人生をかけて綴った永遠の一日
ブッカー賞作家グレアム・スウィフトの小説『マザリング・サンデー』を『バハールの涙』(2019)のエバ・ユッソン監督が映画化。
第一次世界大戦後のイギリスを舞台に、名家の子息と孤独なメイドの秘密の恋の行方を描きます。
ジェーンを演じた『グッバイ、リチャード』(2018)の新星オデッサ・ヤング。15歳から40代の女性を瑞々しく体現します。
またポール役を『ゴッズ・オウン・カントリー』(2017)のジョシュ・オコナーが務め、憂いと脆さといった繊細な表現を担いました。
生涯忘れられない秘密の恋を官能的に描き、階級社会という時代の中で生き抜いた女性像をも示唆した本作の魅力をご紹介いたします。
CONTENTS
映画『帰らない日曜日』の作品情報
【日本公開】
2022年(イギリス映画)
【原作】
グレアム・スウィフト
【原題】
Mothering Sunday
【監督】
エバ・ユッソン
【脚本】
アリス・バーチ
【キャスト】
オデッサ・ヤング、ジョシュ・オコナー、ショペ・ディリス、グレンダ・ジャクソン、オリビア・コールマン、コリン・ファース
【作品概要】
ブッカー賞作家グレアム・スウィフトの小説『マザリング・サンデー』を映画化。監督は、『青い欲動』(2015)、『バハールの涙』(2019)のエバ・ユッソン。
孤児のメイド・ジェーン役は、『グッバイ、リチャード』(2018)、『スウィート・ヘル』(2017)で知られるオーストラリア出身の新星オデッサ・ヤング。
名家の跡取りポール役には、フランシス・リー監督の『ゴッズ・オウン・カントリー』(2017)で知られ、Netflix「ザ・クラウン」シリーズではチャールズ皇太子に扮し注目を集めたジョシュ・オコナーが務めました。その他にコリン・ファース、オリヴィア・コールマンら名優が共演。
映画『帰らない日曜日』あらすじとネタバレ
若い男たちが戦死する前、昔の記憶をジェーンは何度も心に想い描いていました。
ポールが話していた競走用の馬のこと。そのサラブレットの名はファンダンゴと言って、馬の頭と胴体は両親が所有して、息子3人は足を一本ずつ所有していたこと……。
「4本目の足は?」という問いへの「それが謎だったんだ、ジェーン」というポールの言葉が、ファンダンゴが芝を駆け抜けて走る姿とともに思い浮かびます。
1924年、初夏のように暖かな3月の日曜日。その日は、イギリス中のメイドが年に一度の里帰りを許される「母の日」でした。しかし、孤児院育ちのメイドのジェーンは、帰る場所がありません。
彼女が仕えるニヴン夫婦は、ホブデイ家、シェリンガム家の3家族で川辺に集う昼食会に行く予定です。
ある時、屋敷にかかってきた電話をジェーンがとると、秘密の関係を続けていた相手からの誘いでした。
ニヴン氏には、間違い電話だったと偽るジェーン。その後彼女は、ニヴン氏から「自分の裁量で好きに過ごしなさい」と言われ、小銭をもらいます。
ジェーンは「母親のところに行く」という同じメイドのミリーを自転車で駅まで送ります。汽車を待つ女たちの姿が一瞬、皆メイドの服を着ているかのように見えました。
屋敷にかかってきた電話の相手は、シュリンガム家の跡取り息子ポール。「“つがい”が出かけるから、僕一人だ」「11時に、裏じゃなく表玄関」という密会の誘いでした。
ミリーを見送ったジェーンは、シェリンガム家が暮らすアプリィ邸に自転車で向かいます。表玄関の呼び鈴を鳴らすとすぐにポールが出迎えます。彼は扉の後ろで待っていたのです。
彼が電話口で“つがい”と呼んだのは、両親のことでした。屋敷に入ると、ポールの母親が大事にしている蘭の花が目につきます。「暗い家にせめてもの華やかさを」との計らいでした。
初めて入る屋敷を見て回りたいジェーンでしたが、ポールは早々と寝室に誘うとジェーンの靴を脱がし、ゆっくりと服を脱がしていきます。
幼馴染のエマと婚約しているポールは、前祝いの昼食会に行く前でした。しかし「法律の本を猛勉強する」という口実で遅刻することを決め込んでいました。
ジェーンは、自転車で遠乗りして本でも読むと言って出かけてきました。
以前外出中に、アプリィ邸のメイドと顔を合わせたことがありました。自己紹介の挨拶をしているところをポールが通りがかり、素知らぬふりで挨拶を交わします。
今は、二人だけしかいない屋敷のベッドで誰の目も気にせず、身分の差もなく、限られた時間の中で愛し合うだけ。時計の針は11時半を指し、あと1時間後にはスワンホテルの昼食会でエマに会う約束でした。
幾度となく逢引きした時の記憶が呼び起こされます。時には、ポールがお金や本をあげたいと言ったこともありました。それに対してジェーンは、何かくれるのが嫌だと断りました。
何度も抱き合った後、ポールは小さな頃、川でピクニックをした話をします。3家族は小さな頃からよく一緒にいて、ニヴン家の戦死した息子ジェームズとエマが恋をしていたことを語りながらも、ポールは「みんなで遊んでいたかっただけ」と口にします。
初めて彼と性交した時には「痛いけど嫌じゃない」「苦痛じゃない」と伝えたジェーン。そして、そんな彼女の膝の上に頭を乗せたポール。
また、3家族がニヴン家に集い夕食会を開いた時には、メイドとして一瞬、視線を交えただけ。その夕食会の席でポールとエマの婚約を発表され、その時のジェーンにできることは、泣き崩れそうになるのを必死に隠すことだけでした。
二人きりになると「結婚は義務だ」「弁護士になることも」と言うポールに「期待に答えなきゃ」とジェーンは伝えます。
戦死したジェームズとエマが付き合っていたことを話し「君にはなんでも話せる」「皆が避けたがっている話も」とジェーンに心の内を明かします。そして「君は友だち」「心の友だ」とも言いました。
日曜日の逢引きが終わる時間が迫っていました。服を着ようとするポールをベッドから見ているジェーンは、ある妄想の話をします。「エマがもしこの屋敷にやってきて、古い自転車を目にしたら?」と。
1948年のジェーンは、当時の恋人ドナルドにその妄想の続きを話します。
違う日の逢引きの記憶からは、ポールが友人の医師から避妊用具(オランダ帽)を処置してもらい、「私の母も妊娠したメイドだったのかも」という思いがよぎります。
日曜日の午後。服を着たポールは、ジェーンに16時までは誰も戻って来ないから、好きに過ごすといいと言います。キッチンにあるパイも食べていいし、片づけもしなくていいと言うと、「何一つ、説明はいらない」「さようなら、ジェーン」と部屋を後にしました。
ドナルドと住む家でジェーンは、何度も頭に浮かぶ記憶を確かめようとしています。頭に浮かぶのは「小魚?クジラ?」と聞いてきたドナルドに「その中間」と答えます。
映画『帰らない日曜日』の感想と評価
官能的に魅せる裸という「本質」
本作の舞台である第一次世界大戦後のイギリスは、人々が感情を表に出せない時代でもありました。戦死した親族のことに口を閉ざし、階級というものが日常生活について回ります。
メイドのジェーンと名家の跡取り息子ポールの秘密の恋は、一層身分の違いを際立たせました。二人は外出先で他人行儀な挨拶を交わし、夕食会の席では視線を一瞬交えるだけです。
二人で会う時は、人目を忍んで情事を重ねます。けれども、母の日の日曜日だけは、屋敷の裏からでもなく、表の玄関から呼び鈴を鳴らして会いに行きました。
ポールの部屋での二人は、一糸まとわぬ姿で語り合います。そこには階級のしがらみもなく、ただ愛し合う男女として過ごせたのです。
二人が裸で会話をする場面において、「服を脱ぎ捨てた姿」としての裸は「取り除かれた階級」のメタファーであり、対等な関係を意味しているのでしょう。
また、ポールが背負う家柄からの解放をも意味しているかのようでした。ポールがジェーンのことを「心の友」と言ったことにも、包み隠さない関係であったことが見て取れます。
そして、ニヴン夫婦や三家族で集まった時の会話は、皆一様に腹の内を見せず、憂鬱さを漂わせていました。唯一、ニヴン夫人だけが感情を露わにする場面がありますが、かえってその人間味が沈黙を守る周囲の人たちへの違和感を強め、ジェーンとポールが裸で語り合う関係に親密性を持たせます。
さらに、ジェーンが屋敷の中を裸のままで歩き回る場面は、ジェーンという人間性の本質を体現しているかのようでした。
とくに書斎の椅子に堂々と腰かけて煙草をふかすジェーンの姿には、囚われない好奇心が垣間見れる印象深い場面です。
書き手の世界観で魅せる
のちに小説家となったジェーンは、何度も何度も心に浮かぶ記憶の断片を辿っていきます。それは、ポールとの出来事の輪郭をなぞるように何度も記憶を呼び起こしては、描写していく作業のようです。
物語自体は「小説家となったジェーンがかつての記憶を振り返る」という設定ですが、映画は「メイドとして仕えポールと恋をした時」「ドナルドという恋人ができ執筆をする時」、そして「著名な小説家となった老年期」の三つの時系列を明白に分けて映し出しません。ジェーンの容姿などでいつの時代の映像なのかは無論把握できますが、三つの時代が同じ時間の中で流れているかのように映し出されます。
それは本作が、記憶の旅を巡っているのではなく、時間を超越した書き手の目で捉えた世界を映し出そうとしたからではないでしょうか。
随所に散りばめられたショットにも、意図的な表現を感じます。例えば、事故現場を詳細に映すことはせず、俯瞰のロングショットで森林から白い煙が立つショットで捉えます。
さらに、メイドのミリ―を駅まで送ると汽車を待つ女性たちが色とりどりのメイド服を着ているショットやポールが出ていった後に裸のポールが鏡に映り込むショット、ドナルドが転ぶ寸前に頭上を見下ろすフクロウのショットなど、原作の文学的な比喩の表現を映像化したといえるでしょう。
ジェーンは何を手に入れようとしたのか?
ポールが亡くなった後、ニヴン夫人から言われた「生まれた時に奪われていた」という印象的なセリフ。それは、失意の底に落とされたジェーンにとって、「失うものは何もない」「これから手に入れていくだけ」と新たな未来をもたらしました。
彼女は誰かに明かすことも許されないまま奪われたポールとの関係を「悲恋」として終わらせるのでなく、「起こったすべての事象を書く」という行為によって、受容しようとしたのではないでしょうか。
出来事の中で交わされた会話の一語一句、関わった人の一挙一動の中に秘められている意味を探るように。
だからこそジェーンは、ラストで「素晴らしい日々」と言い表したように、人生の一喜一憂を尊いものとして受け入れられたのでしょう。
その言葉は、小説家としての名声でもなく、自分が歩んできて交わった人たちをも肯定するかのようです。そして、起こった悲劇や不運を嘆き悲しむ代わりに、自分で自分の人生を手に入れたジェーンという女性の意思の強さが浮き彫りになりました。
それは、老年のジェーンの小説に対する「書くしかなかったの」という言葉で締めくくられた結末に集約されています。
まとめ
劇中では何度か、ファンダンゴという名の馬が駆け抜ける映像が挿入されます。それはポールの幼い頃の記憶でした。
冒頭では、「馬の頭と胴体は両親が所有して、息子3人は足を一本ずつ所有していた」と語られた後、「4本目の足は?」「それが謎だったんだ、ジェーン」という意味深なセリフのやりとりから始まります。
そして結末では、ジェーンが実際にファンダンゴが駆け抜ける姿を見ているかのように「4本目の足は、私のだったのよ、ポール」と語りかけました。
六月のさわやかな新緑の中で芝を蹴り上げて走るファンダンゴの姿をポールから聞いてから、ジェーンは何度も想い描いたのでしょう。ポールが「記憶を呼び出し、それを描写して自分のものにする」「そして、言葉で再現する」というセリフからも読み取れます。
ジェーンは書くことで、時間や場所を超越したものとして捉えようとしたのでしょう。体験したことに固着するのではなく、“観察”して書き起こすことで、より本質に迫ろうとしたのかもしれません。
ドナルドがジェーンのことを“職業的観察者”と称したように、ジェーンにとっての小説とはまさに“観察”することから始まったのです。
生涯忘れられない日曜日を軸に展開する物語は、珠玉のラブストーリーとして心に刻まれることでしょう。