映画『風の電話』は2020年1月24日(金)より全国ロードショー!
2011年の東日本大震災後、岩手県大槌町に設置され「天国に繋がる電話」として今も多くの人々の来訪を受け入れ続けている《風の電話》。
その《風の電話》をモチーフとして描いた初の映像作品にして、震災により家族を失った少女の再生と別れの旅を描いた監督・諏訪敦彦×主演・モトーラ世理奈の映画『風の電話』が劇場公開を迎えました。
そして、劇中にてモトーラさん演じる主人公・ハルが道中で出会う姉弟の弟・ヨシノリを演じたのが、主演作『ケンとカズ』(2016)などで知られる俳優・カトウシンスケさんです。
映画『風の電話』の劇場公開を記念して、カトウシンスケさんにインタビュー。長らく親交のある諏訪監督の演出やご自身への影響、俳優として人間としての“出会い”と“役”に対する思いなど、貴重なお話を伺いました。
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本作の“陽”となるような場面に
──諏訪敦彦監督と初めてお会いになったのはいつ頃なのでしょうか。
カトウシンスケ(以下、カトウ):10年ほど前、僕が30歳になる手前の頃にお会いしたんですが、当時劇団での活動を中心に演劇を続けていた僕の「こういう表現がやりたいんですよね」「こういう表現がいいと思うんです」といった思いに耳を傾け、それらを言語化してくださったのが諏訪監督だったんです。
「あ、僕が目指しているのはまさにそこなんです」「メモってもいいですか」と思わず感じてしまうほどに、諏訪監督による言語化は当時の僕の思いを明確にしてくださった感触がありましたね。
──映画『風の電話』の出演に際して、諏訪監督からはどのような演技を求められたのでしょうか。
カトウ:今は笑い話として諏訪監督ともよく話しているんですが、本作のお話を最初にいただいた際に読ませてもらった脚本には「シーン〇〇:車内」「シーン〇〇:食堂内」といった風に柱だけが書いてあるだけで、ト書きやセリフなどの具体的な場面の設定や内容については「未定」と書かれていたんです(笑)。
その当時は柱に書かれている場面の舞台に加えて、「自分の演じる役が《弟》であること」「《姉》とともに登場すること」しか知らされなかったので、「俺、諏訪監督のことわかっていたつもりだったけど、何もわかっていなかったんだな」と改めて思い知らされましたね(笑)。そんな笑い話も含めて、諏訪監督は常に自分の想像を超えてきてくれる映画監督ではあります。
その後衣装合わせに伺った際に、場面の設定や自身が演じる役の人物造形などを諏訪監督と話し合いました。その中で、「姉弟が登場する場面は、本作の“陽”にあたる唯一の場面となるから、その雰囲気を醸し出せたらいいと思っている」と諏訪監督と聞かされたんです。
特に山本未來さんが演じられた姉は妊娠していて、新たな命が生まれる直前の状態なんです。他の場面では多かれ少なかれ常に死が漂っているのに対して、姉弟が登場する場面では「新たな命の誕生」という明るい未来が訪れようとしている様が描かれている。だからこそ無理矢理明るくする必要はないけれど、本作にとっての“陽”として描きたいと語られていました。
「〜かもしれない」に込められた思い
──諏訪監督は即興的に芝居を演出されることで知られていますが、本作ではいかがでしたか。
カトウ:『風の電話』に関してはそういった形で撮影を進めていましたね。ただ、諏訪監督の演出は確かに「即興的」ではあるのですが、最近出版された『誰も必要としていないかもしれない、映画の可能性のために──制作・教育・批評』(フィルムアート社、2020)という著書のタイトル通り、諏訪監督の芝居に対する演出はいつも「〜かもしれない」で構成されているんですよ。
「俳優」と一口に言っても、撮影現場に訪れて感じ取ったもの、いわゆる“反応”を演技として昇華することが好きであったり得意であったりするタイプ、撮影前に準備を徹底しておきたいタイプ、何となく演技プランを押さえてきた上で後は現場の空気感に身を任せていきたいタイプと様々です。
監督との対話を前提とはしているものの、芝居において、俳優陣は諏訪監督から何かを強制されているわけではなく、諏訪監督も何かを必要としているわけではない。ただ芝居との向き合い方を始め、俳優という個体それぞれの個性が一つの場に寄り集まったとき、そこでせめぎ合う“何か“が生まれる。それを映し出したいという諏訪監督の思いが、「〜かもしれない」という言葉に込められているんだと感じています。
また僕は場合によっては脚本に色々と書き込むことがあるんですが、その内容のほとんども昔から「〜かもしれない」だったんです。ですから久しぶりに諏訪監督の作品に出演するにあたって、脚本も読み込もうといざ開いてみて「〜かもしれない」という言葉を目にした時には、「ここまで諏訪監督「語録」の影響を受けていたのか」と愕然としましたね。僕のオリジナルだと勘違いしていたぐらいですから(笑)。
常に何かを失っていかないと、次のものは出てこない
──先ほど「俳優のタイプ」について触れられていましたが、カトウさんご自身はみずからをどのようなタイプの俳優だと認識されていますか?
カトウ:「その時々による」だとは感じていますね。“反応”を重視したいと感じられる作品もありますし、本作に限らず「100回・200回と脚本を読み込んでこそ得られるもの、演じられるものがあるんじゃないのか」と考えられる作品もあります。その判断は、あくまで直感でしかないですが。
「どう芝居に臨むべきか?」を探り続けているんだとは感じています。俳優の仕事を続ける中でその答えへと手を伸ばし、掴み取ろうとしている。けれど「ついに捕まえた!」と思う瞬間があっても、手に入れた瞬間にその答えは過去になってしまい、次の作品では使えなくなることばかりで。「こっちの方がいいかもしれない」と延々探し続けているんです。
──常に俳優としての在り方を模索されているわけですね。
カトウ:随分かっこいい言い方ですね(笑)。ただ「在り方」というよりは、「そうでしかいられない」という感覚なんですよね。ずっと動き続けていないと一ヶ所に根を張ってしまうことになり、これ以上先に進むことができなくなってしまう気がするんです。
それに、楽しくないんですよね。手元にある武器だけを使って芝居をすることは、僕にとって喜びではないんです。ですから、周りから過去作での演技を褒められても「それはそうだったのかもしれないが、もう一回それをやりたいとは思わない」と感じてしまう。
常に何かを失っていかないと、次のものは出てこない。それがいいことなのか悪いことなのかはわからないんですが、それが僕自身になっているんだと感じています。だからお金も貯まらないわけです(笑)。
無数の可能性がぶつかり生まれる“出会い”
──「常に何かを失っていかないと、次のものは出てこない」とは、カトウさんが常に新たなもの、或いは変化を求められることを求めているからこその言葉なんでしょうか。
カトウ:「何かを求めているから」というよりは、「そうなるべくしてなるから」といった方が正しいのかもしれません。例えば『風の電話』の場合は「未定」の段階から芝居が始まっていて、諏訪監督との対話、現場の様子といったいくつもの可能性が自分の中で想像として渦巻き始める。そしておぼろげな演技プランを立てる中で、可能性を選択していくわけです。
また本作では、諏訪監督との出会いからの約十年間の成果として、“反応”としての演技も意識していました。それは僕のエゴでしかないかもしれないですが、俳優を続けてきた時間でもある約十年の成果として、その時間を踏まえた上での更なる挑戦として芝居に臨んだ方が僕は楽しいし、芝居としてもよい方向へと進められると思いその選択をしたんです。
もちろん同じ場にはハル役のモトーラさん、姉役の山本さんがいるからこそ、自分の想像通りに芝居が生み出されていくことは決してない。ですが、それぞれの最大限を持ち寄って芝居に臨んだ方が、諏訪監督のいう「せめぎ合う」状態になれるんじゃないか。様々なバランスが拮抗し始め、色んなものがビンと張ってくる「緊張」が生まれるんじゃないかと感じています。
実は劇中で描かれている家族との電話越しでの会話も、滅茶苦茶シミュレーションしていたんです。脳内で100通りほど考えて「これで誰がどう来ても大丈夫だ」「ここまでアプローチするヤツいないだろ」と自信を持っていたんですが、実際の撮影では101通り目が来ました(笑)。
ただ、それが面白いんですよね。自分が想像してきた100通りと、モトーラさんや未來さんが同じく想像してきた100通りがぶつかり合うからこそ“101通り目”が生まれるし、俳優同士がカメラの前で真に出会うことができる。その出会い方は様々ですが、「作品ごとで毎回しっかり出会いたい」「その瞬間にたどり着くにはどうしたらいいんだろうか?」とはいつも考えていますね。
俳優/人間としての他者との“出会い”
──カトウさんにとっての“出会い”について、より詳しくお聞かせ願えませんか。
カトウ:“出会い”における相手とは、言ってしまえば“圧倒的な他者”じゃないですか。もちろん脚本などのテキストによって演じる場面の状況はある程度筋立てられていますが、その中でもどうやって芝居の中で“出会い”を、それにつきものな“緊張”を生み出せるかを追求していますね。特に『風の電話』の場合はその筋道がゆるやかでしたから、登場人物たちはより他者性も持つ、ある意味では畏怖の念すらも抱けてしまうほどの存在になっていました。
緊張がないと、面白くないんですよ。たとえば一本の糸を左右から引っ張る時、その糸が最初からたるんでいたら「引っ張ったら、ピンと張るんだろうな」と簡単にわかってしまう。その「わかってしまう」状態が面白くないんです。
ですが糸が最初からピンと張っている状態だったら、「引っ張ったら、糸は切れてしまうんじゃないか?」「切れることなく耐えるんだろうか?」「或いは、もう少しだけ糸は伸びるんじゃないか?」と想像を巡らせることができる。その状態こそが“出会い”であり、何かが生まれる瞬間だと思っているんです。
そして糸を引っ張ろうとする左右の手それぞれが、芝居における俳優という他者同士にあたるわけで、そういった“出会い”は人生においても起こりうることだと感じています。ただ「糸が最初からピンと張った状態」を作ろうとしてしまうと、ただの予定調和にしかならない。その状態を「たまたま」生み出すにはどうすればいいのかを、僕は俳優同士、人間同士が出会うために不可欠なこととして模索しているんです。
“役”というおぼろげな存在との距離
──カトウさんが模索を続けられてきた“出会い”において、「役」という存在、或いは人間は、その名の通りどのような“役”を担っているのでしょうか。
カトウ:そもそも、僕は「役」というものをまだよくわかっていないんです。ただ『風の電話』で演じた弟・ヨシノリをはじめ、僕はこれまで演じてきた役を“役”というよりはやはり“他者”として捉えていて、「俳優・カトウシンスケ」と「役」という他者同士の間にもまた“出会い”が生まれていると感じています。
それに、実在の人物であれ架空の人物であれ、役とは非常におぼろげな存在なんです。俳優という触媒を介さないとこの世界に存在できないので、気を遣っていないと消えてしまうんですよ。「さっきまで手を繋いでいたはずなのに、いつの間にか消えてしまっていた」なんてこともあるくらいで。
「これなら、役は消えない」という最良の方法は僕の中にはまだなくて、近くにいると感じられることもあれば、遠くにいってしまったと感じてしまうこともあります。また絶好調の時には、「僕の隣に役がいる」と感じられますね。
──「役と一体になる」のではなく、あくまでも「役との距離感を探る」ということですね。
カトウ:役と一体になるタイプ、いわゆる「憑依型」の俳優さんも多く活躍されていますが、僕自身はそれをあまり実感できないんですよね。「役」と呼ばれる他者、「役」と呼ばれる人間と向き合い続けるほどに自己を突きつけられるといいますか、他者そのものになるためには、それだけの人生の“質量”が必要なんじゃないかと考えてしまうんです。
僕は38年という歳月の中で様々な体験をし、長い間思考を続けてきたからこそ「カトウシンスケ」と呼ばれる人間になったわけで、「この役は〇〇歳の時にこういうことを考えていたから、今はこんな人間なんだ」といった短絡的な想像はどうしても信じられない。「“俳優・カトウシンスケ”が“弟・ヨシノリ”としてそこにいる」と捉えた上で演じるからこそ、「“弟・ヨシノリ”は『風の電話』の世界に存在していた」と、「『風の電話』で“俳優・カトウシンスケ”が仕事をした」と言えるんじゃないかと感じています。
「役の生を全うしなくてはいけない」という責任
──先ほどカトウさんは、絶好調の時には「僕の隣に役がいる」と感じられると語られていましたが、その感覚はご自身の行為、「いてもらう」と「いさせる」のどちらによって生まれるものなのでしょうか。
カトウ:「いさせる」なんておこがましいことは僕にはできないですね。短い時間ではありますが、やはり自分と一緒にいてくれている大切な人ですから。
ただ敢えておこがましいことを言うのであれば、俳優が演じない限り、役という存在はおぼろげなままです。そして俳優である僕が役を雑に扱うこと、人間として全否定してしまうことは、役がこの世界からその存在を蔑ろにされるのと同然のことなんです。ですから、その役が救いようのない悪人であったとしても「僕は常にこの人の味方でなくちゃいけない」「僕だけでもこの世界に存在することを肯定しなくちゃいけない」と感じるんです。
僕が肯定しない限り、生きることができない。また僕自身は撮影が終われば次の作品へと向かうことができますが、その役自身は撮影が終わればらそれきりになってしまう。成仏すらできなくなるわけです。だからこそ、「役の生を全うしなくてはいけない」という責任だけは俳優として、人間として少なからず負わなくてはいけないと考えています。
目には見えないけれど、暗闇の中には確かに役という人間がいて、僕と役はお互いに手を伸ばし続けている。そしてもし出会うことができたら、暗闇の中、二人は一緒に体育座りで過ごしている(笑)。それが常ではないんですが、そうやって役が一緒にいてくれると僕自身も安心するし、そいつのために頑張ろうという気になれるんですよね。
もしかしたら、僕の隣にいるのは僕自身なのかもしれません。内にいる小さな僕と、俳優としての僕が並んで座っているだけなのかもしれないです。
インタビュー/河合のび
撮影/出町光識
カトウシンスケ プロフィール
1981年生まれ、東京都出身。
2001年に真利子哲也監督作「ほぞ」で初の映画出演を果たし、その後もさまざまな映画作品に出演。2016年に公開された『ケンとカズ』では第31回高崎映画祭にて最優秀新進俳優賞を受賞し、演技派俳優として注目を集める。近年の出演映画作品には2016年の『クズとブスとゲス』、2017年の『ダブルミンツ』、2018年の『サニー/32』『どうしようもない恋の唄』、2019年の『サムライマラソン』など。
また舞台では劇団「オーストラ・マコンドー」の一員として公演作に出演。ドラマ・映画・舞台・CMと幅広い分野で活躍している。
映画『風の電話』の作品情報
【公開】
2020年1月24日より公開中(日本映画)
【監督】
諏訪敦彦
【脚本】
狗飼恭子、諏訪敦彦
【音楽】
世武裕子
【キャスト】
モトーラ世理奈、西島秀俊、西田敏行、三浦友和、渡辺真起子、山本未來、占部房子、池津祥子、石橋けい、篠原篤、別府康子
【作品概要】
岩手県の大槌町に実在する《風の電話》をモチーフとして描いた初の映像作品にして、震災で家族を失った少女の再生の旅を描いた作品。
本作を手がけたのは『不完全なふたり』『ユキとニナ』で知られ、国内外において映画制作を続けている諏訪敦彦監督。現場の空気感、俳優たち自身の生をも切り取ろうとする即興的な演出で知られています。
主人公・ハルを演じたのは、その存在感によって各方面から注目を集め続けている女優のモトーラ世理奈。さらにハルが旅の中で出会う人々として、西島秀俊、西田敏行、三浦友和など多くの実力派俳優が出演しています。
映画『風の電話』のあらすじ
17歳の高校生・ハル(モトーラ世理奈)は、東日本大震災で家族を失い、広島に住む伯母・広子(渡辺真起子)の家に身を寄せている。
心に深い傷を抱えながらも、常に寄り添ってくれる広子のおかげで日常を過ごすことができたハルだったが、ある日学校から帰ると広子が部屋で倒れていた。自分の周りの人が全ていなくなる不安に駆られたハルは、あの日以来、一度も帰っていない故郷の大槌町へ向かおうとする。
広島から岩手までの長い旅の中で、憔悴して道端に倒れていたところを助けてくれた公平(三浦友和)、今も福島に暮らし被災した時の話を聞かせてくれた今田(西田敏行)など、様々な人と出会い、食事をふるまわれ、抱きしめられ、「生きろ」と励まされるハル。
道中で出会った福島の元原発作業員・森尾(西島秀俊)と共に旅を続けた彼女は、やがて何かに導かれるように故郷にある《風の電話》へと歩みを進める。家族と「もう一度、話したい」その想いを胸に……。
編集長:河合のびプロフィール
1995年生まれ、静岡県出身の詩人。2019年に日本映画大学・理論コースを卒業後、2020年6月に映画情報Webサイト「Cinemarche」編集長へ就任。主にレビュー記事を執筆する一方で、草彅剛など多数の映画人へのインタビューも手がける。
2021年にはポッドキャスト番組「こんじゅりのシネマストリーマー」にサブMCとして出演(@youzo_kawai)。