映画『山猫 4K修復版』は、2019年3月17日(日)より、東京都写真博物館ほか全国順次公開。
若かりしアラン・ドロン、本物の貴族による上品な仕草、クラウディア・カルディナーレの美貌とドレス…。
残念なことに、それら全てを4Kの35mmプリント版とデジタル版で味わうことができなくなってしまいます。
権利上の都合で今回が4K修復版での最後の上映となりました。多くの『山猫』ファンが各地に集い、余韻に浸っていることでしょう。
そして初めて見たという方は、なんとも味わい難い感覚を覚えたことでしょう。
ルキノ・ヴィスコンティの映画に深く浸りたい方が、この記事で『山猫』とヴィスコンティ作品の真髄を少しでも感じることができれば嬉しいです。
今回はルキノ・ヴィスコンティ監督のヒューマンドラマ映画『山猫 4K修復版』のあらすじと感想をご紹介します。
CONTENTS
映画『山猫』の作品情報
【公開】
1963年(イタリア映画)
【原題】
Il gattopardo
【監督】
ルキノ・ヴィスコンティ
【キャスト】
バート・ランカスター、アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレ、パオロ・ストッパ、リア・モレリ、ロモロ・バリ、マリオ・ジロッティ、ピエール・クレマンティ、ルチッラ・モルラッキ、ジュリアーノ・ジェンマ、アイダ・ガリ、オッタビア・ピッコロ、カルロ・バレンツァーノ、イボ・ガラーニ、レスリー・フレンチ、セルジュ・レジアニ
【作品概要】
映画『山猫』が最初に日本で公開されたのが1964年。第16回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞。
映画監督マーティン・スコセッシらによる4K修復が成されるなど、歴史に残る名作は今なお多くのファンを虜にしています。
ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーザの原作『山猫』を元に、イタリアを代表する映画監督ルキノ・ヴィスコンティが貴族とブルジョワジーの対立、そしてイタリアの歴史を匠に織り交ぜた至高の物語です。
映画『山猫』のあらすじとネタバレ
聖母マリアとイエス・キリストへの祈りが屋敷にこだまします。神父の後に倣って祈りを唱える、サリーナ公爵達。
しかし、その部屋の外では、なにやら怒鳴り声が…。騒がしさにイラつくサリーナ公爵と、その騒音に戸惑いを見せる家族達。
大事な儀礼を止め、部屋に呼んだ召使いになにがあったか尋ねます。「庭で1人の兵士が死んでいまして…」。
さらに、召使いはマルヴィーカ公爵からの送り状をサリーナ公爵に渡しました。
“私達は戦況の悪化から英国に避難した。君たちも早いところ避難したほうがよろしい”疎開を促す手紙でした。
「腰抜け!」サリーナ公爵は怒りを込めて叫びました。ついに、シチリア島にも迫ってきたイタリア統一戦争の影。
緊迫した現状に泣き叫ぶ、マリア・ステラ公爵夫人。これまで何百年にもわたって高い地位を守ってきた、シチリアの名門貴族に、不安が襲ってきました。
そんな中、サリーナ公爵はお抱えの神父ピローネを連れてパレルモの街へ向かいます。
暴徒の街と化したパレルモ、教会の前で神父を降ろしたサリーナ公爵が向かった先は浮気相手の元でした。
「愛しの公爵様!」彼は日常的に不貞を働いていました。
翌日、サリーナ公爵の甥タンクレディが屋敷を訪れてきました。若く、エネルギッシュな男はあることを伝えました。
「革命軍に入る」
サリーナ家が代々同盟相手としているナポリ王国軍ではなく、先進的な革命軍に魅力を覚えたタンクレディ。
サリーナ公爵はその決断に若干の戸惑いを見せながらも、若い意志を尊重し、見舞金として宝石を渡しました。彼を心配していたのはサリーナ公爵の娘コンチェッタ。
タンクレディは自身に惚れ込んでいる娘を慰め、馬車に乗り、屋敷を後にします。
書斎へ上がるサリーナ公爵。昨日の悪事に戸惑いを覚えていたピローネ神父ががサリーナ公爵に告解を求めます。
しかし、サリーナ公爵は全く応じようとしません。
「肉欲には勝てんのだ!」「私を満足させることができない妻のせいだ!」開き直るサリーナ公爵に神父は呆れてしまいました。
パレルモの街はさらに暴徒化していました。本格的な戦闘が始まり、ナポリ王国軍と革命軍の戦いが激化していました。
その悲惨な争いで、場当たり的な処刑が横行し、一般市民は絶望の淵に追いやられていました。
そこに現れたのが、サリーナ公爵の甥タンクレディでした。彼は進んでナポリ王国軍と戦い、着実に経験を積んでいきました。
パレルモ近郊の町、ドンナ・フガータへと避難を始めていたサリーナ公爵を含む、彼の家族や神父は、荒野を数台の場馬車で駆け抜けていました。
しかし、その先の検問所で彼らは止められてしまいます。
上層部から誰も通さないよう命令を受けていた兵士達。そこに片目を怪我し、眼帯をしたタンクレディが無理矢理通すよう指示します。
激しい言葉の応酬に折れた兵士達は「公爵達」のみを通すことにしました。その後ろをついてきていた民衆達は通ることを拒まれてしまいます。
休憩所にて、ピローネ神父は一般市民と「貴族」について話しをしました。「別世界の人だ、彼らは全く情勢を理解してない」、お抱えの神父ピローネは世間知らずの貴族達に皮肉を言いました。
ある日、乾燥した砂埃が吹く街ドンナ・フガータの広場に多くの人達が集まっていました。
サリーナ公爵達の到着を出迎えるためのもので、楽団も準備されていました。
市長のドン・カロージェロ・セダーラ、そして狩猟仲間のチッチョらと声を交わしたサリーナ公爵一行は、民衆に囲まれながら教会へと入って行きました。
威厳ある教会で民衆と貴族がミサに参加しました。長旅の疲れを癒す為、風呂に浸かるサリーナ公爵。そこにピローネ神父が緊急の用と称して、風呂場に入って来ました。
全裸の公爵に戸惑いながらも、要件を話します。「実はコンチェッタがタンクレディに恋をしたということを聞きまして…」。
サリーナ公爵は喜ぶどころか、なぜ私に直接言わないのかと不満を垂らします。さらには、「あの子は現実的にタンクレディとは釣り合わない」と言い放つ始末。
公爵は夕食の正装に着替える為、風呂場を出ました。夕食会に招待された市長カロージェロは屋敷に燕尾服で登場しました。
その身の丈に合わない成金風情の姿に一同苦笑します。「妻は体調がすぐれないので、娘を連れてきました」、バカにされていることに気がつかないカロージェロ氏は夫人に挨拶をします。
そして、遅れてカロージェロの娘アンジェリカが登場します。
誰よりも豪勢なドレス、そしてなりよりも、彼女の美貌にその場にいた男は全員息を呑みます。挨拶に回るアンジェリカの元に、タンクレディが近づいていきました。
夕食会の最中、隣に恋人のコンチェッタがいるにも関わらず、アンジェリカに積極果敢に話しかけるタンクレディ。彼は自分の輝かしい経歴を披露します。
すると、ユーモアが混じったその武勇伝に対して、アンジェリカは、「カッカッカッカッ!」と下品に笑いだします。
そのあまりに場違いな笑い方に、同じく招待された町の有力者や神父、そして公爵家族たちは凍りつきます。憤ったサリーナ公爵は食事会を中止し、皆その場から立ち去ります。
アンジェリカの腰に手を当てるタンクレディ。そのあまりに無神経な態度に恋人コンチェッタが激怒。
しかし、タンクレディはアンジェリカを離しませんでした。
映画『山猫』の感想と評価
ルキノ・ヴィスコンティ=病的社会の検診者
「私の一貫した関心は、病的社会の検診ですから」
ミラノの名門貴族として生まれた、モドローネ伯爵ルキノ・ヴィスコンティが晩年のインタヴューで発した言葉です。
まさに、かつてのイタリアの「病的社会」が描かれた作品が、本作の『山猫』です。
本作の舞台となったのは19世紀のイタリア。新興ブルジョワジーが貴族に成り代わろうとする時代の転換期です。
凝り固まった思考に縛られ、旧時代にしがみみつこうとする貴族、身の丈にあわない地位を欲し新時代の主役になろうとする下品な新興ブルジョワジー。
この時代における現実的問題を露呈させたヴィスコンティ。そこには「病的社会の検診者」としての姿勢が垣間見れます。
しかし、『山猫』という巨大な作品において、その表面的な対立がただ描かれただけではありません。
ルキノ・ヴィスコンティ監督は、この際立った対立によって、隠されていた存在を見せてくれます。
その存在を見出す人物がヴィスコンティの分身とも言える、サリーナ公爵です。
公爵が気づいた悲観的事実
バート・ランカスター演じる、ドン・ファブリツィオ(サリーナ公爵)はシチリア名家の当主であり、貴族として絶大な影響力を持っていました。
しかし、イタリアが統一戦争で揺れ動く中、彼は自らの立場とエゴを守るために、旧時代にしがみつこうとします。そのためには新時代にも順応しなければいけませんでした。
公式のフライヤーに記述された、「永遠に変わらなためには、変わり続けなくてはならない」、まさにこの言葉通りです。
彼は進んで甥とブルジョワジー娘の結婚を承諾させ、自らの立場を安定させようとしました。
しかし、もともと、エゴイストかつ享楽的な貴族として老年まで過ごしてきたサリーナ公爵にとって、下品なブルジョワジーが世に蔓延ることへの気持ち悪さを強く感じてしまいます。
このように、上流社会いわば、貴族/ブルジョワジー、新時代/旧時代という対立を見てきたサリーナ公爵。
しかし、彼は自身の画策していた計画が、どれほど視野の狭いもので、くだらないものだったのかということを気付かされてしまいます。
それを感じた要因こそ、狩猟仲間のドン・チッチョなどの、対立や時代の変化の影響をモロに受け、貧しさと暴力に耐える民衆の存在でした。
彼は思います、「イタリア統一がなされ、時代は明らかに変わりつつある。しかし、シチリアの民衆、そして閉鎖的な風土はなんにも変わらないではないか。過去もそうだった。結局、彼らを支配するものが変わるだけだけで、根本が変わるわけではない」。
この超悲観的な事実は、あくまで上流社会の中での対立軸では見えない盲点でした。
そんな病的社会に生きるサリーナ公爵は、時代論争を飛び越え、一時は1人静観する立場をとります。彼が”民衆”のために立ち上がることはありません。
老いぼれ貴族にとって、もはや対処できる問題ではないと彼は思っていました。
しかし、サリーナ公爵が最後までただじっと沈黙していたわけではありません。
彼は自分をその病的社会から脱するために解決方法を見出します。
病的社会からの逸脱と永遠に変わらないために
非現実とも言える豪華絢爛な装飾がなされ、貴族の仕草、1つ1つが可憐な動きに見えてしまう。そんな華やかな世界で貴族とブルジョワジーが新旧時代の対比を見せる中、静観することを選んだサリーナ公爵。
彼は貴族に対しても、ブルジョアに対しても、露骨な暴言を吐きます。
「アホな猿ども」バカな会話だ」その他人を顧みない発言において、彼は既に孤立していることが伺えます。
アラン・ドロン演じるタンクレディとクラウディア演じるアンジェリカが、貴族とブルジョワジーと共に1つになってダンスをする。
そんな中、彼は1人、鏡の前で涙を浮かべます。
舞踏会が終わり、皆がそれぞれの思惑を胸に、帰路につく中、貴族/ブルジョワジーから遠ざかり、荒廃したリアルなシチリアの街に彼はいました。
サリーナ公爵は”死”を願いました、「私をいつ迎えにきてくれるのだ…」彼は、永遠に変わらないために、死を選択するのです。
それが、サリーナ公爵にとって、最良の選択でした。
サリーナ公爵が重層化された問題から見つけた答えが、変わらぬ世界=死である。
それはあまりにネガティブな考えに思えてしまいます。しかし、サリーナ公爵にとってそれは、決して悲観的なものではありません。
その意思は老いていく生き物にとって、あくまで自然なことであり、公爵にとって”新しい時代”への期待というような捉え方もできます。
そして、この変わらぬ世界=死であるということは、後の作品『家族の肖像』でも描かれています(主演は同じくサリーナ公爵を演じたバード・ランカスター)。
時代遅れの老人が、未来にも、過去にも進むことができない時間軸の中、死という永遠変わらない世界への逃亡が妙実に描かれています。
死という誰もが訪れるその自然的現象はもちろん、ヴィスコンティにとっても例外的問題ではありませんでした。
特に遺作の『イノセント』ではその運命とも戦いながらの撮影でした。
最終的にヴィスコンティ監督が、『山猫』でたどり着いた答えは、貴族/非貴族という出自や新旧時代という時間の問題や社会の問題を飛び越え、皆に”死ぬとはどういうことなのか”という普遍的課題を提示しようとしたのではないでしょうか。
そして、年老いて死が迫るヴィスコティ自身による、死への恐怖の慰めだったのではないでしょうか。
参考映像:『家族の肖像』(1974)
まとめ
ルキノ・ヴィスコンティの一貫したスタイル「病的時代の検診」は初期の「ネオリアリズモ」の渓流がしっかりと汲み取られている証拠です。
現実を映すこと、そして自らの問いと共に、普遍的な問題を私たちに提示すること。
ネオリアリズモの代表とされるヴィスコンティですが、それだけでは語ることのできない、彼の特徴が『山猫』には注がれています。