映画『子どもたちをよろしく』は2020年2月29日(土)よりユーロスペース、横浜シネマ・ジャック&ベティほか全国順次公開
貧困、いじめ、虐待、自殺など、子どもたちを取り巻く過酷な環境に焦点を当てた人間ドラマ『子どもたちをよろしく』がいよいよ公開を迎えます。
公開に先立ち、本作の企画者であり、かつて文部科学省で長きにわたって日本の子どもたちの現実を見つめ続けてきた寺脇研さんと前川喜平さんにインタビューを行いました。
1980年から本格的に教育行政・教育課題に直面し、より良い社会への実現に向けて模索してきたお二人が、フィクションという形態を通じて、子どもたちを取り巻く社会を描き、なんとしてでも伝えたかった想いとは何か。お話を伺いました。
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「いじめをなくす」ではなく
寺脇研さん
──映画『子どもたちをよろしく』は、ある地方都市で暮らす中学生の「いじめ」問題を中心に物語が描かれています。教育という場において把握し切れないほどに起こり続けているその問題について、お二人の考えを改めてお聞かせください。
寺脇研(以下、寺脇):私が福岡県で義務教育課長を務めていた1986年、東京都のある中学校でいじめ自殺事件が起こり、「いじめ」が社会問題として取り上げられるようになりました。
当時の私は、職務に対する責任としても一個人としても「いじめを原因にした自殺事件が起きてはならない」と強く感じましたが、その一方で事件を「非常に特殊なケース」とも捉えていたのも事実です。特にその頃の中学校では、いじめよりも校内暴力などによる「荒れ」が全国的な問題として広まっていたため、まずはそちらの課題を解決しなければならない状況にあったのです。
それから10年後、私が広島県の教育長に就いた頃に、愛知県で中学生のいじめ自殺事件が起きました。この事件は過激な報道の影響もあり、結果的に同様の事件が全国で連鎖的に発生・拡大していく現象を生み出しました。その結果、いじめによる自殺という問題は決して「非常に特殊なケース」などではなく日常のどこにでも起こりうるものとして認識されるようになりました。
そして私も、1980年代から90年代にかけて段階的に生じたいじめ自殺事件を受けて、教育に携わる自分自身の課題としていじめ問題に向き合うようになったんです。
前川喜平さん
寺脇:「いじめはなくさなくてはいけない」「だが、いじめを根絶することは無理だ」というのが私の持論であり、貧困という問題においても同様のことが言えます。それは非常に残酷な意見ではありますが、これまでの仕事や経験の中で私が実感したことに基づく意見でもあります。
特に、中学生は多感な時期です。精神的衝突やそれに伴う心の傷は生じることはどうしても避けられません。そしてその経験が、子どもたちのその後の人生に、大なり小なり影響を与えていく。トラウマを抱えてながら生きていくことを強いられるのです。
だからこそ、いじめや貧困を完全に食い止めることにエネルギーを消費するのではなく、避けられないそれらの問題が実際に起きたとき、当事者である子どもたちや家族のその後の人生に、できる限り影響を与えないようにするにはどうすればいいのかを考えるべきだと私は思うのです。
前川喜平(以下、前川):私は、文部科学省在職時代、直接いじめや自殺に関わるポストにいたわけではありませんが、教育行政の中でも初等中等教育を担当していたため、以前からいじめ事件に対して課題意識を持っていました。
寺脇さんが仰る通り、「いじめをなくす」ということ自体は不可能だったとしても、「いじめが起こりにくい学校を作る」ということは可能なはずです。そのためにも、「最悪の事態を回避するにはどうすればいいのか」という実践的な方策を常に考え続けてきました。
たとえば、いじめの被害者側に立たされた子どもたちのすぐそばに、せめて学校や家庭という場所以外に存在するセーフティネット、「ああ、自分はここにいてもいいんだ」と思える場所があれば、自己否定の極致と言える「自ら命を絶つ」という最悪の事態は避けられるのではないかと思うのです。
自己責任社会がもたらす孤立
──本作では、ギャンブル依存症の父親と暮らす洋一がいじめを受けているわけですが、彼は学校や家だけでなく、地域社会でも孤立していることが、ひとりでキャッチボールする場面などでさりげなく描かれていました。
前川:いじめられていた洋一は、夕方外に出て近所の壁に向かってひとりでキャッチボールをしている。それに声をかける人間はだれもいない。彼には家庭だけでなく、地域にも学校にも居場所がありません。直接描かれてはいませんが、学校にも居場所がなかった。父親が学校に電話をする場面で「先生」らしき存在が登場しますが、先生もまた彼にとって信頼できる人間ではない。
やはり、どこかに居場所があればと思います。そして、学校という場所が多くの子どもたちにとっての居場所になってほしいという希望も抱いています。たとえ家庭で苦しい思いをしていても、学校に行ったら、話を聞いてくれる先生がいる、信頼できる人間がいる。洋一にとって学校がそんな存在だったら、救いになったのではないかと。
──しかし本作では学校をはじめ、養護施設、警察、役所などの公的施設が意図的に描かれていないように見受けられました。その点についてはいかがでしょうか。
寺脇:何か特別な意図を持って、学校や公的な存在を排除したわけではありません。ただ、いじめや自殺事件が起こると、どうしてもその原因が学校にあるはずだと考えがちです。実際、多くの要因を学校という場所から指摘することは可能ですが、そのすべてが学校にあるわけではありません。いじめや自殺の問題は、それほど単純なものではないですから。
学校でのいじめを描いた作品は、我々はもうこれまでに嫌と言うほど見せられている。逆に学校を登場させることなくいじめの実態を描いている作品は、非常に数が限られているのです。これまで一面的に捉えられてきたいじめという問題を、視点の転換によって多面的に捉え直す。そうすることで、学校という場所以外で生じ続けている日本社会の様々な問題が浮かび上がってくる。一つの問題を取り巻く諸問題の点在を再認識してもらうことが、もっとも大切だと思うんです。
寺脇:「いつも通り起床し、学校に登校する」「教室に入ってみると、自分の机の上に『死ね』と書かれている」……そういった事件はあくまで、表面的なものでしかない。いじめというものは、そんなにわかりやすい世界ではないんです。学内における子どもたちの関係性についても、親世代での関係性、地域での関係性が深く関わっていることが多々あります。そもそも家庭や社会という場所を切り離して、いじめという問題を語ることは絶対にできませんから。
社会は「自己責任」という言葉を振りかざし、人々を絶えず切り捨ててゆく。そういった日本社会にある「歪み」が、大人たちを通じて家庭内へと押し寄せてくる。そして結果的に、家庭の中で1番弱い子どもたちにしわ寄せがくるのです。稔の父親はアルコール依存症、洋一の父親はギャンブル依存症に陥っている。ですが依存症そのものを、法律で罰することも責めることもできません。彼らははただ「歪み」に冒された弱い人間なのです。
現代の日本は、弱い人間を助けないことで成立している社会です。それはある種の社会規範となりつつあり、大人同士も他者を助けることに煩わしさを感じ、「自己責任」の一言で片付けてしまうという状況にあります。いじめという問題は、社会全体によって生み出されている。その事実を無視し、問題解決のために学校というスケープゴートに依存する人々にこそ、「それでいいんですか?」と問いたいのです。
前川:日本国内へのカジノ誘致問題に対して「ギャンブル依存症の人間が急増したらどう責任を取るのか」と反対する方々がいらっしゃいますね。私もそう思いますが、そもそも私たちが目を逸らしているだけで、実際には大勢の方々がギャンブル依存症に陥っている。
ギャンブル依存症もアルコール依存症も罪などではなく、あくまで治療が必要な病気です。それを社会が放置し続け、治療の受けやすい環境を整備するといったサポートをしないがゆえに、人々はやがて暴力という取り返しのつかない行為へと走ってゆくのです。
それぞれが社会における個人としてより良く生きようとしていたけれども、何かをきっかけに失敗し、社会に助けられることなく転落し続ける。それが子どもたちにも致命的と言える影響を与えてゆく。その背景には、生きづらい社会が存在します。もし「社会に生きる個人を一人一人尊重する」という発想が活かされていたら、ここまで個人が追い詰められることはなかったかもしれない。そこには、政治の責任も確かにあるのです。
──現代社会のしわ寄せが、家庭内の最も弱い立場の子どもたちに覆い被さってくる。それを拒絶するために、劇中の稔はナイフを隠し持っているのですね。
寺脇:稔がナイフを忍ばせているのはだれかを傷つけるためではなく、父親から、社会から自分の身を守るためにそうしているのです。
今から20年ほど前、栃木県で中学校の女性教諭が生徒に刺殺されるという痛ましい事件がありました。その中学生は何かのやりとりの中でカッとなり、たまたま持っていたバタフライナイフで先生を刺してしまった。ナイフを持っていたがゆえに悲劇は起きてしまったんです。
当時、その事件は大きく取り沙汰されました。調査によって多くの中学生がバタフライナイフを所持していることが明らかになり、ついにはナイフの販売禁止という事態を招いてしまった。ただ、それはあまりにも問題を履き違えている。ナイフが悪いのではなく、中学生がナイフを隠し持たなくては心の安らぎを得られないという状況にこそ、問題の根幹がある。私はそのことを作品の中で表現したかったのです。
大人たちに、子どもたちに伝える「よろしく」
──『子どもたちをよろしく』というタイトルですが、その「よろしく」とは特にだれに対して向けられた言葉なのでしょうか。
寺脇:もちろんこの作品を観たすべての方々にではありますが、「よろしく」という言葉には、特定のだれかだけが子どもたちの面倒を一手に見るのではなく、この世界に生きるすべての大人たちに子どもたちの人生を考えてほしいという願いも込めています。
先ほども触れたように、人間は生き続ける限り少なからず心の傷を受ける。それはだれにでも起こり得る問題ですが、だからこそ「では、心の傷はどのようにして生じるのか」「その傷をどうすれば癒せるのか、最小限に留めることができるのか」を考えることが重要なのです。
私自身も、中学2年生の時にやはり心の傷によって自殺を図っています。それはあくまで個人的な経験ではありますが、生きていく中で、ある時ふと目の前が暗闇に包まれる。八方塞がりとなり、何の希望もなく追い詰められる……そういった感覚に覚えのある方は沢山いるはずです。ただ、そんな暗闇の中に一方でも二方でも隙間が空いていれば、その間隙から光が差し込んでくる。それが子どもたちにとって、人間にとっての救いになるのだと感じています。
たとえば、学校で「勉強が大切だ」と強制され、自宅に帰っても同様に「勉強しろ」と言われ続けたら、子どもたちには逃げ場となる場所がない。ですが、親が「先生が言うことを全部守る必要はないよ」「勉強は確かに大切かもしれないが、無理をする必要はないよ」と声をかけると、子どもたちの心はいくらか楽になる。学校と家庭の間で異なる価値観が存在すれば、それだけで隙間が生まれ、光が差し込むわけです。
自己を形成してゆくためも、中学生は多様な価値観に触れる必要がある。大人たちはその様子を支え見守るためにも、子供たちの姿を多角的に捉えてゆくことが必要なのではないでしょうか。ところが、現代の日本社会では多角的な価値観というものがどんどん失われている。その現実に対して「本当にそれで良いのですか」「この映画を観終わった後にも『そんなのはそれぞれの問題だ。俺には関係ない』と言えますか」と、私は問いかけたかった。そして何よりも、「この社会に生きる子どもたちを、どうかよろしくお願いします」と伝えたかったのです。
──子どもたちを支え見守るべき存在の大人たちに対するメッセージが込められた「よろしく」という言葉。それでは、これからを生きてゆく「子どもたち」に対しても、メッセージあるいはエールをお願いできますでしょうか。
前川:子どもたちは、社会を変革させる当事者でもあります。子どもたちが動けば、社会も変わる。先日の英語民間試験導入の件でも、高校生が行動を起こしたことで事態は大きく変化し、大学入試改革は根本から見直されることになりました。
子どもたちは社会を変える力を持っています。だからこそ、いざ18歳になって政治へ参加するその時までに、自ら思考し、判断することができる一人の人間へと成長してほしいのです。
そして学校教育に携わる先生方には、子どもたちを「右向け右」の命令に思考することなく従ってしまうような人間ではなく、自らの思考に基づいて政治的意見を主張することができる人間へと成長する手助けをしてほしいと願っています。
たとえばドイツでは政治教育のガイドラインとして、「圧倒の禁止の原則」「論争性の原則」「生徒志向の原則」の3つの原則を掲げるボイテルスバッハ・コンセンサスが1976年に教師たちによって作られましたが、それは思考の欠如によって引き起こされたかつての戦争への反省の意も込められています。今後生じるかもしれない最悪の事態を避けるためにも、政治的な問題から目を逸らすことなく、これからの民主主義をともに担う子どもたち一人ひとりが、自分の意見を持ってほしい。それが、自分の居場所を確立できるきっかけになるかもしれませんから。
インタビュー/くぼたなほこ
撮影/田中舘裕介
寺脇研(てらわき・けん)プロフィール
1952年生まれ。元・文部官僚。京都造形芸術大学教授。映画評論家。映画プロデューサー。官僚時代は「ゆとり教育」の旗ふり役として「ミスター文部省」と呼ばれた。退官後もNPO法人「カタリバ大学」の学長を務め、民間の教育者の立場から発言や著作を続けている。
映画プロデューサーとしては『戦争と一人の女』(2013/井上淳一監督)を皮切りに『バット・オンリー・ラヴ』(2016/佐野和宏監督)を製作。本作はプロデュース3作目となり、ライフワークである社会教育問題に切り込んでいる。
前川喜平(まえかわ・きへい)プロフィール
1955年生まれ、奈良県出身。東京大学法学部卒業後、1979年に文部省(現・文部科学省)入省。文部大臣秘書官、初等中等教育局財務課長、官房長、初等中等教育局長、文部科学審議官を経て、2016年に文部科学事務次官に就任。
2017年、同省の天下り問題の責任をとって退官。現在は、自主夜間中学のスタッフとして活動する傍ら、執筆活動などを行っている。
映画『子どもたちをよろしく』の作品情報
【日本公開】
2020年(日本映画)
【監督・脚本】
隅田靖
【キャスト】
鎌滝えり、杉田雷麟、椿三期、川瀬陽太、村上淳、有森也実
【作品概要】
ある少年少女たち、そして周囲を取り巻く大人たちの姿を通じて、貧困、虐待、いじめ、依存など、現代の子どもたちが直面させられている様々な社会問題とその実態を鋭く描いた作品。
本作を企画したのは、寺脇研と前川喜平。かつて文部科学省にて子どもたちの問題と長らく向き合い続けてきた彼らがタッグを組んでいます。また監督を務めたのは、『ワルボロ』(2007)の隅田靖。企画者である寺脇・前川の思いを映画という形で見事に表現しました。
主演には『愛なき森で叫べ』(2019)の鎌滝えりを迎え、本作が映画初出演となる椿三期、『半世界』『長いお別れ』(ともに2019)の杉田雷麟、『ゴーストマスター』(2019)の川瀬陽太、『ある船頭の話』(2019)の村上淳、『いぬむこいり』(2017)の有森也実ら実力派キャストが集いました。
映画『子どもたちをよろしく』のあらすじ
東京にほど近い北関東のとある街。デリヘルで働く優樹菜(鎌滝えり)は、実の母親・妙子(有森也実)と義父・辰郎(村上淳)そして、辰郎の連れ子・稔(杉田雷麟)の四人家族で暮らしています。
辰郎は酒に酔うと、妙子と稔には暴力、血の繋がらない優樹菜には性暴力を繰り返しました。母の妙子は、まったくなす術なく、見てみぬふり。義弟の稔は、父と母に不満を感じながら優樹菜に淡い想いを抱いていました。
優樹菜が働くデリヘル「ラブラブ48」で運転手をする貞夫(川瀬陽太)は、妻に逃げられ重度のギャンブル依存症。一人息子・洋一(椿三期)をほったらかし帰宅するのはいつも深夜。洋一は暗く狭い部屋の中、帰ることのない母を待ち続けていました。
稔と洋一は、同じ学校に通う中学二年生。もとは仲の良い二人だったが、洋一は稔たちのグループからいじめの標的にされていました。
ある日、稔は家の中で、デリヘルの名刺を拾います。姉の仕事に疑問を抱いた稔は、自分も洋一と同じくいじめられる側になってしまうのではないかと、一人怯えるようになります。
稔と洋一、そして優樹菜。家族ナシ。友だちナシ。家ナシ。居場所をなくした彼らがとった行動とは……。
映画『子どもたちをよろしく』は2020年2月29日(土)よりユーロスペース、横浜シネマ・ジャック&ベティほか全国順次公開