同性愛の許されない時代に生き、自身の尊厳のために闘った詩人と青年の物語
映画『蟻の王』は、『ナポリの隣人』(2019)、『家の鍵』(2006)のジャンニ・アメリオが、「ブライバンティ事件」の実話をもとに、同性愛の許されない時代に尊厳のために闘った詩人と青年の姿を描き出しました。
“わが国に同性愛者はいない、ゆえに法律もない――”
1960年代、イタリア。
蟻の生態研究学者であり、詩人・劇作家のアルド・ブライバンティが主催する芸術サークルには多くの学生が参加していました。
サークルで学んでいる兄についてやってきた青年・エットレはメスの蟻を見つけたことでアルドに気に入られ、博識なアルドにエットレものめりこんでいきます。
いつしか2人は惹かれ合いローマに出て2人で生活を始めますが、エットレの家族によって引き離され、エットレは矯正施設に入れられてしまいます。
一方、アルドは教唆罪で捕らえられ……。
『輝ける青春』(2005)のルイジ・ロ・カーショがアルド役を演じ、エットレ役には本作でスクリーンデビューを果たしたレオナルド・マルテーゼが務めました。
映画『蟻の王』の作品情報
【日本公開】
2023年(イタリア映画)
【原題】
Il signore delle formiche
【監督】
ジャンニ・アメリオ
【脚本】
ジャンニ・アメリオ、エドアルド・ペティ、フェデリコ・ファバ
【キャスト】
ルイジ・ロ・カーショ、エリオ・ジェルマーノ、レオナルド・マルテーゼ、サラ・セラヨッコ
【作品概要】
死刑反対のため孤独な闘いを繰り広げる裁判官を描いた『宣告』(1996)や、15年の時を経て障害のある息子に対面した父親の内面を描いた『家の鍵』(2006)、母の死がきっかけで疎遠になってしまった父と娘が隣人家族の事件により関係を見つめなおしていく『ナポリの隣人』(2019)など、社会派のヒューマンドラマを手掛けてきたジャンニ・アメリオ監督。
本作では、実在の劇作家・詩人であり、蟻の生態研究者であるの「ブライバンティ事件」を映画化。同性愛者が許されず、矯正施設にいれられてしまう現実を浮き彫りにしました。さらに「ブライバンティ事件」は、イタリアで唯一教唆罪が適用された事件でした。
映画『蟻の王』のあらすじとネタバレ
1959年、イタリア・エミリア=ロマーニャ州ピアチェンツァ。
詩人で劇作家、そして蟻の生態研究者でもあるアルド・ブライバンティ(ルイジ・ロ・カーショ)は、芸術サークルを主催していました。そこには多くの若者が訪れていました。
ある日、兄に連れられやってきたエットレ(レオナルド・マルテーゼ)は、羽のとれたメスの蟻を見つけアルドと話をします。
エットレは、美術の道に進みたいと思っているのですが、親の希望で医学を学んでいるとアルドに話します。するとアルドは「親に従う必要はない、産んでくれただけで十分だ」と言います。
両親や学校では学ばなかったことを教えてくれるアルドにエットレは夢中になっていきます。しかし、アルドの教育方針に反発を抱いていたエットレの兄はよく思わず、「もうあそこに行くな」と言いますが、エットレは耳を貸そうとはしませんでした。
アルドが同性愛者であることは村の皆は知っており、兄はエットレがアルドの策略でもてあそばれているだけだと思っています。エットレと家族の関係は悪くなり、エットレは親と一方的に絶縁してアルドとローマで暮らすことになります。
2人で美術館を訪れていると、アルドは旧友と再会しパーティに誘われます。あまり気乗りしない様子でしたがアルドはエットレを連れてパーティに行くことに。
初めて同性愛者のパーティに参加したエットレはその雰囲気に圧倒され、アルドが旧友と挨拶をしている間に先に会場を出てしまいます。旧友はアルドとエットレの間に肉体関係がないことに驚いた様子でしたが、「惚れているのね」とアルドに言います。
アルドは挨拶を終え会場に戻るとエットレの姿はなく、慌てて探しに出たアルドはエットレを見つけると「せめて一言言って出て行ってくれ」と声を荒げてしまいます。
落ち着きを取り戻したアルドは「仲間がいるから安心して自分をさらけ出して羽目を外せるんだ。私は彼らと違う。だが同じでもある」とエットレに言います。
そんな2人の生活は突如終わりを告げます。エットレの母親と兄が朝2人の眠っている部屋に押しかけ、無理やりエットレを連行し、矯正施設で治療を受けさせます。
エットレは幾度となく電気ショックを与えられ人が変わったようになってしまいます。
一方、アルドは個人を唆し、従属させたとして“教唆罪”で逮捕されてしまいます。
映画『蟻の王』の感想と評価
アルドが貫く自尊心とは?
60年代、同性愛者を許さない認めない社会の様子を浮き彫りにした本作が浮き彫りにしているのは、現代においても変わらない社会の様子だと言えます。
多くの人は彼らを“異なる”存在として排除している一方で、同性愛者の存在は認めようとしません。変態によって唆され従っただけで、両者の間に愛はない、同性同士が恋人になることは認められないのです。
証人と検事によって仕立て上げられたアルドの“罪”を疑う存在は新聞記者のエンニオのみで、多くの人々は罪を仕立て上げられアルドが有罪になろうが、関係ないのです。
このような無関心さが一人の人間の尊厳を奪っていることに人々は無自覚です。そのような姿勢は現代においても変わっていないのではないでしょうか。
昨今トランスジェンダーをめぐる問題などにおいても、明確な調査があるわけでもない憶測であってもマジョリティ側が言えばそれは真実味のある脅威になりえてしまう、その恐ろしさに多くの人々は無自覚でいるのではないでしょうか。
アルドが最後まで貫き通そうとした自尊心は、本来守られるべきもので、簡単に怪物に仕立て上げられてしまうことの方が異常であるのに、その異常さがまかり通ってしまっているのです。
その残酷さは、冒頭、指に止まった蟻をエンニオが息を吹きかけて吹き飛ばす場面にも重なります。アルドは、「蟻は一匹でいると迷子になってしまうから何もないところでも群れをなす」とエットレに説明している場面があります。
本作において孤独な迷子の蟻、吹き飛ばされる蟻として存在するのはまさしくアルドとその母親です。
二組の母と子
母親がアルドからの手紙を読みながら家に向かうと、家には“おかまの家”と落書きされていて、アルドの母親は驚きよろめきながら歩いて、その場にへたりと座り込みます。その姿は、孤独で寄り添い合う存在を見失っているかのようです。
しかし、その一方でアルドと母親は心の繋がりがしっかりあることを感じさせる場面もあります。裁判が始まる前に2人はアイコンタクトをとり、時にしっかりと抱き合います。
その対比として描かれているのが、エットレとその母親でしょう。エットレは母親と兄によってアルドから引き離され、治療のため矯正施設に入れられたことにより、決定的に2人と断絶してしまいます。
裁判の証人として現れたエットレに母親は不安げに視線を送りますが、その視線が合うことはありません。エットレは家族のもとに戻されてもともに住むことはもはやできませんでした。
さらに印象的な存在が新聞記者のエンニオです。エンニオはかつては無関心なマジョリティの一人でした。
しかし、アルドの事件を知り、この事件はおかしいとアクションを起こそうとします。エンニオに利害関係は関係ありません。ただ、おかしいことをおかしいと言う、当たり前のことを行動に起こす存在で、そうすること難しさを体現します。
その背景には自分がマイノリティになることの恐怖にも起因しているかもしれません。どんなに正しいと思って声をあげてもマジョリティの意見が正義となり相手にされないくやしさ、恐ろしさは現代においても変わってはいません。
それでも諦めずに行動し続けること。その大変さもエンニオが体現しています。さらにアルドも「皆の応援がかえって足かせになってしまう」と言っている場面もありました。
同調圧力を前に屈しそうになりながらも尊厳のため闘い続ける姿に勇気をもらえる人もいるでしょう。一人でも何かアクションを起こすことの大切さが未来へと続く懸け橋になるのです。
まとめ
冒頭、アルドのもとから引き離され強制的に入院させられたエットレ。エットレは家族によって自身の尊厳を奪われた存在だといえます。
幾たびも行われた電気ショックの爪痕はエットレに癒えない傷を与えたに違いありません。そのようなおぞましい矯正施設の様子は、『ある少年の告白』(2019)にも描かれていました。
また、同性愛者を認めていない国は現在においても存在します。その現状を描いた映画が『シャイニー・シュリンプス!世界に羽ばたけ』(2022)でした。ロシアにおける同性愛者へのヘイト、身の危険を感じながらも活動している人々の姿を描きました。
さらに本作は、同性愛者の問題だけでなく女性への差別に関しても描いています。60年代は女性の社会進出が推進され始めましたが、依然として女性の社会的地位は低い時代だったでしょう。
新聞社の上司がこれ以上優秀な女性は必要ないと言っていたり、アルドの支援を呼びかけるデモ運動を展開しているエンニオの従妹に対して女がデモでいうべき内容ではないと言われたりしています。
このように声を上げ続けた人々がいたからこそ変わってきたものがあり、それでも変わっていない現状もあります。
私たちが出来ることはまさに声をあげること、自尊心を奪わせないということなのではないでしょうか。