『ダラス・バイヤーズクラブ』のジャン=マルク・バレ監督による『ナイトクローラー』のジェイク・ギレンホール代表作
ジェイク・ギレンホールがウオール・ストリートで働くエリート銀行員を演じています。
突然の事故で妻を亡くしても彼には哀しみの気持ちが湧き上がりません。
無感覚に陥ってしまった彼の心は再生できるのでしょうか!?
以下、あらすじやネタバレが含まれる記事となりますので、まずは『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』映画作品情報をどうぞ!
CONTENTS
映画『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』作品情報
【公開】
2017年(アメリカ)
【原題】
DEMOLISHION
【監督】
ジャン=マルク・ヴァレ
【キャスト】
ジェイク・ギレンホール、ナオミ・ワッツ、クリス・クーパー、ジューダ・ルイス、ヘザー・リンド
【作品概要】
ウォール街のエリート銀行員は、妻を交通事故で亡くしますが、悲しいという感情が湧きません。ふとしたきっかけで、彼は身の回りのあらゆるものを破壊し始めます。彼の心は再生することが出来るのでしょうか。
映画『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』あらすじとネタバレ
妻の死
カーステレオからショパンの夜想曲が流れていました。
「音楽消してもいい?」と助手席に座っているディヴィス・ミッチェルは運転している妻のジュリアにいいますが、妻はそれを拒否します。
ディヴィスはウオール・ストリートで働くエリート銀行員。今もまさに仕事でかかってきた電話の応対をしているところです。
電話を終えた夫に、ジュリアは冷蔵庫の修理の話を持ち出します。一体なんのことかといぶかしげな夫に対してジュリアは「水漏れしているでしょう? 気付かなかったの?」と言います。
「俺には関係ないって?」と妻はこちらを見て言いますが、ディヴィスが声を上げたときには既に遅く、車は別の車に激突してしまいます。
ディヴィスは軽い怪我ですみましたが、妻は亡くなりました。
彼は、病院に設置してある菓子の自動販売機にコインを入れますが、商品が出てきません。病院の関係者に苦情を言ってもメーカーが取り扱っているものなので、と対応してくれません。
彼は写メを取り、製品番号を記録します。
多くの人が妻の死を悲しみ、葬式がとり行われました。そんな中、ディヴィスだけは淡々としており、化粧室の鏡に向かって泣き顔を作ってみますが、涙は出てきません。
デスクに座った彼は自販機の会社あてに苦情とともに、妻の死について、手紙を書き綴りました。払い戻し請求には直接関係ないが知っておいて欲しいと。
そんな彼を義父のフィル・イーストマンは呆れたようにみつめていました。
自宅に戻り冷蔵庫を開けてみるとたしかに水漏れをしていて、妻のメモも残されていました。
無精髭のまま、彼は出社しました。こんなに早く彼が出社してくると思わなかった会社の仲間は驚きを隠せません。彼は秘書に自販機会社宛の手紙を出しておくようにと手渡します。
彼は会議にも出席し、精力的に仕事をしていると、義父であり、仕事の上司でもあるフィルに呼び出されます。フィルは娘を亡くした哀しみを語り、ディヴィスが涙を見せないのは強さの現れだと解釈しているようでした。
分解する
通勤電車はいつも同じ顔ぶれで、ディヴィスは、ヤンキー・スタジアムに勤めているという男から以前職業を聞かれたことがあり、適当にセールスマンだと答えたことがありました。
その日、目の前に座る男に、自分は銀行マンだと告白します。ずっと嘘をついていたと。男は一瞬驚きながら、自分もその後、首になり今は違う職業に就いているんだと応えました。
ディヴィスは突然「妻を愛してなかった」と男に告げます。そして、突発的に電車のレバーを引き、電車を停止させてしまいます。関係者からお小言をくらっても反省した様子はありませんでした。
彼は27歳のときにコネで今の会社に入り、妻とはパーティーで知り合いました。そこから苦労しらずで人生を歩んできました。
何不自由ない生活に慣れきって、いつの間にか、自分には関係ないからと、見えているものも見えないものとしてやり過ごしてきたのかもしれません。
自分の両親を見送りに空港に来たディヴィスは、突然、人々の荷物の中が気になりだしました。旅をするのに人はどんなものを選んでバッグに詰めるのだろう?
それを境に、全てが彼にとって「象徴」となっていきます。中身が見たいという衝動は不可思議な行動を彼に取らせます。
冷蔵庫の修理に取り掛かったディヴィスはボスで義父のフィルが言っていた言葉を想い出していました。曰く、「心の修理も車の修理も同じことだ。まず分解して組み立て直すのだ」。彼はきれいに冷蔵庫を分解して、部品を並べます。
会社でも、いつも使用しているトイレ、オフィスの部品を解体し、社員の目を白黒させます。妻が購入したカプチーノ機も分解してしまいます。
顧客担当責任者からの電話
その頃、彼に一本の電話がかかってきました。相手は手紙を出した自動販売機会社の顧客担当責任者であるカレン・モレノという女性です。
ディヴィスは続けて三度、手紙を出していました。誰かが本当に読んでいるとは考えずに。まして、電話がかかってくるとは思ってもいませんでした。
彼の手紙に泣いてしまったと告げる女性。実はカレンは、ディヴィスのことが心配になって、時々尾行していたのです。
ディヴィスは電車の中で自分を見ている女性に気付き話しかけます。一方的に話し続けますが、不思議な心地良さを感じます。女性はすきを見て電車を降りてしまいますが、彼女こそカレンでした。
カレンはシングルマザーで、一人息子のクリスが周りの子どもたちと上手に付き合うことが出来ないこともあり、情緒面と経済面で苦しんでいました。
やがて、ディヴィスはカレンの家を訪ねるようになり、クリスと出逢います。彼は学校で「本当の話」をして停学をくらっていました。
アフガニスタンに駐留していた兵士が自爆テロにあい死亡し、市民たちが「アメリカに死を」と叫んだという話をしたためだといいます。
ロックが好きで、クールでどこか寂しげな少年クリスとディヴィスは次第に心を通わせていきます。
ある日、クリスはディヴィスに「僕はゲイなのかな?」と尋ねます。ディヴィスの質問に応えながら、彼は自らゲイであることをカミングアウトします。
カレンは、時々大麻を吸っていました。彼女に大麻を渡している老人のもとにディヴィスもついて行きますが、そこで彼らは、老朽化して使われなくなった回転木馬を見せられます。
砂浜に佇むディヴィスとカレン。ディヴィスは「ジュリアは海が好きだった」と呟きます。「恋しい?」とカレンは問い、ディヴィスは水たまりに在りし日のジュリアの姿を見ます。
破壊と再生
日に日にひどくなるディヴィスの奇行ぶりを見かねて、フィルは彼に休暇をとるように、と命じました。
ディヴィスはクリスを自分の家まで連れてくると、「結婚生活を破壊する」といって、一緒に家のあらゆるものを壊し始めました。
ブルドーザーですら、ネットで購入することができる時代。ディヴィスは建物も壊していきますが、妻のドレッサーを破壊していた時、妊娠中のエコー写真をみつけます。
ディヴィスはフィル夫妻が娘の財産で設立した基金のパーティーに行き、妊娠のことを知っていたかと尋ねました。
夫妻は二人とも知っていたようでした。「なぜ僕だけ知らないんだ」と言って会場を去ろうとしたディヴィスのあとを妻の母親が追いかけてきました。
「なぜ、知らせなかったか言いましょうか。あなたの子どもじゃなかったのよ。別に男性がいたの。処置は私が付きそったわ。知らないふりをして産めばいいのにと言ったのだけれど」
数日後、クリスが殴られ負傷したという連絡がはいり、カレンは血相を変えて病院に飛び込んできました。命には別状ありませんでしたが、クリスの顔は腫れ、血だらけになっていました。
ディヴィスもクリスを見舞いましたが、カレンから六人がかりで殴られたと聞かされます。
ディヴィスは妻の墓参りにやって来ました。その時、別の男が花を持ってきていることに気付きます。
妻の愛人だった奴かと思い、皮肉混じりに声をかけると、そうではありませんでした。ここのところずっとディヴィスは古いワゴン車に後をつけられているように感じていたのですが、この男がそうだったのです。
「なんとお詫びを言えばよいか」と彼は声を絞り出しました。彼は衝突の相手でした。
ディヴィスに声をかけようと思いながら、かけられずにずっと苦しんでいたのです。ディヴィスは相手が泣き出したので懸命に慰めるのでした。
映画『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』の感想と評価
画面がエンドロールに変わった時、ひどく心がざわついて、泣きそうになっていました。実際泣きました。
観ている間は、一体どうなっていくのだろう、とストーリーを追うのに忙しかったり、ディヴィスの奇行に驚いたり、はらはらしたりしていたのですが、観終わってからどんどん心に染みてくるのです。
映画によっては何度も何度も感情が高まって途中で泣いてしまうようなものもありますが、ジャン=マルク・ヴァレ監督の作品は、観終わったあと、じわじわと心に感動が広がっていくそんな作品が多いように思われます。
マシュー・マコノヒーがエイズにかかったカウボーイを演じた『ダラス・バイヤーズ・クラブ』(13)や、母の死を境に自暴自棄に生きてきた女性が自分自身を取り戻すためにパシフィック・クレスト・トレイルに挑む『わたしと会うまでの1600キロ』(15)なども、同じようにじわじわと感動が広がっていく作品でした。
それは、何かを失った人や、重い病気を抱えた人が、これまでと同じように生活していくことができず、もう一度自身の人生を立て直そうともがくという主題が関係しているのかもしれません(三作品に共通する主題です)。
観ているときは、その苦悩、苦闘に見入ってしまっているのですが、映画が終わりを告げると、一つ一つの場面の重みや、人々の心情が心にどっと押し寄せてくるのです。
『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』には、事故の加害者の心情までがきちんと描かれている場面があり、思いがけない人物(ある意味忘れられていた人物)の登場に、観ていた観客の私たちと同じように驚き、懸命に慰めようとする主人公の姿がありました。
それはお涙頂戴どころか、観ようによってはコミカルにもとれる描き方なのですが、このシーンにはなんと多くの心が詰まっていることでしょう。
悔恨や、優しさ、そしてそういう言葉で表現しきれない様々な感情がそのシーンにはあり、思い出しては泣きそうになるのです。
主人公が在りし日の妻の姿を回想するシーンが何度もインサートされるのですが、観たときは特別な意味など感じなかったのに、後からどんどん鮮やかに思い出され、またぐっときてしまうのです。
どうやらまだしばらくはこの作品のことを思い出しては、なんだか泣きたくなってしまいそうです。
まとめ
妻が死んでも涙が出ない夫の話というと、西川美和監督の『永い言い訳』(2016)を思い出された方も多いのではないでしょうか。
この2作品はとにかくよく似ています。同時期に日本とアメリカで同じような主題の映画が作られたことは大変興味深いです。
2作品を観ていると、結局のところ人間を救えるのは、人とのコミュニケーションだったり、自分が何かの役に立つことへの気付きだったりするのだなぁと思えるのですが、もう一つ、「身体性の復活」を上げることが出来るでしょう。
例えば『永い言い訳』では、本木雅弘が、居眠りしてバスを乗り過ごした子どもを追って、懸命に自転車を漕ぐシーンがあります。
一方、『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』は、iPodに曲を入れてもらったジェイク・ギレンホールが、街中で音楽に合わせて体を揺らしたり、飛んだり、跳ねたりします。家を破壊する一連の行為もそうでしょう。
子どもの頃のようにただ突き動かされるままに運動することを、そしてそれによって得る開放感を、彼らは久しく忘れていたのではないでしょうか。
体裁を気にせず、躍動する身体が、純粋に、主役を演じる本木雅弘、ジェイク・ギレンホールを輝かせます。
その輝きが映画の人物の苦悩を、目に見える形でそっと溶かしていくのです。
生命の躍動を描くのに、映画というのは実にうってつけのものなのだなぁと改めて確認することができたように思います。