映画『誰かの花』は2022年1月29日(土)より横浜シネマ・ジャック&ベティほか全国順次公開中!
ミニシアターの横浜シネマ・ジャック&ベティの30周年を記念して製作された映画『誰かの花』。
横浜出身・横浜育ちである奥田裕介監督が手がけた本作は、団地のベランダから落ちた植木鉢をめぐる偽りと真実、罪の行方を描き出します。
このたびの劇場公開を記念して、本作の主人公・孝秋を演じられた俳優のカトウシンスケさんにインタビュー。
あえて「わからない」を抱えたままで孝秋という役を演じられた理由、その中で見えてきた孝秋という役の人物像など、貴重なお話を伺いました。
CONTENTS
どう諦めずに折り合いをつけ、自分の中で生きていくか
──はじめに、主演を務められた本作のテーマを改めてお教えいただけますでしょうか。
カトウシンスケ(以下、カトウ):奥田監督の言葉をそのまま拝借すれば、「善意から起きた悲劇」であり、そして、その罪や罪悪感の先に救いがあるのかを監督は考えていました。
まさにコロナ禍での自粛期間もそうだったと思うんですが、やりようのない感情、怒りでも悲しみでもない心の内に渦巻いてしまっているものに、名前を付けるかのようにそっと置き所を作れたら、もう少し楽に生きられる人がいるんじゃないか。『誰かの花』はそういうものを探す冒険になるのではと奥田監督は感じていて、僕もその冒険に一緒に携わっていたというわけです。
──「善意から起きた罪」は他者とのコミュニケーションにおける誤解・曲解により生じることが多いと思われますが、それに振り回されることになる主人公・孝秋を演じられるにあたってどのようなことを考えられましたか。
カトウ:これは本作でもそうだし、自分が3.11以降に感じていたことでもあるんですが、それまでとても個人的だったもの……個人の思いや感情などが散るといいますか、社会全体に飲み込まれそうになる状況が訪れていると感じています。そうした状況の中で、孝秋という個人・自分という個人がどう在れるのか、その中でどう生きていけるのか、または生きていかなくてはいけないのかと考えていました。
諦めたら、ダメなわけじゃないですか。死ぬことになってしまいますから。良いことも悪いこともあるし状況はむしろ最悪だけれども、どう諦めずに自分の中で折り合いをつけて生きていくのかは、本作で非常に意識せざるを得なかったことでもあります。
コロナの件でいえば、オンライン飲みで楽しい時間を過ごす自分を作り上げるのか、肌感覚でコミュニケーションをとれる時代になるのかを待つのか……それらはどこかで折り合いをつけて判断をしなくてはならないことだし、その延長線上、地続きにあることとして『誰かの花』もあったんだと思います。
「わからない」を抱えたままで演じる意味
──個人間でのコミュニケーションに対する社会の目の介入がより強まり、コミュニケーションの在り方とその中での選択を多くの人々が意識させられる時代が、コロナ禍以降の世界なのかもしれません。
カトウ:コロナについては時間が経つにつれて色々な情報が後々判明しましたが、それでも今も「大きな、けれど、よくわかってないことが起きた」という気がします。
酷いことが確かに起きたけれど、あまりにもわからないことが多い。その酷いことが終わるのか終わらないのか、あるいはもっと酷いことが起きるのか……人々の中で「わからない」ばかりが蔓延していて終わりの見えない状態が続いている。
ただその一方で、大小はあれど人と人がいる以上は結局分かり合えない・理解し合えないとも思うし、だからこそ言葉などを用いて会話を試みたり、喧嘩したり、愛し合ったりする。改めて考えてみると、「わからない」が蔓延した状態は以前から存在していたわけです。
わからないということを、本作では大事にしようと思いました。「孝秋はこういう思いを持ってこうするやつだ」と考え抜いても、孝秋にはなれない。わからないながらも、抱いた疑念とか希望とか、やってしまった自分に生まれた罪とか、そうした色々を抱えたままで演じてみました。
演じている自分にも、孝秋自身にもどうすればいいのかはわからないし、「正しい・正しくないで言えば、正しくないことをしている」という程度しかわからない。ただ人が当事者となった時には、それは仕方ないことなのかもしれません。
当事者になった時にどう行動すればいいのかは誰にもわからなくて、結局はその瞬間瞬間での選択と行動を積み重ねていった結果に過ぎないのではと、意識しました。それがある意味では、孝秋が抱え続けてきた生き方とつながっているとも感じたので。
決めつけては演じられないし、生きていけない
──主人公・孝秋を「わからない」をわからないままで抱え演じることを、特に意識された場面はありますか。
カトウ:全ての場面がそうだった気もするんですが、夜に親父の忠義(演:高橋長英)とキッチンの前で話し込む場面もそうだし、ヘルパーの長谷川(演:村上穂乃佳)とのやりとりもそうですよね。
彼女は社会的正義の側に立ってそれを担う人間であり、彼女と対峙する時にはあくまでも「敵」としては捉えられないですし、「彼女は彼女で正しいことを言っている」という程度は孝秋自身もわかっている。けれど、それを飲み込めるのかという問題が孝秋の中にはある。
「あいつは敵だ」とも「あいつは言っていることは正しいけれど、俺はそうは思えない」ともあまり決めつけずに、「言っていることはわかるけれど、俺はこうしたい。まずいかなあ?」という風に、不安定な状況として演じるのがいいと思いました。
孝秋は「誤魔化しきれるかな」とかずるいことも考えているんですが、かと言って楠本家を傷つけようとは思っていない。「誰も傷つかないといいな」という理想的であまりに甘い考えを多分思い浮かべながら暮らしているんだと思います。
カトウ:よく「二面性がある」「多面的に見ないといけない」なんて言いますが、みんなそれを複雑に抱えていると感じています。長谷川も作中で「間違ってますよ」とは言うけれど、孝秋の心情もわかっているし「自分が同じ立場になったら」という視点でも考えているはずです。
みんな色んな状況を抱えて生きているのだから、それを「あいつは社会的正義ばかり言うやつだ」「あいつはこういうやつだ」と決めつけるのはあまりにおこがましい。そもそも、人のことなんてわからないじゃないですか。
自分自身でさえ、規定できないと思うんです。僕が何をもって「カトウシンスケ」なのか、彼が何をもって「野村孝秋」なのかは決して規定できないし、人によって印象も違う。「カトウはおしゃべりだな」と思う人もいれば「カトウは寡黙だな」という人もいるし、「暗いな」と言ってくれる人もいれば「明るいな」と言ってくれる人もいるわけです(笑)。
何をもって「カトウシンスケ」なのかはやはり規定できないし、僕が思っている僕とみんなが思っている僕が違うからこそ色々な出演のオファーもいただける。そういうことに気をつけながら全ての役者や登場人物と本作では接していると思います。他者への想像力をなるべく稼働させて、決めつけずに、ありのままを。
それでも、根底に思い続ける何か
──自己の印象、そしてリアクションとしての他者の印象が混ざり合うことで野村孝秋という役も、カトウシンスケという役者も存在し得るということでしょうか。
カトウ:そうですね。ただ、「リアクションはとっているけれど、本当は違うことを思っているかもしれない」という可能性も一方ではあるわけです。
作中、忠義は「おう、謙人」と亡くなった兄の名で帰ってきた孝秋のことを呼びますが、孝秋は「俺は愛されていない、俺は責められている」「親父は兄貴のことが好きなんだな」と内では思いながら、それでも構わないと諦めを抱いている彼もいれば、傷ついている彼もいる。「親父、わざとやってるんだろ」と焼肉屋の場面では母親に冗談めかして言ったりしますが、本気でそう思っているわけではないかもしれない……いや、本心かもしれない。自分でも決めつけないで、生きているんです。
ただ、思っていることも言っていることも違うというのは人には結構ありますが、それでも根底には何かを思っているはずなんです。
兄のことを思い続ける親父に対しても「俺のことをちゃんと意識してくれ」と強く思う一方で……「死者には勝てない」「いなくなってしまった人間にはどうあがいても勝ちようがないし、比べようがない」とも理解している。亡くなった兄という存在と比べてしまう自分と、その苦しさをずっと抱えて生きているんだと感じられました。
だからこそはぐらかして冗談を言ったり、親父に言ってもしょうがないと口をつぐんでしまったりする時間が、作中では描き切れないほど濃密にあるんだと思います。
孝秋は「がんばっていた」
──野村孝秋という役を役者であるカトウシンスケとして演じる行為を試みられた中で、改めて見えてきた自身の姿……自身の「印象」はありましたか。
カトウ:どこかしらで自分と重なる部分を拡大・縮小するという過程を通じて役を作っているとは思うんですが、彼の人生の中で孝秋はああいうキャラクター・生き方でしか過ごせなかったのだとも感じています。
孝秋はそれまでは家にもあまり寄りつかなかったし、自己のことを直視して生きてきたわけでもない。お袋を手伝ったり助けたりするわけでもなかったけれど、目の前にああいう状態の親父が現れたことで、ちょこちょこ顔を出すようになってしまった。それらは心情としては非常にわかるし、自分に近いかどうかでいえば「僕よりもしっかりしているんじゃないかな」と思ったりします(笑)。
俺も本作の撮影準備時期や撮影の時期、自分の家族が大きな手術を受けたり、術後、もっともっと家族の元に、孝秋のように家族の側にいようとするべき事態にもなりました。それでも自分は映画作りに向かったんです。もちろん家族の理解があったからできたことですが。でも、「俺は、そういう人間なんだな」「俺は、あまりいい人間ではないな」と改めて思いましたね。
カトウ:自分の人生の岐路に立った時に、真面目に向き合わなくてはいけない事態に陥った時に、僕はそういう選択をした。孝秋もまた状況や形は違えど、ああいう選択をした。「自分はこういう選択をする人間だけれど、孝秋はああいう選択をする人間だ」と知れたからこそ、演じる上で孝秋という人の輪郭がより見えやすくはなりましたね。
それに孝秋の方がしっかり真剣に悩んでいるし、僕の方は映画や演劇などでの演じるという作業があるから救われている部分が大きいとも感じています。そうしたものは孝秋にはないから、彼の方が真剣に自身の実人生に苦しみながら向き合っている。そもそも逃げようと思っても、逃げられない。それと彼は戦いながら選んでいったんだろうなという気がするので、僕よりまともだと思います(笑)。
映画を改めて観た時も、「意外とこいつなりにがんばっているんだなあ」と感じたんです。
もちろんヘラヘラしているし、誤魔化して逃げようとするし、時にはよくないこともしてしまうんですが、何とか生き続ける中で、最後には当事者になろうとする。家族だけれど当事者になれなかった、どこかで逃げていて自分なりの世界観や正義で罪や憎しみを忘れないようにするのが精一杯だった人間が、他者への想像力が働き、慮り、何とか当事者になろうとする。共に生きようとする。それを観た時に、「思ったより孝秋はがんばっていたんだな」と思いましたね。
孝秋は、とても感情移入できる人だと感じています。そういう意味では、理解し合える人なのかもしれないと感じています。
インタビュー/河合のび
撮影/田中舘裕介
ヘア&メイク/ayadonald
カトウシンスケ プロフィール
1981年生まれ、東京都出身。
2001年に真利子哲也監督作『ほぞ』で初の映画出演を果たし、その後もさまざまな映画作品に出演。2016年に公開された『ケンとカズ』では第31回高崎映画祭にて最優秀新進俳優賞を受賞し、演技派俳優として注目を集める。近年の主な出演映画作品に2019年の『サムライマラソン』『最初の晩餐』、2020年の『風の電話』、2021年の『ONODA 一万夜を越えて』『偽りのないhappy end』など。公開待機作に『ツーアウトフルベース』などがある。
また舞台では劇団「オーストラ・マコンドー」の一員として公演作に出演。ドラマ・映画・舞台・CMと幅広い分野で活躍している。
映画『誰かの花』の作品情報
【公開】
2021年(日本映画)
【監督】
奥田裕介
【キャスト】
カトウシンスケ、吉行和子、高橋長英、和田光沙、テイ龍進、篠原篤、村上穂乃佳、大石吾朗、渡辺梓、寉岡萌希、堀春菜、笠松七海
【作品概要】
横浜シネマ・ジャック&ベティの30周年記念映画。監督には横浜出身・横浜育ちである『世界を変えなかった不確かな罪』(2017)の奥田裕介が抜擢され、本作が奥田監督にとって長編監督作の2作目となった。
主人公・孝秋を演じたのは『ケンとカズ』『風の電話』のカトウシンスケ。また孝秋の両親役を吉行和子、高橋長英がそれぞれ演じたほか、和田光沙、テイ龍進、篠原篤、村上穂乃佳など実力派俳優が参加。さらに横浜に縁の深い俳優の大石吾朗、渡辺梓、寉岡萌希、堀春菜、笠松七海も出演しています。
映画『誰かの花』のあらすじ
鉄工所で働く孝秋は、薄れゆく記憶の中で徘徊する父・忠義とそんな父に振り回される母・マチのことが気がかりで、実家の団地を訪れる。しかし忠義は、数年前に死んだ孝秋の兄と区別がつかないのか、彼を見てもただぼんやりと頷くだけであった。
強風吹き荒れるある日、事故が起こる。団地のベランダから落ちた植木鉢が住民に直撃し、救急車やパトカーが駆けつける騒動となったのだ。
父の安否を心配して慌てた孝秋であったが、忠義は何事もなかったかのように自宅にいた。だがベランダの窓は開き、忠義の手袋には土が……。
一転して父への疑いを募らせていく孝秋。「誰かの花」をめぐり繰り広げられる偽りと真実の数々。それらが亡き兄の記憶と交差した時、孝秋が見つけたひとつの〈答え〉とは。
編集長:河合のびプロフィール
1995年生まれ、静岡県出身の詩人。2019年に日本映画大学・理論コースを卒業後、2020年6月に映画情報Webサイト「Cinemarche」編集長へ就任。主にレビュー記事を執筆する一方で、草彅剛など多数の映画人へのインタビューも手がける。
2021年にはポッドキャスト番組「こんじゅりのシネマストリーマー」にサブMCとして出演(@youzo_kawai)。