愛する人を殺そうとした女性の“愛し方”の結末とは——
2019年に起きた新宿ホスト殺人未遂事件にインスパイアされた鮮烈な愛の物語。
『ここは退屈迎えに来て』(2018)の橋本愛が主演を務め、『生きちゃった』(2020)の仲野太賀が健太役、『わたし達はおとな』(2022)の木竜麻生が足立役を演じました。
監督を務めたのは本作が商業映画デビューとなる山本英監督。
6年前、愛した隼人(水上恒司)を刺し殺そうとした早苗(橋本愛)は、出所後、母親に連れられお見合いすることになります。
そこで出会ったのは、林業に従事する健太(仲野太賀)でした。健太と結婚し、平穏な生活が始まった早苗でしたが、謎の女性・足立(木竜麻生)の出現により、隼人の影に翻弄されていきます。
早苗の“愛し方”の結末とは……。
映画『熱のあとに』の作品情報
【日本公開】
2024年(日本映画)
【監督】
山本英
【脚本】
イ・ナウォン
【キャスト】
橋本愛、仲野太賀、木竜麻生、坂井真紀、木野花、鳴海唯、水上恒司
【作品概要】
2019年に起きた新宿ホスト殺人未遂事件にインスパイアされた本作は、それぞれの愛の形を鮮烈に描き出します。身勝手だったり、狂信的だったり……。他者から見て“理解ができない”と思うものも愛です。
狂気と正気の狭間で揺らぐ早苗を演じたのは、約5年ぶりに主演を務める橋本愛。『生きちゃった』(2020)の仲野太賀、『わたし達はおとな』(2022)の木竜麻生がそれぞれ違った愛の中で葛藤する姿を熱演します。
監督を務めたのは本作が商業映画デビューとなる山本英、脚本を務めたのは『夜が明けたら、いちばんに君に会いにいく』(2023)のイ・ナウォン。
映画『熱のあとに』のあらすじとネタバレ
早苗(橋本愛)は、マンションの非常階段を駆け下り扉を開けます。するとそこには金髪の男性・隼人が血まみれで倒れています。
早苗は隼人を見下ろしてタバコの火をつけます。するとスプリンクラーが作動し、早苗は水を浴びながら1人笑います。
〜6年後〜
早苗は母親に連れられ、お見合いに参加します。お見合いにやってきた鈴木という男性は「なんでそんな死んだ目してんすか?」と聞きますが、早苗は答えません。
代わりに母親が懸命に話を続けます。鈴木が電話に出るため席を外した際に、早苗は母親に「私に何を求めているの」と聞くと、母親は「幸せな生活と自然死」と答えます。
そして母親が帰り早苗と鈴木の2人になります。すると鈴木は「近くの木を見に行かないか」と誘い、早苗は鈴木の運転する軽トラに乗ります。
車を走らせる鈴木に早苗は「鈴木さん、私結婚する気ないんですよ」と言います。すると鈴木は笑い出し、「鈴木じゃない、俺小泉、小泉健太」と、本来早苗とお見合いする予定であった鈴木に代わってお見合いに来たと写真を見せます。
目の前の小泉(仲野太賀)とは全く違う人物が写った写真を見た早苗は詐欺を疑いますが、小泉は「お母さん、知ってたよ。誰でもよかったみたい」と言います。
早苗は「私、愛した人を刺したことがあって」と話し、半年前に出所して、母親は早苗にこれ以上被害者を出さないよう檻の中に入ってほしいと願っていると話します。
小泉は突然クラクションを鳴らし「死んだ目。殺そうとしたけど、逆に殺されたんだな」と言います。早苗は呆れたように「噛み合わないですね、私たち」と言います。
その後、2人は結婚し、ペンションとして使われていた建物で暮らし始めます。早苗は新宿にあるメンタルクリニックに通っています。
通院に行った早苗は夫のことを愛していると言うが、それは表向きに過ぎないと言います。「この感情を愛と認めてしまって悲しくないのか、これは愛のようなものであって本物の愛ではない」と続けます。
クリニックを後にした早苗は、隼人に似た金髪の男性を見かけた気がしてハッとして立ち尽くします。そんな早苗に声をかけたのは新人ホストの詩音でした。
そのままホストクラブに行った早苗は詩音に「望月隼人って知ってる?」と尋ねますが、新人の詩音は「わからない」と答えます。
早苗は早々に帰ってしまい落ち込む詩音は、先輩に早苗が聞いた隼人のことを尋ねます。すると隼人は殺人未遂事件に遭ったホストで、今は失踪中だと先輩が言います。
その頃、林業の仕事をしている健太は、依頼主の足立(木竜麻生)の家に行きますが、足立の姿がありません。裏の林に向かうと木の葉の間で寝っ転がっている人を見かけます。その人物が足立でした。
近寄ろうとすると、足立は誰かが仕掛けた罠に引っかかって立ち上がれないと話します。助けようとした健太も罠に引っかかってしまいます。
人懐っこくパワフルな足立と健太は親しくなり、東京に行くという足立を早苗を迎えに行くついでに送ります。
駅に降りた早苗は、車の中に健太と足立がいるのを見て驚きます。
足立は車から降りると「早苗さんですよね、やっと会えた」と何やら早苗を知っているようなそぶりで駅に向かっていきます。
早苗は足立のことを知らず、どういうことなのかと困惑します。
その夜、テレビで戦争の話を見ていた早苗と健太は戦争について話します。そしてふと健太は世界が平和になれる方法を見つけたといいます。
「各国の偉い人を集めて2人のペアにしてさ、60秒ただ見つめ合うんだ。それを繰り返していろんな人と見つめ合う。どう、いい案でしょ」
早苗は「ただ見つめ合うだけなの?」と納得していない様子です。
映画『熱のあとに』の感想と評価
あなたにとって愛とは? 愛するとは? そう聞かれて答えられるでしょうか。また、答えられたとして、それが正解だ、間違っていると判断できる人はいません。
愛という不確かなものに対し、強い確信を持てる人はそういません。しかし、橋本愛演じる早苗は違います。自分にとって隼人との愛は本物で、その他のものは“愛のようなもの”であって愛ではないと言います。
本作は冒頭で、血まみれで倒れている隼人と手に血を染め笑う早苗の姿を映して、6年後へと移り変わっていきます。
話が進むなかで、早苗の思う“愛”や、隼人との関係が浮き彫りになっていきます。早苗は2人の愛を永遠にするため、2人で死のうと思い、隼人を刺したと言います。
その後、健太によって、早苗が隼人に貢ぎ、隼人の借金を返すために体を売り、殴られても貢ぎ続けたといいます。早苗が語らなかった早苗と隼人の関係性を知って観客は、この“愛”間違っていると思い、健太の言うことが正常なのではないかと思うのではないでしょうか。
世間がおかしいと思う早苗の行動は早苗にとってはどうでもいいことなのです。そんな早苗に対し、隼人の妻である足立は、隼人とご飯を食べ、音楽を聴き、共に向き合って眠るという、世間一般が思う普通の生活を送り、幸せを感じていました。
同じように穏やかで安定した生活を早苗と健太は送っていますが、早苗にとってそれは偽りの体にただ時間を通過させていたに過ぎないというのです。
「心の闇を共に抱えて沈んでいくことが本当の愛で、それができるのは私だけ」と言う早苗に対し、足立は「隼人に愛されたこともないのに」「現実を馬鹿にしないで」と言い放ちます。
早苗は自分と隼人の愛だけが“本物の愛”でそれが高尚なものだと思っています。さらに“本物の愛”を知らない足立に対し優越感を感じている印象もあります。
足立にとってそんな愛を語る早苗が許せない思いもあったでしょう。一方で結婚し、隼人と日常を共に過ごしている足立は、隼人から選ばれ、愛されたのは私だという点で、隼人と自分の愛は本物で早苗よりも高尚なものだと思っています。
健太にとって愛は平穏の中にあり、寄り添い共に生きていくことでした。お見合いで早苗に出会った健太は、自分が支えてあげなくては、いつか立ち直って幸せに暮らせると思っていたのでしょう。
しかし、いつまで経っても早苗は他人行儀で、自分が抱えているものを健太と共有しようとはしません。自分ではない誰かを見て壊れそうになっていく早苗を見た健太は「もう限界だ」と思うようになっていきます。
しかし、早苗とはっきりと別れられずにいるのは、どこかで早苗が自分の愛を知り、自分を選んでくれる、選んで欲しいという思いが捨てきれなかったからではないでしょうか。
早苗、足立、健太はそれぞれに誰かを愛しているけれど、その愛は身勝手で一方的なのです。彼らの愛を見て、愛とは根源的に身勝手で独りよがりなものなのではないかとふと考えさせられます。
愛の深さも高尚さも図ることはできません。自分の愛を他者に押し付けようとするのは、自分の愛が届いていないという気持ちの表れや、その相手に愛してほしいという表れでもあります。
早苗は隼人に再会し、互いに時が過ぎてしまったこと、もう戻れないことを感じとります。そして早苗は、隼人とは違う、真実の愛と確信は持てないけれど芽生え始めた感情に向き合い、自分に向いている愛にも向き合おうとし始めるのです。
一方で足立はどうでしょうか、「言わなかったけれど私はまだ夫が好き」と泣く足立は、隼人の愛が自分に完全に向いているわけではないことをどこかで分かっていたのではないでしょうか。
辛くなるから、自分の愛も抑えて平静を装っていた、自分が大切だと思うものは遠ざかってしまう運命にあると思っていた、そんな足立は自分の思いにもけじめをつけるために離婚することを選んだのかもしれません。
それでも思いは断ち切れず、早苗と隼人が会って結ばれることも認めたくはなかったのでしょう。1人ボートに乗り湖へと向かった足立がその後どうなったのか映し出されることはなく、無人のボートだけが映し出されます。
足立はこの世を去ったのかもしれませんし、また新たな土地でスタートを切ろうとしているのかもしれません。
本作はあくまで隼人の思いや失踪の原因は語らず、隼人が不在であることが、早苗や足立が愛し方に対する答えを求めてしまう気持ちに観客が感情移入しやすくなっています。同時に答えを得られないもどかしさも伝わってきます。
愛に、正解はないのだとしたら、愛の正しさの答えが得られないのと同様に、誰かの愛を否定することもできないのかもしれません。
まとめ
本作で描かれている愛は、人によって狂気的と感じたり、究極の愛とはこのようなものだと感じたりするかもしれません。愛は不確かで答えのないものです。
時には理解ができないともうこともあるでしょう。自分が相手をひたすらに愛して、相手から愛されなくてもいいと思っている人もいるかもしれません。
それぞれの事情があり、それぞれの愛がありますが、多くの人は愛し、愛されることを望んでいるのではないでしょうか。どこかで見返りを求め、自分が思ったものを得られないと相手に押し付けてしまったり、非難したりしてしまう。
愛することの幸せ以上に苦しみを感じるのは、本来同じ愛を抱くことも、その愛の深さをはかることもできないのに比べてしまったり、もどかしさを感じてしまうからでしょう。
一方で、多くの人は相手に何もかも捧げてしまっても構わないほど相手を激しく愛したい、愛すことができるというのは、難しいのではないでしょか。
健太が「愛とかそういうの柄じゃない」「お前らの愛なんてそんなに偉くない」と言ったように、激しく人を愛することについて理解ができないと思う人の方が多いかもしれません。
しかし、理解できないからといって、その愛自体を否定しても良いのでしょうか。確かに、愛のために人を刺したり一緒に死ぬと言うのは、常軌を逸脱しており、人としてやって良いことではありません。
一方で、早苗が訴えかける“私の愛し方ってそんなにダメなんですか?”という問いかけに答えられる人はいるでしょうか。
それでも大事なことは、“相手がいること”“他者の愛は自分の愛と同じではない”ということを理解することなのかもしれません。
自分でコントロールできるわけではないからこそ愛は苦しいものですが、盲目になって自分が愛している相手が生身の人間であることを忘れてはいけません。