映画の原作は雫井脩介の『検察側の罪人』という同題ベストセラーで、演出は『関ケ原』や『日本のいちばん長い日』など、スケール感のある作風で定評の原田眞人監督。
本作は往年の邦画や上質な洋画を観ているような感覚を観客にぶつけてくる作品で、“個人の持つ正義とは何か”を俳優として木村拓哉と二宮和也が見ごとに演じ、2人の検事が互いに揺れながらも、たったひとつの答えを出す映画です。
そこで今回は映画『検察側の罪人』をどのように解釈するか、独自の解説を論じて行きます。
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木村拓哉のキムタクらしい演技とは
参考映像:『トゥー・フォー・ザ・マネー』(2005)
本作品『検察側の罪人』で最上毅役を演じたのは、ジャニーズの元スマップのメンバーである木村拓哉。
劇中で彼の役柄は、観客にこれまでにはない鋭利な刃物のような演技を見せてくれます。
あえて言うなれば、デビュー当時、鮮烈な存在感を持っていたキムタクのように斜に構えたような魅力があります。
原田組に初参加する木村拓哉は、同じくジャーニーズに所属し、2017年の原田眞人作品『関ヶ原』で主人公の石田三成役を演じた岡田准一から、「今度、原田組ですよね、間違いないっすよ」と後輩からの助言をもらったそうです。
このように後輩から本物の映画現場であるとアドバイスを受け、いつも以上に真摯に役柄に取り組んだと木村拓哉。
原田眞人監督は『検察側の罪人』のクランク・イン前に、木村拓哉に俳優マシュー・マコノヒーの演技を参考にするようにと、2005年公開のD・J・カルーソー監督作品『トゥー・フォー・ザ・マネー』を見ておくようにと伝えました。
木村拓哉は映画やドラマに出演する際に、事前に主人公の役柄を独自に分析して演技設計に臨んでいるようで、今回のエリート検事の最上に対しても、髪型から仕草までそのようにしていたようです。
劇場で『検察側の罪人』をご覧になったキムタクファンなら直ぐにお気づきとは思いますが、木村拓哉は演技中の声の出し方を今までとは変えており、最上の役柄の声を低めに出すようにしています。
また、最上役に成り切ろうとした木村拓哉は、少女の久住由季を思ってとった行動に関して、次のように述べています。
「最上のなかで彼女はすごく純白というか、自然な状態で木になっていた大切な果実のような存在になったんだろうと。それを松倉に枝ごと折られて、食べもせずに足で踏みつけられた。当時それに対して何もできなかった。いま、彼が検察という組織のなかでバリバリやっている状況にあって、その、かつて満たせなかった様子が飛び込んでくる。そこで最上は、許されることではないんですが行動を起こす。自分としては彼に賛同できないと演じるのは難しい。ですから最上に同意できる感情を探してきました」
このことは脚本にあった台詞を覚えて読んだのではなく、最上という人間の存在自体に同化するように、その人物の生き方の価値観や行動原理を見つけてきたのでしょう。
あの存在感のある検事最上は、木村拓哉の綿密な素晴らしい演技プランによって可能にしたものです。
だからこそ、映画の冒頭のシークエンスで、原田眞人監督も認めた木村拓哉のアドリブの台詞「雨に洗い流される罪などはない」も劇中で使用されています。
原田眞人監督の「インパール作戦」の妙味
原作の雫井修介が書き下ろした『検察側の罪人』は、検察側で巻き起こる葛藤と、犯罪心理や法律の矛盾を突く、まさにタイトル通りの内容です。
“正義というの名”の下、裁きを下す立場の側に“罪を持つ者”がいて、“正義という決裁”を下そうと企てようとする作品です。
その原作を基に原田眞人監督が映画化したことで、さらに骨太に人間描写が描かれました。
原田節ともいうべき、時に声を荒げ恫喝する登場人物たちが、威圧的に感情を爆発させ、原作に描かれた日本の犯罪の裁き方の矛盾のみに納め切らず、新たに原作にはないことを組み入れた要素があります。
劇中に幾度となく人物背景や会話、登場人物の隠れ家に見られる太平洋戦争で展開された「インパール作戦」。
このことで作品は、組織や上下関係という力が働くなかにおいて、“人が人を捌く(裁き)とは何か”を、観客にエッジを効かせて突きつける一級の娯楽作品になりました。
「インパール作戦」とは、1944年(昭和19年)3月に日本陸軍で開始され7月初旬まで継続した作戦で、ビルマからイギリス軍がいたインド北東部のインパールを攻略しようとした作戦です。
しかし、日本軍の上層部は美酒を片手に高みの見物で、自分たちの立場の体裁のみで兵士を玩具のように扱った。人権どころか、存在すら命の価値なしと決めつけた愚策な作戦司令です。
何故ならば、多くは戦闘行為で戦死したのではなく、無謀すぎる日本軍上層部が、“捨て駒の兵士が命を落とす数値のみで領土制圧とイコールの認識”していた体たらくな輩だからです。
“白骨街道”と呼ばれた戦場で、日本人(軍上層部)が日本人(捨て駒の兵士)を、約3万人の命を奪った大量虐殺の行為といえるからです。
しかも、その戦場でインパール作戦の任務に着いていた兵士たちも、厳しい状況下に追い込まれたことで、空腹に飢えた日本人(強者)が日本人(弱者)の殺人行為に及び、奪った命の抜け殻である人肉を食料として貪り食ったのです。
以下は、最上役の木村拓哉と諏訪部役の松重豊も視聴したNHKのテレビ番組です。
俳優と監督で作り上げた“ダークヒーロー最上毅”
ここまで木村拓哉の演技プランを紹介し、原田眞人監督の映画に追加したアイデアを紹介してきました。
木村拓哉は脚本を読んだ際に、原田眞人監督が原作にはないインパール作戦という要素を練り込んだことに、正直驚いたと語っています。
そして、監督個人が一つの情報として置いておくことを許せなかったと推測し、木村拓哉はこのように語ります。
「今の社会にあって、ダメなことに目をつぶろうと思えばできますが、絶対にそうしないぞという強い意志表示」
このように脚本から感じた木村拓哉は、おそらくは俳優としてだけではなく個人として、久住由季殺しの復讐の感情のみならず、インパール作戦に対する制裁を取らすための“正義の剣”の思想すら精神状態を高めていったのではないでしょうか。
ダークヒーロー、アンチヒーローの最上毅は、ここ何十年間の日本映画では久しぶりに魅力ある人物造形になっています。
だからこそ、本作品『検察側の罪人』のラスト結末があまりに魅力的なのです。
次の章では、今一度、映画のストーリーを振り返ってみることにしましょう。
映画『検察側の罪人』のあらすじとネタバレ
2013年、エリート検事の最上毅は、新任検事たち50名ほどの研修教官の任務に当たっていました。
新人の彼らに研修でニュース映像を見せることで、検察という権力の暴走を戒め、今後の取り調べの可視化の時代における検察の正義の心得を伝えていました。
そんな最上のようになりたいと憧れを抱く新任検事沖野啓一郎がそこにはいました。
4年後、沖野は研修と地方での実務を経て、晴れて東京地検に配置されます。
そこにはかつてから憧れていた最上もいました。
一方の最上も沖野のことを兼ねてから気に掛けており、初仕事として曲者の闇ブローカー諏訪部の取り調べを任せました。
諏訪部は新任の沖野を、最上のポチと揶揄しながらまともに返答などはせず、沖野を手のひらで転がすように弄びました。
その様子を沖野の事務官の橘沙穂が心配そうに見つめていました。
とき同じ頃、東京の蒲田で老夫婦が殺害される事件が発生します。
家にあった金庫も狙われていて強盗殺人事件の可能性が高い犯行として捜査は進み、殺された老夫婦は個人的に金を貸している人間関係も多く、数名の被疑者の名前が挙がり始めます。
その捜査にあたった沖野から報告を受けた最上。被疑者リストには最上が決して忘れることが出来ない記憶に残った男の名前があることに気がつきます。
男の名前は、松倉重生。
かつて、最上が学生時代を過ごした荒川の学生寮“北豊寮”のアイドル的存在だった、管理人夫妻の一人娘の由季を殺害された事件の重要参考人の男でした。
殺された由季は学生寮の中でも、一番に最上と親しかった少女でした。
映画でしか見れない木村拓哉のダークサイドな役柄
木村拓哉の代表作のひとつであるテレビドラマ「HERO」シリーズ。型破りな好青年の検事・久利生公平で人気を博しました。
連続ドラマや特別ドラマのほかに、映画版も作られた作品です。
本作品『検察側の罪人』の最上毅を見た際に、キムタクファンならずとも久利生公平の姿を思い出さなかった観客は少ないはずです。
困難な状況の事件にあたっても、その名前通り、“公平にありたいと正義の剣をかざし真実を追求する”検事役を務めあげました。
しかし、今回の映画『検察側の罪人』では、“個人的な正義の剣を貫こうとするダークヒーロー”の検事を木村拓哉は演じています。
製作者側がテレビドラマ「HERO」シリーズをまったく意識をしていなかったとは、考えにくいことでしょう。
また『HERO』にも出演していたキャストの松重豊、八嶋智人、大倉孝二など、木村拓哉とはお馴染みの顔ぶれを敢えて、『検察側の罪人』では重要な役柄を演じさせていたように考えられます。
松重豊が演じたのは、インパール作戦という同じ根っこを持った最上の共犯者の諏訪部利成。
大倉孝二は最上にとって都合の悪い老夫婦殺害の真犯人の弓岡嗣郎を演じています。
また八嶋智人は最上が憎む松倉を弁護する国選弁護人の小田島誠司という役柄です。
このことで原作を読んでいない観客は、“木村拓哉が演じた最上は“正義の剣”を持ったヒーローである”ことを物語の中盤まで信じ込み、酔いしれます。
また、過去の少女殺人の時効が成立してしまった真犯人に復讐心を燃やし、他の事件の冤罪を被せて裁くことを企てますが、その事件の真犯人に銃口を向けて引き金を引き、他人の命を殺めてもなお、同情的でさえあります。
のキムタクファンや木村拓哉の演技に魅せられた観客たちは、鑑賞者として頭のどこかに『HERO』の久利生公平をおきながら同情的になり、またアイドルグループのスマップ解散のスキャンダラスな憶測を合間って、“正義の剣”の裁き難くなっていく構造を映画的な効果として利用していきます。
そのことが良い意味で本作『検察側の罪人』という映画を面白いと感じる人と、白黒ハッキリせずモヤモヤと難解で楽しめなかったと感じる人に二分させています。
さらにこれらを可能にさせた俳優が、本作の芸達者な俳優木村拓哉(最上役)や松重豊(諏訪部役)、または酒向芳(松倉役)を抑えて、天才的な演技で多くの観客を魅了した二宮和也(沖野役)を配置させたことです。
映画の冒頭で新任検事の沖野が見せていた表情、物語の中盤の各所で最上の正義感に揺れ始める表情。
これらが映画のラストショットで、“沖野が叫ぶ動作”で、最上という罪人がどのような“正義の言い訳”を述べ、“個人的な正義”だと言い張っても、“その剣の正義は曇っている”ことを、観客の代弁者として解放させてくれます。
このような表現は、テレビでは見ることができない、映画ならではの描き方になっています。
二宮和也の演じた沖野の“叫び”の真相とは
二宮和也の演じた元検事の沖野は、本当に完全に最上とは決別をするのでしょうか。
ここまで読まれて、あなたはどちら派ですか。
「インパール作戦」を指揮した日本軍の幹部の愚策のように、最上の“正義の執行人”を愚かと思い、二度と会わずに“沖野の正義を貫き”決別か。
それとも自死した丹野が最上に託した汚職リストを武器に、沖野は最上に手を差し伸べ組むことで“新たな正義の剣”をかざし、またも「インパール作戦」のような戦争を引き起こそうと企てる巨大な悪に立ち向かうのか。
そのことをハッキリと白黒を二分する判断や、回答を明確に避けるように、本作品『検察側の罪人』のラストショットの沖野の叫びは、どちらの行動も取れるように観客の見方に委ねられています。
本作のオープニングタイトルの都会の風景をシンメトリーにデザインしたものや、劇中のダンサーたちが白い衣装や黒い衣装で踊っていることもわかるように、敢えて正義と悪や真実と虚偽などを2項対立軸で観客を煽りながらそうしてはいないのです。
ただし、少し奇妙な点に気が付きませんか?
それは男性と女性という対立軸にした際に、明らかに男性よりも女性たちは、すべて強いキャラクターとして描かれています。
独自の価値観を持つ強い女たち
吉高由里子の演じた橘沙穂。かつて親が冤罪をかけられ真実と強い正義感で暴くルポライター。
芦名星の演じた運び屋の女。喉に切り傷があり声帯を持たず、諜報活動や妨害工作を行う諏訪部の手下でキレ者。
山崎紘菜の演じた最上菜々子。最上をモガ様と呼び、ガールズバーで働き、全身にタトゥーを入れている自由人。
土屋玲子は映画音楽を担当しながらも、最上の年上の妻朱美を演じ、現在は冷めた夫婦関係で二胡を弾く演奏者。
東風万智子は丹野よしこを演じ、父親の影響下で事業拡大と右寄りの思想の代議士での出馬を狙う、自死した丹野の妻。
明らかにどのキャラクターも思考の異なりを見せるものの、それぞれの価値観を揺らがせずに持つ人物になっています。
ここで一番に注目していただきたいのは、吉高由里子の演じた橘沙穂です。
彼女は沖野に自ら、「最初のキスは自分からと決めている。あとは大人の男の流儀に従う」と言いました。
橘は本当に沖野に恋愛のみの感情で、自分の社会や周囲から追い込まれた境遇や、復讐心として育んできた個人的な正義感の価値を、他人を愛したことで解消できたのでしょうか。
男としては、単純に可愛い橘に愛されて幸せだと思い込みたいのかもしれませんが、女性の心の傷やいったん決めて育んだ意識は、そうそう男などといった生き物には変えることはできないはずです。
だからこそ、橘は沖野に対して「地獄までついていく」と嘘をついたのではないか。
そのように考えた方が、橘という人物の見方として面白い解釈のような気がしてなりません。
最上は殺人者です。
その殺人者の人のもとに愛する人を「地獄までついていく」という言葉だけで送り出すものでしょうか。
つまりは、橘は沖野は師弟関係であった最上と手を組むことを確信的に見抜いている。
松倉の冤罪事件の裁判に対して、国選弁護人についた橘と沖野ですが、その際にも沖野の短絡的な行動を諌めていました。
また、意外なまでに沖野は単純な男(純粋)であることを、エリート検事の最上のスキャンダルの素行を調べ、マークしている時でさえ、橘は沖野を何も考えずに手伝う者だと、心のどこかでは感じていたのではないか。
沖野という男は従順で決して裏切らない純粋な性格であり、橘は嘘をついて裏切ることがないとは言い切れません。
もともと橘の目的は、冤罪を生み出すような検察側に入り、ある種の社会への復讐心のために用意周到に検察試験を受ける虚偽を行い、暴露本のために潜入したのです。
沖野を最上の別荘に行かせたことは、橘が検察の不正を暴くために敢えて沖野を泳がせたと考える方が、本作品『検察側の罪人』は、さらに面白い解釈と考えるのは深読みしすぎなのではないでしょうか…。
まとめ
ジャニーズのアイドルグループの元スマップの木村拓哉と、嵐の二宮和也の初共演で、雫井脩介のミステリー小説を映画化した『検察側の罪人』。
多くのキムタクファン、あるいはニノのファンは女性たちでしょう。
女性たちは同性の女性たちがいかに恐ろしい者であるか、そして強かな者か、男性よりもよく知っているでしょう。
もしかすると原田眞人監督が本作品『検察側の罪人』を、一番エンターテイメントに仕上げたのは、太平洋戦争時に戦地に行かずに耐え忍んでいた、女性たちの声なき声のほうなのかもしれません。
それが今の時代に、“男性たちが権力構造の中でかざす正義の剣”よりも強い価値観というメッセージがあると考えたのかもしれませんね。
もちろん、映画『検察側の罪人』の解釈や真相は、観客それぞれの藪の中なのですが…。