連載コラム「舞台裏の裏の裏話」その1
『日本で一番長い日』や『関ヶ原』の原田眞人監督の最新作であり、原作は「月刊文藝春秋」にて2012年9月号から2013年9月号まで連載された雫井脩介による小説の実写映画化です。
木村拓哉と二宮和也のダブル主演で、正義とは何か、正しいのはどちらなのか、二人の検察官による正義の対立を描いています。
原田眞人監督は、正義の二項対立やあらゆる角度からの正義を共存させた作品が多く、それがこの監督の味でもあります。
今回の作品も冒頭の木村拓哉演じる最上毅の言葉を伏線として、法律では決して裁けない悪に対する二人の検察官の正義がぶつかり合のです。
正義と法律の脆弱性。法律を作った者も、法律を扱う者も人間です。それ故に使い方を誤れば、簡単に悪にも正義にもなれてしまうことを検察官を通して描いています。
そして原田眞人監督といえば、歴史を用いて物語の本質をあぶり出すことにも長けた監督でもあります。
今回も太平洋戦争中のインパール戦において、行き過ぎた正義の結末とその中であがいた人々を作中で細やかに描くことで、現代の行き過ぎた正義とリンクさせる演出が実に見事でした。
そんな『検察側の罪人』という映画を、制作側からみた視点で考察していきます。
CONTENTS
『検察側の罪人』を美術的観点からの考察
映画美術とは
映画美術とは、撮影が行われるセットのデザインから小道具や持ち道具、セット内の装飾、加えて衣装やメイクなどの作品の世界観や登場人物像に至るまで、細かな設定を作り出す部署の総称です。
映画美術の中に、衣装部・ヘアメイク・美術部・装飾部・持ち道具・大道具などの細かい部署に分かれます。
一般的に、映画の美術と聞いて思い浮かぶのはセットを作ったりすることではないでしょうか。
これは美術部にあたります。美術部は脚本を読み込み、登場人物達の導線や性格から物語の空間を作りだして行く部署です。
美術部のトップである美術デザイナーが、シーンごとに画を描きます。その画を実際に作るために図面を書いて、大道具にセットを作ってもらいます。
そして、その作ったセットの中に装飾部が家具や電飾などの登場人物のキャラクターを構築していく物を配置していき、お芝居をする空間を作り上げます。
ジャニーズアイドルの難しさ
ジャニーズアイドルには、今も昔も一定数の熱狂的なファンが存在します。
そして制作側は、少なからずこの点に関して配慮しなければなりません。
あまり売れていないジャニーズアイドルだと、そこまでの配慮はしないかもしれませんが、今作は何十年もトップアイドルとして走り続けてきた木村拓哉と二宮和也です。
外のロケで撮影しようものならばどこかから聞きつけたファン達が撮影現場に訪れ、道をふさいだり撮影場所周辺に迷惑がかかる行動を取ることがあります。
熱狂的ファンの中には、制作側のプロデューサーに連絡を取り、映画撮影期間中の出演アイドルの撮影場所や撮影時間などの情報をお金を出して買おうとする方もいます。
それに応じるプロデューサーはいないと思いますが、ファンの熱意は想像を遙かに超えますね。
その際は、迷わずスタジオにセットを建てるという対策を立てることになります。この映画も、メインとなる事務所はセットで建てられています。
そして、観ていてとても不自然だったのが二宮和也が演じた沖野が行った弁護士事務所です。
ここもそういったファンが集まりにくいところを考慮したからなのか、とってつけたような寂れた工場の一角に飾りが入れられていました。
美術からみるジャニーズの立ち位置
美術部としても、セットを作る際にジャニーズの方には心を砕く場合があります。
例えば、原作でも脚本でもキャラクターとしてはくたびれた役として描かれているけれども、演じる方がジャニーズの方だと本来なら段ボールを飾るはずがカラーボックスに変えるという配慮をする場合があります。
絵面として、ジャニーズアイドルのブランドを段ボールと共存させてしまうことに抵抗を感じるからです。
これは、演出を考慮し役者さんと脚本のバランスを鑑みた美術部的な配慮と言えます。
今回の映画でも、木村拓哉さん演じる最上の自室や事務所にはそういった配慮がちりばめられていました。
やけに整った、最上の事務所。趣味でコレクションしているものがある人物がただそれ一点だけ収集癖を垣間見せるというのも不自然です。
他の知識欲をみたす物であったり、事件の参考で使った物も集めて事務所に置いていても不思議ではありません。
しかし映画では、木村拓哉という役者の存在感を際立たせるために一切の無駄を削いだ空間を作り出していてデザイナーの技を感じました。
セットの美しさ
そしてもう一点、デザイナーの技を感じた点を。最上の事務所も沖野の事務所もセットで作っています。
空間を広く魅せるために、とても大きなセットです。この映画で二宮和也の最大の見せ場といっても過言ではない松倉の取り調べシーン。
あそこも、緊張感があるシーンが多いが故に息が詰まらないよう、沖野の背後にレンガ作りの建物が見える大きな窓が作られていました。
あの窓の外の風景は、風景を印刷して物を窓の外に取り付けることによって実際の建物の中のようにみせています。
これには驚きました。映画で観ていて全く違和感なく、セットではなくどこかロケ地があるのかと思ったほどです。
制作側から観たときのこの映画の弱さ
演出面での諸刃の剣
先ほども触れましたが、沖野の松倉への取り調べシーンはこの映画を観た方の印象に一番強く残るはずです。
しかし、この映画の序盤で松重豊演じる諏訪部を取り調べるシーンが出てきます。
このシーンは、沖野という検察官がどういう人物であるのかということを観客にまず見せるという役割を持っています。
ここでの演出で、観る側は興ざめするか魅せられるかに分かれる気がしました。
ここでは、物語序盤ということもありカメラワークや演出面で少し技巧に走った撮り方をしています。
テンポを良くするために、360°にカメラを回転させ沖野と諏訪部を交互に見せる撮り方です。
ここで、「実力のある役者の芝居で引き込むのではなく技術で引きつけようとする」ことに嫌悪感を抱く人は、もしかしたら少なくないかもしれません。
しかし、逆に「面白い撮り方をしている。どうやって撮ったのだろう」と思う人はそこでこの映画に引き込まれていくはずです。
勿論、これは個人の好みですし、制作側の穿った見方だと言われればそれまでなのですが。
演出で勝負するのか、役者で勝負するのか
この映画は題材に興味を持って観た方と木村拓哉・二宮和也のファンであるが故に観た方と、この映画のとらえ方が全く異なってくる気がします。
前者は、この映画の宣伝文句である「正義とは」ということを少なからず心にとめて鑑賞します。
原田眞人監督といえば、役者を信頼しているが故に撮影現場では無茶ぶりをされる方だと聞きました。
なので、現場では役者さんたちの演技力を試すような場面もたくさんあったはずです。
監督の作品で、役者さんのお芝居が圧倒的過ぎて、震えることもしばしばあるのはそのせいだと思います。しかし、今回は第一線のジャニーズアイドルを起用したからなのか、すこしそれがぶれているように感じた点も垣間見えました。
これは後者の観客に向けてなのか、二人の顔のアップがとても多いのです。
後者の観客にとっては嬉しいはずです。なんせ、いうなれば役者を観にきているのですから。しかし、前者の観客はきっと違和感を抱き過度な演出だと感じてしまうはずです。
映画は見てもらってこそなので、どちらか一方の観客のために映画を作るべきだとは思いません。おそらく、この映画の評価が大きく分かれるとしたらこの点だと思います。
絶対に敵わない木村拓哉という存在
一方で、木村拓哉という存在が純粋に映画を観た方の違和感を昇華させる役割も果たしています。
かつて、視聴率王とまで呼ばれた木村拓哉という存在は「どの役をやってもキムタク」と呼ばれるほどの存在感を持っていました。
そしてそれはこの映画の中でも健在です。
もちろん、歳をとっても木村拓哉はかっこいいのです。しかし、行き過ぎた正義を貫き闇に落ちる木村拓哉の姿は、いままでどの役でもひたすら正しくかっこいい木村拓哉と違います。
“木村拓哉”に諦めていた観客でさえも惹きつけ、「正義とは」という命題さえどうでもよくなるほど魅力的です。
これがかつて日本中を魅了した木村拓哉の存在感なのかと、いまだ衰えぬカリスマ性を感じました。
まとめ
本作品『検察側の罪人』の一番の魅力は、映画の外側で広がる物語性にあると言えます。
確かにこの映画は決して後味のよい話ではありません。結果何が言いたかったのかと、この映画を消化しきれずに終わる観客もいるはずです。
でも、それでいいのです。この映画を作った人たちもきっと、丸く収まってハッピーになってもらうことを望んではいません。
映画での物語は終わりました。
物語の続きがどうなるのか、考えることでこの映画はきっと完成します。
映画を観た人の数だけ解釈と物語が存在する、そういう形に仕上がったこの作品は素晴らしいです。
作り手として、こういう映画に携わりたいと思ってしまうほどに。