映画『わたしはダフネ』は2021年7月3日(土) より、岩波ホールほかにて全国順次公開予定。
母を亡くしたことをきっかけに、生活が急変してしまった父ルイジと娘ダフネの喪失と克服を描いたヒューマンドラマ『わたしはダフネ』。
フェデリコ・ボンディ監督がSNS上でその活躍を目にし、主演に抜擢したカロリーナ・ラスパンティが、演技初挑戦ながらも、見事に観客を魅了した本作は、第69回ベルリン国際映画祭パノラマ部門国際批評家連盟賞を受賞しました。
他人との違いを受け入れ、お互いを信じ合う勇気と心の痛みを克服する親子の絆を描く、その楽観的な語り口が心地良い作品。
母親を失った父娘が旅の中で見つけ出したものを問いかける『わたしはダフネ』をご紹介します。
映画『わたしはダフネ』の作品情報
【日本公開】
2021年(イタリア映画)
【英題】
DAFNE
【監督】
フェデリコ・ボンディ
【キャスト】
カロリーナ・ラスパンティ、アントニオ・ピオヴァネッリ、ステファニア・カッシーニ、アンジェラ・マグニ、ガブリエレ・スピネッリ、フランチェスカ・ラビ
【作品概要】
監督・脚本は、デビュー作『Mar nero』(2008)がロカルノ国際映画祭で3部門を受賞したイタリア人監督フェデリコ・ボンディ。
長編2作目となる本作は、ベルリン国際映画祭パノラマ部門に出品され、国際批評家連盟賞を受賞しました。
主人公ダフネに扮するのは、監督がSNS上で見出したカロリーナ・ラスパンティです。自伝の出版など、創作活動は精力的であったものの、演技は本作が初挑戦。チャーミングでシニカルなその自然体の演技は、観客を瞬く間に魅了しました。
映画『わたしはダフネ』のあらすじ
ダウン症を患いながらも、快活で社交的な女性ダフネ。
スーパーで働きながら、アンティーク店を営む父ルイジと母マリアと平穏に暮らしていました。
夏の休暇をイタリアの山あいにあるキャンプ場で両親とともに過ごし、帰り支度をしている頃、突然母マリアが倒れました。
すぐに病院に運ばれるも、治療の甲斐なくマリアは帰らぬ人に。
あまりに唐突すぎる母の死にダフネとその父ルイジは茫然とするばかりでした。
悲しみに暮れては泣き、感情を露わにするダフネを、ルイジは心配して必死に落ち着かせようとします。
しかし母の喪失と向き合いたいダフネには、そんな父の気遣いさえ疎ましく、ルイジがなだめようと抱きしめても「煙草の吸いすぎで息が臭い!」と辛く当たってしまいました。
無事にマリアの葬儀が終わり、日常の生活へと戻る2人。ダフネは、心から大切にしているスーパーマーケットでの仕事に戻ります。
同僚たちも「何かあったら僕らを頼ってくれ、どんな時でも僕らは君のそばにいる」と彼女を温かく迎えました。
そんな同僚たちや友人の支えもあって、ダフネは少しずつ日常を取り戻していきますが、ルイジは喪失感と不安で次第に押しつぶされそうになっていました。
母であり妻であったマリアがいなくなってしまった今、ダフネとどう生活していけばいいのか。
思いつめるような表情をすることが多くなり、普段では考えられないような行動もとるようになった父の異変にダフネも気付きます。
しかし彼女もまだ父の異変を受け入れる余裕はなく、ある晩2人はぶつかってしまいました。
翌朝、謝ろうと父の部屋を訪ねるダフネ。
「もう働けない」と弱気に呟く父に、「母さんに会いに行かない? 歩いて行くの」と提案しました。
母マリアの故郷、コルニオーロへと歩いて向かうことにした2人は、山道をひたすら歩きます。
道すがらにあった氷室を覗いてみたり湖のほとりを歩いてみたり。
他愛ない会話を重ね、ダフネはルイジにしきりに「頼りにしてね」「父さんの頼みの綱でいたいから」と話しかけます。
その夜、訪れた宿の女主人に、ルイジはダフネのことを話し始めました。彼女が生まれた時のこと。妻であるマリアに言われた言葉。成長して大人になったダフネのこと……。
映画『わたしはダフネ』の感想と評価
等身大の物語
フェデリコ・ボンディ監督は、年老いた父親とダウン症の娘が手を繋いでバス停留所にたたずむ姿から本作を発想したと明かしています。
主演のカロリーナ・ラスパンティの演技に合わせて、脚本や演出を変更することも少なくなかった本作は、主人公ダフネに寄り添うかたちで、彼女のささやかな成長と残された家族との共生を描いています。
彼女の性格や振る舞いを正確に切り取った本作は、カロリーナの私小説と言えるほど、役と本人が一体となって、彼女の人生の一部を見せます。
そのため本作がカロリーナの実年齢(30代)に合わせた物語であることには、必然性がありました。
というのも本作は主人公を30代に設定することで、完全に独立した大人へと成長する過渡期の曖昧さを描き出しているのです。
ダフネ自身は、自分は自立した一人前の大人と認識しているものの、両親と共に暮らしているという意味では親の庇護にあり、仕草や振る舞いには子どもらしさが残っています。
そんな彼女が、母親の死をきっかけに完全な大人にならざるを得ない状況に追い込まれるのです。
それは彼女にとって、中途半端に大人になり切れてない部分を強引に成長させようという困難を強いる通過儀礼でした。
「自分のお金」で買ったぬいぐるみを車の窓から投げ捨てたり、冷蔵庫から取り出したハムをお皿に盛り付けずに素手で食べるのも、「大人」になるための通過儀礼前に起こる一種の退行に見えます。
これらの行動の根底には、ダフネが大人になる上で耐えねばならない成長痛のような苦しみがあります。
本作でダフネは母の死によって大人になりますが、それは単なるきっかけに過ぎません。母無き日々で起きた出来事の積み重ねによって、子どもから大人へ、段々と成長していく様がグラデーションのように描かれていました。
しかし、本作は子どもから大人への成長を見せただけではありません。急変した娘との生活を通して、父親ルイスの大人の成長をも描いているのです。
ルイスはダフネから「私たちはチームで、共働きである」と釘を刺されますが、年齢的な負担を理由に、アンティーク店での仕事はもう出来ないと弱音を吐きます。
その一方で、「わたしは大人よ」と訴えるダフネに「どこが大人なのか」と彼女を嗜めることも。
ママっ子であったダフネと父ルイスの間には微妙な距離感があり、家族3人でのシーンにおいても、そのことがさりげなく描かれていましたが、父娘2人きりになり、家族の形も変わって以降、喪失感を共有したことで、新たな関係性が構築されたのです。
本作はダフネに寄り添いながら、彼女の影響をポジティブに受けた父親にも変化が表れていく様子を描いていました。
当たり前に勇気づけるられる映画
素晴らしいヒューマンドラマとして高い評価を受けたのは、本作が難病映画ではないからです。
ダウン症の苦悩を描いたヒューマンドラマと言えば『チョコレートドーナツ』(2012)や『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』(2020)に代表される、「泣ける映画」の可哀想な人々の可哀想な物語が挙げられます。
病気の性質や実在し壮絶な半生を送った人々を後世に伝える難病映画には、それ自体の価値があるものの、映画が病気や不自由を抱えた人を描こうとすると、そこに同情的な視線を介在させてしまいがちです。
しかし本作では、物語で起こる彼女の不幸や父親との衝突は病気と切り離されていました。
病気がテーマのドラマではなく、30代の「一人前」の女性が父親との関係性を見直しながらも共に生きる道を主体的に選択する、普遍的でポジティブなヒューマンドラマだからです。
彼女の人生に苦難があったことは、多少語られはするものの、それは既に乗り越えたこととして、病気と同じようにキャラクターのバックボーンにとどまっています。
本作は「娘」としての自分と「独立した個人」としての自分との折り合いをつける物語として、誰しもが共感できる作品でした。
楽天的に逞しくあり続けることが、もはや当然のこととなっている彼女の姿に勇気づけられます。
病気や不自由を抱えた人を憂う従来の泣ける名作とは異なり、本作はダフネを同情を誘い泣ける対象にせず、主人公の不自由な境遇を単なる個性の一つにとどめています。
本作がどんな個性を持った俳優に対しても、フラットであり続けるドラマの一例として、新たなる映画の可能性に希望を見せました。
そして、生きていれば誰しもが直面する当たり前の出来事への向き合い方を、当たり前のこととして描けるフラットさにも誠実な映画であったと感じます。
まとめ
病気や不自由な生活を映画という媒体を通して訴求力を持たせて描く上で、ハートフルな感動映画にすることは、ある意味では正解でしょう。
しかしこれまでの映画が、病気や不自由を抱える人に同情しやすいよう、そういった人々を全て純粋無垢で誠実な人柄として一緒くたに描いてしまうきらいもありました。
本作のダフネは、主演のカロリーナの人生の一部です。映画的な脚色や演出は抑え目で、等身大の彼女が持つ彼女の人柄の良さ、人として未熟な一面、気立の良い一面、その全てが実在するひとりの人間として映し出されているのです。
そんな「普通」のダフネが、前に進むためには失ったものに囚われずに気を紛らわすのではなく、残された思い出を愛でながら、少しずつ新しい生活を始めていくまでをポジティブに描いたドラマです。
映画を観れば、彼女にとって物語が楽天的でポジティブであることがどれだけ重要か分かります。
映画『わたしはダフネ』は2021年7月3日(土) より、岩波ホールほかにて全国順次公開予定。