映画ファンから良作の声が高い『チェイサー』『哀しき獣』を制作した、ナ・ホンジン監督。最新作『コクソン/哭声』が現在公開中。この作品は日本人俳優の國村隼も出演していることで注目も評判の高い作品です。
『コクソン/哭声』というタイトルは「泣き叫ぶ」という意味と実在する村の名前を掛けて付けたそうです。
泣き叫ぶのは一体誰なのか?もしかして予想を越えた展開に、ご覧になるあなたかも…。
映画『コクソン/哭声』の作品情報
【公開】
2017年(韓国映画)
【脚本・監督】
ナ・ホンジン
【キャスト】
クァク・ドウォン、ファン・ジョンミン、國村隼、チョン・ウヒ
【作品概要】
『チェイサー』(2008)『哀しき獣』(2010)のナ・ホンジン監督によるサスペンスホラー。
警官ジョング役に韓国ドラマや映画の名脇役として知られる、クァク・ドウォンの初主演。日本人俳優からは國村隼が山の中の男役という謎のある男を演じ、韓国の第37回青龍映画賞で外国人俳優として初受賞となる男優助演賞と人気スター賞のダブル受賞。
映画『コクソン/哭声』のあらすじとネタバレ
長閑な田舎にある村コクソン…。しかし、異常な事件が相次いで発生すると、事件の加害者は皆一様に正気を失い、目は濁り皮膚には湿疹で爛れていました。
警察は専門家に検査依頼すると検査結果は、毒キノコの幻覚作用が原因とされました。それでも村の人たちは山の中に住見ついた日本人と思われる他所から来た者が怪しいと噂をします。
すべての異常な事件は、その男が村に来てから起こり始めたからたからです。最初は単なる噂話だと一笑していた村の警察官ジョングも、事件の謎が深まるにつれて、よそ者の存在が気になりだします。
ある日、事件現場の見張り番についた勤務の際に、ジョングの前にどこからかた若い女性が現れます。
奇妙な若い女性が自分は事件の目撃者と名乗ると事件についての詳細を語り出します。彼女はジョングに村の噂になっているよそ者は悪霊だと語り、また忽然と姿を消してしまいます。
ジョングは噂の男を調べるため、山の中で裸になって鹿肉を食べている姿を目撃したという健康食品店主を、山の中への道先案内人として頼むみます。
しかし、店主は途中で恐怖心のあまり家に帰ると言い出します。すると今まで山の天気は晴れていたのに雷に打たれて重体となってしまいます。
その後、店主が入院した病院では、事件の加害者の1人が激しい痙攣を起こして亡くなってしまいます。
おぞましい状況で亡くなった最後を見てしまった衝撃にジョングと後輩の警察官ソンボクは使命感にかられ、明日こそは、噂の男について真相を暴かなくてはいけないと決意を固めます。
そんな中、熱を出して寝込んでいたジョングの娘のヒョジンが夜中に急に苦しみだします。
「助けて。知らないおじさんが入ろうとするの」と、父親ジョングに泣きすがります。ところが、翌朝になると嫌いな料理を貪り食う娘を見てジョングは戸惑うばかりでした。
ジョングとソンボクは、教会で助祭をしているソンボクの甥のイサムを日本語通訳として伴い、山を分け入り謎の男の家へと向かいます。
謎の男は留守をしているようで飼い犬の吠える中、無断で令状なしの捜査を開始するそこに謎の男が帰宅。ジョングはイサムを通して謎の男に尋問をしましすが何も聞き出すことはできません。
映画『コクソン/哭声』の感想と評価
この映画を監督したナ・ホンジンは、作品テーマを、“混沌、混乱、疑惑”だと語っていますが、彼自身の信仰するキリスト教をモチーフにして物語の構成が組み立てられたのは、本作を観るとすぐに誰も感じられるはずです。
映画の冒頭では内容を理解するヒントになる「ルカの福音書24章の39節」の引用「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」とあり、多くのエピソードの多くは新約聖書の中からも持ち出してます。
聖書との類似点を見つけることも、『コクソン/哭声』を深く知りたいあなたには鑑賞ポイントになるかもしれません。
また、撮影現場で國村隼は、ホンジン監督から「“山の中の男”は、旧約聖書が信仰されている世界に突如現れたジーザス・クライストのイメージ」だと、演じる謎の男のイメージを共有されたそうです。
これらことを前提に今回は2つのポイントで考察していきます。
1つ目は國村隼の演じた“よそ者である謎の男”。2つ目は謎の男が手にしていたカメラをキーワードに取り上げてみましょう。
歴史上最も混乱を与え、疑惑を持たれた人物「信じること」で見え方は異なる
表題にあげた「歴史上最も混乱を与え、疑惑を持たれた人物のひとり」は、ナ・ホンジン監督が、イエスについての印象を述べた言葉です。
今作では「善と悪」のような二項対立を分けるものが「信じること」であると描かれています。
人間の心に芽生えた不安や妄想により、拡張する疑念は疑心暗鬼となって恐怖心となっていきます。
それでも「信じることはできるか」ということが、霊的存在(あるいは人間)を神にも悪霊にもなってしまうと述べていたのではないでしょうか。
映画の終盤に謎の男の住んでいた家の近くにある洞穴に、助教イサムが謎の男を探して入っていく場面があります。やはり、そこには亡くなったはずの謎の男がいました。
これも端的にイエスの復活をメタファーして観るのが誰の目にも明らかなことでしょう。
またこのシーンに現れた謎の男の手のひらには「聖痕」があるショットを見ることもできます。
聖痕はイエスが十字架に磔刑された際に、身動きができないように手に打ち込まれた釘の跡の傷の穴です。
聖痕が謎の男の手にあるということは、彼が人間の罪を引き受けた“善の存在(聖人)”であることを意味していると考えることもできます。
しかし、それまで謎の男の姿や、彼の身の回りにあった仏像や祈祷師のような呪術祭壇などが目についたように、それまではキリスト教とはかけ離れた存在として描かれていました。
ではなぜ、謎の男が洞窟いた際には、唐突にイエス・キリストの姿を見せたのかといえば、彼を追いかけてきた助教イサムがキリスト教の信徒であるからです。
助教イサムが謎の男という正体不明の存在に、見た目や状況に惑わされることなく、謎の男を“善の存在”と信じられた場合は聖人となり、また、“悪の化身”だと見れば悪霊(悪魔)に見えたのでしょう。
そのセリフが「わたしが何者か、わたしの口でいくら言ったところで、お前の考えは変わらない。お前は今もわたしが悪魔だと思ってるだろう…」といことになります。
信じること(相手を見る眼)によって相手の存在の実像は変わってしまうということです。助教イサムの恐怖心のあまり信じ抜くことができない姿勢こそが悪霊を目覚めさせてしまったと読むことはできるのです。
さらに、この部分を深読みをすれば、ナ・ホンジン監督の信仰をしているキリスト教でさえ、このような脅迫観念的な二元論的な思考では、相手を信じることに負けた恐怖心は、悪霊、悪魔、鬼神を生み出してしまうという自戒を込めたのかもしれません。
謎の男は、なぜカメラを手にするのか?
洞穴の“謎の男”は恐怖心で怯える助教イサムの姿をカメラで撮影します。それにはどのような意味が考えられるのでしょうか。
カメラとは元々が死にまつわる道具であったことはあまり認識されていませんね。
日本でも1970年代半場までは、一般的にカメラで人物を撮影する際に「魂が吸い取られる」「3人組を撮影すると中央の人物は早死に」とか、実しやかに噂や妄想のデマかしを言われていました。
その昔、海外では体の弱い子どもを早くに亡くしてした場合に、その遺体に化粧を施して、家族団欒の様子を記念写真を撮影することが流行していたそうです。
このようなことが、写真にまつわる死への噂や妄想につながり、“全ての写真は遺影である”という言葉にもつながっているのでしょう。
さて、それでは『哭声/コクソン』の中で、謎の男や祈祷師イルグァンがカメラで撮影するのは、“魂を吸い取る”ための行為と読むこともできますが、それだけでは少し安易かもしれません。
また、カメラは“真実を写す道具”だからというのも少し違っているのではないでしょうか。
カメラで撮影するとは何か。おそらくは、思い込みや偏見といった人間が見たいように人物を見てしまうという道具のメタファー(比喩)ではないでしょうか。
写真は決して現実や真実を写したものではありません。対象である現実や真実を撮影者の主観的なり、切り取り方によって加工されたものが写真と言えます。
もちろん、芸術家の手で描かれた絵画よりも主観性は低いのは事実でしょう。だからと言って写真が現実だという“信じる込む”のも危険なことだと思います。
カメラで撮影した対象である被写体を写真(画像)にすることで簡単に加工はできます。現実や真実を操作して変更することができるのが写真であり、カメラなのです。
例えば、今、あなたが手にしているスマフォの写真(画像)も同じよう、カメラ撮影した際に補正加工したりしていませんか?
現実は撮影者によって容易く変えられた真実(加工された現実)なのです。
先に述べた“謎の男”と助教イサムのやり取りのように、“人間の主観によって実像は加工されてしまう”ものです。
そのことを“謎の男”は助教イサムに最後に見せたのだと考察する方がしっくりくるように思いますが、あなたはどのように思いますか。
まとめ
この作品は、ここで示した考察がすべて正解ということではありません。
ナ・ホンジン監督は『哭声/コクソン』を観た観客を惑わせるような仕掛けを施した映画です。
冒頭で述べた監督のテーマである「混沌、混乱、疑惑」は、その様に登場人物たちを描いただけでなく、観客の視点を「混沌」にさせて、先行きの予測を「混乱」させながら、判断することに「疑惑」を持たせる体験させています。
そのことが成功したの理由は俳優たちの名演技です。韓国の名脇役であるクァク・ドウォンが痛々しいまでに奮闘する父親像を見事に演じきっりました。また、ヒット映画の主役を多く務めるファン・ジョンミンがあえて脇役を務めながら特徴的な存在感を示しています。
唯一の日本人俳優である國村隼の演じた山の中の男役の悲しい表情、困惑の表情は必見です!ホンジン監督が尊敬するというのもうなづけます。
ムミョン役のチョン・ウヒの美しさと無垢さにある喪失感も見所。しかし、何といって娘キム・ファニの子役を超えた演技の幅や泣き叫ぶ姿に観客は凍りつくはずです!
この素晴らしいキャスティングの演技調和が成功したことで、観客それぞれが多様な感想や考察をしたり、“どのよう解釈も正解である”ので観客同士で話し合う楽しみを残した作品にした要因でもあります。
もし、『哭声/コクソン』を見終えた、あなたが作品の意味が分からなくても当然だと許容してくれ作品ですよ。それも1つの正解です。
それほど、惑わされてしまう俳優たちの名演技や監督の仕掛けがあるのですから。
本作に描かれていた人間、家族、信仰など、例にあげてと分かりますが、物事を単純に答えはただ1つだと安心してしまうことではなく、的確に言葉にはできないものを慈しむことが必要だからでしょう。
何か難しい問いに監督は、エンディングに慰めを感じてもらいたいとしたのかもしれません。
ぜひ、待望のナ・ホンジン監督の最新作ミステリーを劇場でご覧ください!