誰かのために作るということ、こしらえる。
この本を手にしたまだ見ぬあなたのために。
1万5千冊をデザインした装幀者・菊地信義と、本をつくる人々のドキュメンタリー『つつんで、ひらいて』。
「ならべる」「はかる」「つながる」「さがす」「しばる」「めぐりあう」「ときはなつ」の章立てで、菊地の装幀の世界を案内しています。
便利なデジタル時代のなかで、手触りを大事に本と向き合い、一冊一冊を丁寧に装幀していく菊地信義。その仕事ぶりに、ものづくりの原点が見えてくるようです。
本をつくる人々の情熱と知恵が詰まった映画『つつんで、ひらいて』を紹介します。
映画『つつんで、ひらいて』の作品情報
【日本公開】
2019年(日本)
【監督】
広瀬奈々子
【キャスト】
菊地信義、水戸部功、古井由吉
【作品概要】
ブックデザイン界の第一人者で、独立40周年を迎えた、装幀者・菊地信義の仕事ぶりを追ったドキュメンタリー映画『つつんで、ひらいて』。
監督は、是枝裕和、西川美和率いる映像クリエイター集団「分福」に籍を置き、『夜明け』で鮮烈なデビューを果たした広瀬奈々子監督。
2015年から3年かけて撮影し完成させた今作は、第24回釜山国際映画祭ワイド・アングル部門、第62回ライプツィヒ国際ドキュメンタリー・アニメーション映画祭インターナショナルプログラム部門へ招待作品として上映され、その後2019年・第20回東京フィルメックスにてスペシャル・メンションを受賞しました。
映画『つつんで、ひらいて』のあらすじとネタバレ
クシャクシャ、カサカサ。紙を丸めて広げて、伸ばしてこすって、引っ張って。「おっ、いけそうだ」。装幀者・菊地信義が、紙と格闘しています。
40年以上にわたり日本のブックデザイン界をリードしてきた菊地信義。ベストセラーとなった俵万智「サラダ記念日」をはじめ、大江健三郎、古井由吉、浅田次郎、平野啓一郎、金原ひとみなど、1万5千冊以上もの本を手掛けてきました。
一、「ならべる」
菊地は届いた箱を嬉しそうに開けました。中から取り出したのは、古井由吉著「雨の裾」。菊地が装幀した作品です。
本をならべていくと、半透明の帯にはいった白い模様が一冊づつ違うことに気付きます。タイトルの「雨」の漢字にもこだわりがありました。
表紙の肌感。物語の事件を匂わせる、スピンと花布の色。「小説の身体が紙なんだよね」と菊地は言います。
菊地と長い付き合いの作家・古井由吉は、装幀の出来上がりをみて「普通、思いつかないよね。装丁者も小説家も自己模倣したくないから生み出す辛さがわかるよ」と、喜びの表情を浮かべ、本を撫でました。
二、「はかる」
仕事机に向かう菊地の手には、大きな三角定規が握られています。紙に緻密に線を引いていきます。ある時は、コンパスで均等な円を描きました。
菊地は1mm、1%、1g単位でタイトル文字の修正を繰り返します。フォント、大きさ、文字間。特に人文系は、白黒文字だけでも完全であるように心がけます。
菊地が本のデザインに興味を持ったきっかけは、19歳の時に出会った本、モーリス・ブランショの「文学空間」でした。
その表紙は、墨一色で荒々しく塗られた中に浮かび上がる金色の文字、そして金の縁取りと、シンプルだけどインパクトのあるデザインです。
三、「つながる」
菊地の外弟子にあたる水戸部功は、「死装束だと言われました」と、師の言葉を噛みしめます。
「自分で産んで、自分で殺す、所詮僕は、菊地物語の中にいるんです」。デジタル時代にあってパソコンでのグラフィックデザインを得意とする水戸部は、偉大なる師の存在に敬意を払いながらも、独自の装幀を追求しています。
「書店に並んだ時に現れる装幀の面白さは、ハプニングアートのようだ」と楽しそうに話す水戸部は、菊地にも負けないほど装幀に憑りつかれているようです。
師弟の関係は、文字のフォントひとつを取っても、互いに刺激し合い、新しいアイデアを生み出していました。
四、「さがす」
四六時中、装幀のことを考えている菊地ですが、趣味は骨董品集め。骨董市では、気に入った絵画を購入。仕事場にも絵を飾っています。
自宅では、豆から挽いたコーヒーをお気に入りのカップソーサーに注ぎ、蓄音機から流れてくるレコードの音に耳を傾け、静かに味わいます。窓からは湘南の海が見えました。
自分の感性にしっくりくるデザインに囲まれリラックスする時間は、インスピレーションを育む大事なひとときです。
仕事の合間にもリラックスできる空間が菊地にはあります。長年通い続けている喫茶店です。仕事に行き詰った時、仕事の打ち合わせの場所にと、これまでの菊地の装幀の歩みに欠かせない場所です。
多くの作品と向かい合い、人間の心のあり様、動きを知ることに多様に触れてきた菊地。「やればやるほど空っぽになる気がしますよ」。それでもやり続けてきました。
独立して40年、菊地はひとつの大仕事に取り掛かっていました。モーリス・ブランショの「終わりなき対話」の装幀です。
モーリス・ブランショの「文学空間」は、菊地が装幀者を目指したきっかけとなった本です。同じ作家の本の装幀を、今度は自分の手で仕上げる時が来たのです。
映画『つつんで、ひらいて』の感想と評価
美しく刺激的な本づくりで多くの読者を魅了し、作家たちに愛されてきた装幀者・菊地信義の仕事ぶりに密着したブックデザイン・ドキュメンタリー『つつんで、ひらいて』。
ネット社会にあって、映画や音楽そして書籍を取り巻く環境は急変してきました。ましてや、新型コロナウィルスの感染拡大防止の外出自粛で、家にいながら楽しめるネット配信を利用する方が増えたのではないでしょうか。
それぞれの生活スタイルに合わせてインプット方法が選べる時代です。気軽に芸術を楽しめる反面、自分の足で買いに行き、手に取って吟味する時間がなくなりました。
書店に行き、並んでいる本を眺め、気になった本を手にしパラパラめくってみる。面白そうとワクワクする偶然の出会い。それは、決して無駄な時間ではなく贅沢な時間です。
この映画は、そんな本との出会いの瞬間を思い起こさせてくれる映画でした。パソコンの画面で眺めるだけでは伝わってこない本の肌触りや、重量感、そして装幀の美しさに触れてみたいという欲求を呼び起こさせます。
また、手作業で一冊ずつデザインしていく装幀の過程や、本の印刷、製本を経て書店に並ぶまで、本を作る人々の情熱を知ることで、本の見方が変わりました。
本の顔である表紙、カバーや帯を剥がして見ることが、これまでにはありませんでした。花布やスピンの色を気にすることもありませんでした。
装幀は、その本の中身を引き出し、読み手に分かり易く紹介してくれます。すべてが一体となりその本の良い所を表現しているのです。
「装幀は自己表現ではない。デザインは他者のためのもの」と言う菊地の言葉が印象に残ります。
使う人のことを考えて「こさえる」。装幀とは工芸であり、装幀者・菊地信義は職人でもありました。
まとめ
装幀者・菊地信義の仕事ぶりを、広瀬奈々子監督自ら3年にわたり取材したドキュメンタリー映画『つつんで、ひらいて』を紹介しました。
デジタル社会で「見る」「聞く」は手軽に楽しめる時代ですが、「嗅ぐ」「味わう」「触る」は行動を伴わないと出来ない体感です。
美しい装幀の世界は、目で見るのも楽しいですが、実際に手に取りその感触や作り手の想いを五感で感じ取って欲しいものです。
思わず手にしたくなる美しい本との偶然の出会いを求めて、書店へ足を運びたくなる映画です。