『行き止まりのむこう側』は2022年3月11日(金)から2022年5月10日(火)まで、日本・イスラエルにて公式サイト内で特別無料公開!
イスラエルが贈る「東北イニシアティブ」短編映画プロジェクトとして製作されたドキュメンタリー映画『行き止まりのむこう側』。
2011年の大津波で行方不明となった最愛の妻を見つけ出すため、現在まで海でのダイビングを続けている高松康雄さんの姿を中心に、自然の中にある人間の魂の並外れた回復力を見つめていった作品です。
このたび『行き止まりのむこう側』が2022年3月11日(金)から5月10日(火)まで、日本・イスラエルにて映画公式サイト内で特別無料公開されるのを記念し、白井エリック監督とともに本作を手がけた津村将子監督へのインタビューを行いました。
高松さんと出会った経緯や、本作を通じて描き出そうとした人間と自然の見えざる関係性。そして映画のタイトルでもある、高松さんがたどり着くことができた「行き止まりのむこう側」とは何かなどを語っていただきました。
CONTENTS
高松康雄さんとの出会い
──本作でスポットライトが当てられた高松康雄さんとの出会いについてお聞かせください。
津村将子監督(以下、津村):石巻のフタバインの食堂で、本作でともに監督を務めた白井エリックからニューヨークタイムズのとある記事を見せられたことがきっかけです。その後、女川のダイビングショップ「ハイブリッジ」の代表である高橋正祥さんを通じて、高松さんとお会いする機会を作っていただきました。
私たちはそのころ、のちに『Umi』となった長編劇映画制作の企画に向けて「描きたいストーリー」を探すため、とにかく沢山の人の話を聞こうと、現地へ赴いて調査を続けてました。私たちはもともとドキュメンタリーの作家なので、実際に人と会って、話を聞かないとストーリーのインスピレーションなどが湧いてこない。そのため、まずは高松さんにお会いしようと。
高松さんは物静かな方で、当初は震災や奥様の話を直接聞くことはできませんでした。それでもダイビングの話や海の話をしながら、何度かお会いするごとに、『Umi』を高松さんの経験をもとに脚本を書くことに承諾をいただき、2020年11月にイスラエル大使館の後援で、本作を撮る許可をいただきました。
2021年3月11日の公開に間に合わせようと必死に制作を進めましたが、緊急事態宣言の影響で公開が1年延びてしまいまして……また実際の撮影に際しても、絶対行いたいと思っていた水中撮影のコーディネートも困難なものでした。女川の冬は海がとても荒れるため、撮影可能な時間帯も限られている。リスクのある撮影となることは明らかだったからこそ、ベテランの水中撮影監督である千々松政昭さんに今回はお願いしました。
津村監督にとっての震災の記憶
──津村監督にとっての東日本大震災の記憶をお教えいただけますでしょうか。
津村:私にとって、震災前の東北は「旅行で訪れたことがある」という程度の印象しかありませんでした。
ですが2011年の夏、日蓮宗のお坊さんと被災地で泥かきをするボランティアへ参加した際に訪れた石巻そして女川は、今でも強く記憶に残っています。あの時に見た景色や匂いは本当に強烈で、2018年に『Umi』の企画のために現地を再び訪れた時は、その変わり様に驚かされました。自分たちが訪れたあの日から、もの凄い勢いで街が作られていったのだと分かったんです。
「復興」という言葉には、複雑なレイヤーがあります。現地の人たちからすれば安易に使われていい言葉ではないと思います。ただ2018年に訪れた際に私が見た景色は、2011年の夏に目にした、なぎ倒されたお墓や走れない道路といった凄まじい風景とは違っていた。再建しようと奮闘した7年を形として実感しました。
ある日、取材帰りの夕方にエリックと話をしていたら、ちょうど港に帰ってくる夕日に照らされた船が見えてきて、女川町に住む人々の風景が思い浮かび、映画になると思いました。
またその日は、海鮮加工会社の社長のお話を取材していました。奥さんを亡くされ、ひとりで会社を牽引していかなくてはならなくなったこと。震災がきっかけで母国へ帰ってしまったベトナム人の従業員たちが、再び戻ってきてくれたことなどをお聴きし、女川の風景、時間軸、そこで暮らしを営む人々の物語を描きたくなったんです。
「見えないがそこに在る関係性」を伝えるものたち
──本作では岩手県・宮城県といった東北地方の伝統舞踊「鹿子踊(ししおどり)」も重要なモチーフとして描かれています。
津村:東北の沿岸全体で様々な型や流派があり、震災後に「次世代に伝承しよう」という動きが活発になっていました。大船渡と石巻での調査中、写真やアルバム、海の中で見つかったモノを修復し元の持ち主に戻す活動をされている方のお話をコミュニティセンターで聞いていた時に写真を見て、知ったんです。
もともと、神道で見られる日本特有の祈りのあり方、自然と人間の関係性といったもの映像に映し出したいと思っていました。25年ほどニューヨークに住んでいても、日本のそうしたものを美しいと感じ続けていたんです。
現在も高松さんは、奥さんを奪った海に毎週のように潜り、彼女を探し続けています。それほどまでに継続できるヴィジョンは、なかなか持てるものじゃない。携帯電話に残されていたメッセージを見て「行かなきゃ」と突き動かされたと高松さんは語っていますが、世界中を探してもそこまでできる人はいないでしょう。高松さんの純粋な心が伝わってきたんです。
目に見えない畏怖の対象である「自然」としての海が広がっている。見えないけれど確かに存在する二者の関係性を映像として描く試みの一つとして、鹿を脚本に取り入れました。
今では鹿は害獣扱いされていますが、もともと日本では人間と神をつなぐメッセンジャーの役割がありました。どう観られるかにもよりますが、ある場面に登場する鹿の目線は、高松さんを見守る奥さんの眼差しでもあります。
言葉よりも先行する感覚、直感的に抱く畏怖の念。そして、小さい自分と大きな宇宙との関係性を感じたことを、私たちは映像にしようとしているのだと思います。
生きる意味への答えのヒントを自然に見出す
──『行き止まりの向こう側』は東日本大震災のみならず、不条理な出来事に直面した全ての人々の心とつながっている映画だと感じられました。
津村:映画の水中撮影中にも、大きい地震(※1)がありました。その時も高松さんにお会いしていたんですが、ふと「それでも、ここに住み続けるとはどういうことなんだろう?」とお聞きしたんです。高松さんは「だって、他に住むとこないしね」と笑い飛ばしていました。
3.11を経験して、この場所を離れたいと思った人はもう出ていっています。今住んでいる人々は、そこで生きていくという覚悟を抱いているんです。
海外のプロデューサーに現在準備中の長編劇映画『Umi』の企画を持っていくと「10年も経って、この映画を観る人いるの?」と単刀直入に質問されることもあります。ですが私たちからすると、もう「『震災』や『津波』についての映画を撮っている」という感覚はないんです。
自然災害に限らず、人類は、パンデミックや戦争など、個人が制御できないことと直面しています。だからこそ、それに対して恐怖を覚えながらも、生きることとの意味など、答えのない問いへのヒントを自然に見出すことの尊さを感じます。
人間が共感するのは、愛する人を失った時の哀しみや、そこからどのように生きるのか、ということだと思います。本作は3.11から10年経った2021年に制作した映画ですが、普遍的なテーマを描いており、日本だけでなく世界中の人に観てもらいたいと感じてます。
※1:「大きな地震」……2021年2月13日午後11時7分頃、福島県沖を震源として発生したマグニチュード7.3の地震。宮城県と福島県で最大震度6強を観測した。
海に「参る」ことで、行き止まりのむこう側へ
──高松さんにとってダイビングとは、行方不明となった奥様を見つけ出す行為であると同時に、自然の一部である海と自己の関わりを再認識する行為なのかもしれません。
津村:高松さんのダイビング指導をされていた「ハイブリッジ」の高橋さんは、以前「最初は高松さん、全然笑わなかったんだよ」とおっしゃっていました。ただ何年も続けるうちにダイビングがライフワークになり、仲間も増えて、高松さん自身がだんだんと変わっていったそうです。
ダイビングがきっかけで前向きになるとは、高松さん自身考えてもなかったと思うんです。自分のやっていることが特別なことだとは思っていなくて、ましてや世界中の人々が興味を抱くなんてことも想像していなかったはずです。
辛くても、生きているとフッと押し出されるところ。私たちはそれを、映画のタイトルにもなった「行き止まりのむこう側」と捉えました。そのことを思うと、高松さんの行為は「海に潜る」というよりも「海に参る」という感覚なのかもしれないですね。
映画作りというプロセスで変化し続けてゆく自分
──津村監督にとって、映画を作る行為とはいったい何でしょうか。
津村:最近になって「映画を通して何を伝えたいか」を言語化できるようになりました。インディペンデントでの映画作りは資金調達などの業務に疲れ、どうしても企画当初の目的を見失いそうになります。だからこそ「作りたい」という初期衝動は、常に覚えていないといけないことなんです。
子供のころ、「人間って愛おしいけど、汚いしやるせない」「でも、やっぱり美しい」と人のありのままを描いている映画に心動かされたことがありました。そして観た後も長く心の中で残り続けるような、人の心を動かすような映画が作りたいと思うようになりました。ただコロナ禍の生活で、映画作りへの思いを含む様々なことに対する考え方が変わったような気がします。
自分にとって映画とは作品そのものだけではなく、それを作るプロセスにこそ全てがあります。自分の成長、そこで知り合った人とのつながりを通じて、自分という人間が絶え間なく変化していく。そのプロセスを感じ尽くし、表現することを経験するために作り、それを人と共有するために、映画を作り続けているような気がします。
インタビュー/タキザワレオ
津村将子監督プロフィール
約20年前に夢を追って東京からニューヨークに移住。2003年に「Imakoko Media, Inc.」を東京とニューヨークに設立し、インディペンデント映画製作を開始。
写真家・荒木経惟のドキュメンタリー『アラキメンタリ』(2004)を編集、ホノルル映画祭でベスト編集賞、ブルックリン映画祭で観客賞を受賞。その後、33年間の拷問と投獄を生き抜いたチベット僧・パルデン・ギャツォの長編ドキュメンタリー映画を監督・プロデュースし、2008年にトライベッカ映画祭、IDFA、釜山映画祭など世界中の映画祭で公式上映後、ミラダス映画祭(スペイン)で審査員特別賞を受賞。2010年には日本全国のアートシアターでも劇場公開された。
プロデュースしたドキュメンタリー映画『The Birth of Saké』(2015)はパームスプリング映画祭でベストドキュメンタリー映画賞を受賞したほか、アメリカの権威あるPBSチャンネルのPOVプログラムで放映され、世界中で数々の賞を受賞した。
映画『行き止まりのむこう側』の作品情報
【日本公開】
2022年3月11日〜5月10日(日本・イスラエル合作映画)
【監督】
津村将子、白井エリック
【音楽】
シャイ・マエストロ
【出演】
高松康雄、千葉修司(宮司)、小野寺翔、佐藤裕、小林岬太郎(鹿子躍)
【作品概要】
2011年東日本大震災で最愛の妻を喪い、今も探し続ける高松康雄さんの言葉で語られるドキュメンタリー。
東日本大震災が起きた際に駐日イスラエル大使館がいち早く南三陸を支援したという経緯から、大使館の全面的なサポートのもと、ドキュメンタリー映画『The Birth of Saké』(2015)などを製作し、日本とアメリカの2拠点で映画製作活動を行っている津村将子と白井エリックによって監督・製作された。
本作は2022年3月11日(金)から2022年5月10日(火)まで、日本・イスラエルにて公式サイト内で特別無料公開。
映画『行き止まりのむこう側』のあらすじ
2011年の大津波で最愛の妻を失った高松康雄さんは、妻を奪ったその海で、真っ向から喪失と向き合った。
「行き止まりのむこう側」は、自然の中にある人間の魂の並外れた回復力を見つめていく。
イスラエル・テルアビブ東日本大震災追悼イベントリポート
イスラエルが贈る「東北イニシアティブ」短編映画プロジェクトとして、イスラエル大使館のサポートで製作されたドキュメンタリー映画『行き止まりのむこう側』。
このたび本作が2022年3月11日(金)から5月10日(火)まで、日本・イスラエルにて映画公式サイト内で特別無料公開されることを記念し、公開開始日の3月11日にはイスラエル・テルアビブにて東日本大震災追悼イベントが開催。イベントにはイスラエル在住の日本・イスラエルに関わる企業関係者、イスラエル日本友好協会、学術関係者、文化人ら約50名が参加し、日本の哀しみに寄り添い追悼の意を表しながら行われました。
イベントでは本作が上映され、駐日イスラエル大使ギラッド・コーヘンによるビデオ録画の挨拶に始まり、本作を手がけた津村将子監督・白井エリック監督や映画に出演した高松康雄さん、前イスラエル大使館文化・科学技術担当でプロデューサーのアリエ・ロゼン、本作に引用された詩の作家ダヴィッド・グロスマンがオンライン上で参加。
そしてシャイ・マエストロが本作のために作曲した「nowhere to go but everywhere」を塚本シュビロ真由とともに演奏しました。
タキザワレオのプロフィール
2000年生まれ、東京都出身。大学にてスペイン文学を専攻中。中学時代に新文芸坐・岩波ホールへ足を運んだのを機に、古今東西の映画に興味を抱き始め、鑑賞記録を日記へ綴るように。
好きなジャンルはホラー・サスペンス・犯罪映画など。過去から現在に至るまで、映画とそこで描かれる様々な価値観への再考をライフワークとして活動している。