台の切り口の一つにしている。
とまれ中村錦之助は、それ程までの人気スターだったのだ。
しかし、そうだとすると先述の錦之助の
「自分がスケジュールの都合で出演できなくなり、代わりに高倉健君を推薦した」
やマキノ監督の言葉とも整合性が取れなくなって来てしまう。
こちらも、一寸した『藪の中』だった。
勿論、細野監督は、『スタニスラフスキー探偵団~日本俠客伝・外伝~』で監督ならではの仮説を立て、その上に独自の切り口で「初世・中村錦之助論」を展開してくれた。
しかし、それを今、此処で紹介してしまうのは性急すぎると云うものだろう。
さて、そろそろ明石スタジオでの「舞台の続き」に戻ることにしよう。
果たして鬼迫の提案する新企画『スタニスラフスキー探偵団~日本俠客伝・外伝~』に尾形や千草たちはどう乗ったのだろうか。
◯ 元の舞台
壽々子「それって詐欺なんじゃないのッ。」
鬼迫「全ての映画なんて詐欺の様なもんだッ、と云
う云い方も出来るさ。」
壽々子「このポスターにしろ宣伝の仕方にしろ、誰
だって中村錦之助主演の映画だと思って観に来る
に決まってるじゃないッ。」
日野「そうかッ、だから大ヒットしたのか!?」
鬼迫「大ヒットなんてものじゃない。同じ年の一月
に正月映画として公開された錦之助の代表作であ
り傑作と自他ともに認めている『宮本武蔵 一乗
寺の決斗』よりヒットしたんだからな。」
日野「そんなバカな!?」
鬼迫「観客なんて、そんなものだろう。」
和田「(ポスターを見て)誰が見たって久しぶりに錦
兄ィらしい痛快娯楽映画の薫りがしますからね
ェ。」
壽々子「だから詐欺だって云うのヨ。錦之助は特別
出演なんでしょッ。途中で死ぬのでしょう?」
和田「『江戸っ子健に 錦兄ィが惚れたッ。』そう
云う映画に成ってましたッ。」
清水「久しぶりに錦兄ィらしい痛快娯楽映画って、
どういうことなんです?」
和田「社会派の巨匠・今井正監督の問題作でベルリ
ン映画祭グランプリに輝いた『武士道残酷物語』
ッ。名匠・加藤泰監督が気鋭の劇作家・福田善之
の原作とシナリオ得て放った異色作『真田風雲
録』。ベネチア映画祭で黒澤明監督より早い受賞
歴を持つ戦前からの巨匠・田坂具隆監督の
『鮫』。再び今井正監督と組んだ橋本忍脚本の
『仇討』と何故か芸術映画っぽい問題作への出演
が続いていたんです、錦之助さんは。」
飯尾「判った! 当たらなかったんでしょ、それら
芸術映画は?」
鬼迫「それがそれなりに当たったんだ。だから始末
が悪い。」
壽々子「何故、ヒットしたのに始末が悪いんで
す?」
鬼迫「それは、俺ではなく風間重兵衛に謎解きして
貰うさ、『日本俠客伝・外伝』の中でな。」
尾形「面白いッ。やりましょう!! 飯尾も新作なん
だから文句ないだろう。」
飯尾「再演ではないにしても『スタニスラフスキー
探偵団』の続篇なんだから、純粋に新作って云え
ないんじゃないですか。」
鬼迫「嫌なら、助監督の綾部は業界から足を洗った
ことにして登場しないことに成るが。」
日野「そうしよう。そうなれば高倉健の役は俺が演
じることになるだろうからな。」
清水「そんな歳を取った高倉健じゃないですよ。三
十代前半の健さんですよ。僕しかいないに決まっ
ているでしょう。」
尾形「千草はどうなんだ?」
千草「剃刀から解放されるのなら大賛成よ。」
鬼迫「『日本俠客伝・外伝』の真髄は、初世・中村
錦之助の類まれな才能と悲劇性を描くことだ。中
村錦之助は何故、『日本俠客伝』の主役を断った
のか? 何故、巨匠たちの芸術映画に傾倒してい
ったのか? 何故、東映を離れて行ったのか?」
尾形「俺は、中村錦之助を演じることに役者生命を
賭けることを此処に宣言する!!」
と『日本俠客伝』のポスターの前に立ち、中
村錦之助演じる清治のポーズを決める。
呼応して高倉健演じる辰巳の長吉のポーズを
取る飯尾。
スポットが二人を絞って行き、やがて尾形だ
けに絞られて行く。
此処までで、『スタニスラフスキー探偵団~日本俠客伝・外伝~』の冒頭のバックステージ分は終了する。
以前にもお話した様に、映画『貌斬りKAOKIRI~戯曲【スタニスラフスキー探偵団】より』の構成を持ち込んだことはお判り頂けたと思う。
そのことが果たして細野監督が云う様に『スタニスラフスキー探偵団~日本俠客伝・外伝~』が失敗作だと云う原因になるのか。否、そもそも失敗作なのかどうなのかの感想は何処までも主観的なものであり、普遍的なものではない。
私は寧ろ『スタニスラフスキー探偵団』第一作目よりスケールの大きさを感じてしまった。
勿論、この小説『戯作評伝【スタニスラフスキー探偵団~日本俠客・外伝~】』が目指す処は舞台とは違う。
念の為、「前語り」で語ったことを再度、挙げておきたい。
「本小説は、メタ・フィクションを主題とした舞台『スタニスラフスキー探偵団』及びそれを劇中舞台としたメタ・フィルム『貌斬りKAOKIRI~戯曲【スタニスラフスキー探偵団】より』で映画監督・細野辰興が挑んだ「虚実皮膜」の方法論を、架空の舞台『スタニスラフスキー探偵団~日本俠客伝・外伝~』を現在過去未来の前後左右から評伝する小説にすることにより、更に進化させようとする試みである。
同時に、昭和29年から昭和41年までの戦後日本映画界黄金期の「隆盛と凋落」を体験した或るトップ・スターを通しての日本映画史の物語であるのかも知れない。」
これらのことを頭の片隅にでも置いて頂き、第二章からの展開にご注目頂ければ、と「一語り手」としては思う次第なのである。
【この節】了
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*この小説に登場する個人名、作品名、企業名などは実在のものとは一切関係がありません。作家による創作物の表現の一つであり、フィクションの読み物としてご留意いただきお楽しみください。
細野辰興のプロフィール
細野辰興(ほそのたつおき)映画監督
神奈川県出身。今村プロダクション映像企画、ディレクターズ・カンパニーで助監督として、今村昌平、長谷川和彦、相米慎二、根岸吉太郎の4監督に師事。
1991年『激走 トラッカー伝説』で監督デビューの後、1996年に伝説的傑作『シャブ極道』を発表。キネマ旬報ベストテン等各種ベストテンと主演・役所広司の主演男優賞各賞独占と、センセーションを巻き起こしました。
2006年に行なわれた日本映画監督協会創立70周年記念式典において『シャブ極道』は大島渚監督『愛のコリーダ』、鈴木清順監督『殺しの烙印』、若松孝二監督『天使の恍惚』と共に「映画史に名を残す問題作」として特別上映されました。
その後も『竜二 Forever』『燃ゆるとき』等、骨太な作品をコンスタントに発表。 2012年『私の叔父さん』(連城三紀彦原作)では『竜二 Forever』の高橋克典を再び主演に迎え、純愛映画として高い評価を得ます。
2016年には初めての監督&プロデュースで『貌斬り KAOKIRI~戯曲【スタニスラフスキー探偵団】より』。舞台と映画を融合させる多重構造に挑んだ野心作として話題を呼びました。