講義「映画と哲学」第12講
日本映画大学教授である田辺秋守氏によるインターネット講義「映画と哲学」。
第12講では、J. S.ミル『自由論』に基づく自由主義および社会哲学の視点、ウィリアム・ウィルフォード『道化と笏杖』に基づく文化人類学の視点から「愚か者」と「愚行」の関係を考察。
さらに、そこから見出された愚か者が持つ転覆性と「愚か者の勝利」の定式について、2本の映画──ハル・アシュビー監督『チャンス』とロバート・ゼメキス監督『フォレスト・ガンプ/一期一会』を取り上げて分析していきます。
愚行の魅力
われわれは時として、バカなことをやりたいという欲望に駆られることがある。冷静に考えれば、なんの得にもならないし、その後始末は大変だと思われるのだが、それには抗しがたい魅力があるという行為があるものだ。たとえば、徹夜で酒を飲み明かすとか、危険なスポーツにのめり込むとか、麻薬を摂取するとか、大切にしているものを破壊するとか、ギャンブルで財産を使い果たす等々。こうしたバカな行為や愚かな行為を、一般に「愚行」といっている。そして、愚行を繰り返す人のことを、われわれは普通「愚か者」(古風な言い方だが)と呼んでいる。今回は、愚か者と愚行との関係について考えてみよう。
愚行の権利
J. S.ミル(1806〜1873)の書いた『自由論』(1859)は、自由主義的な社会哲学の古典である。この本でミルが論じているのは、おもに市民的な自由とは何かということと、それを制限する権力の限界についてである。特に第4章「個人に対する社会の権威の限界」では、自由主義社会は「愚行の権利」を擁護すべきであるという論点を強力に主張している。
「人を害するようなことではまったくないのに、人から馬鹿〔愚か者 fool〕だとか低級だと思われたり、感じられてしまう行動をとる人がいる」(『自由論』188頁)。これが、ミルによる「愚行」(folly)の定義である。またミルは、愚行が悪や邪悪さとは別のものだということを明確にするために次のように付け加えている。「個人的な欠点は、本来、不道徳なものではない。個人的な欠点は、たとえどんなに極端なものであっても、邪悪なものにはならない。」(前掲191頁)。ミルが挙げる個人的な欠点には、「節度のある生活ができない」とか「有害なことに溺れて自分が抑制できない」とか「動物的な快楽を追求する」とかいうものがあり、愚行はこれらから生ずることが多く、しばしば人々の軽蔑や嫌悪を引き起こす。とはいっても、それらは本来、道徳的な非難の対象ではない。愚行が、道徳的な非難の対象になるのは、その行為が他人に危害を及ぼすとか、他人の迷惑になる場合だけである。
愚かな行為がその当人とって不利益であっても、他人の迷惑にならない限り、それを非難すべきではないというのが、ミルが示す自由主義の原則である。不利益であってもやるというのは、その人のいわゆる自己決定の権限のうちなので、当人が愚行を行う権利、つまり「愚行の権利」があるということだ。ミルが愚行の権利を認めるのは、社会による誤った干渉や他者からの過剰な干渉を防ぐという意図がある。外部からの干渉による害の方が大きいなら、愚行を行う害の方がマシだと考える功利主義的な比較考量がそこに働いている。とはいえ、ミルは「愚行」の積極的な価値を認めて、それを論じているわけではない。
道化としての愚か者
それに対して、文化人類学的な論調は、「道化」(愚か者)による愚行が、じつは文化の更新や刷新に大いに役立っているとして、それを最大限に評価する傾向にある。例えば、ウィリアム・ウィルフォードの『道化と笏杖』(1969)がそうである。著者は、ユング派の精神分析家であると同時に文学研究者。なんとも分類し難いこの本は、直接的には「道化」(the fool愚か者)という人物類型を、民衆の祝祭や宮廷のお抱え道化(jester)、ブラントの『阿呆船』やエラスムスの『痴愚神礼讃』に遡る「愚者文学」の系譜、シェイクスピアの戯曲、サーカスの道化(クラウン)の寸劇、はてはスラップスティック・コメディのなかに位置づけ、それが今日に至るまで持続的に存在してきたし、われわれの社会に大きな影響を与えてきたことを数多くの事例で説明しようとするものである。ウィリアム・ウィルフォードがいう道化=愚か者の基本的な特性は以下のようなものである。
① われわれが「愚か者」(フール)とみなす人々の振る舞いを見ると、ほとんどが心的機能の異常や偏奇を示し、そういう仕方で世界を経験したり、行為したりすると理解されてきた。今日なら様々な精神病理学的な症候であるものが、一様に「愚行」だとみなされてきた。
② 愚か者は、愚かであるだけでなく、しばしば不器用である。他の人間からみれば当たり前の秩序に従って、知覚したり、理解したり、行為したりすることができない。論理的に考えるべきときにそうせずに、論理など必要ないときにいたずらに論理的になったりする。
③ 愚か者は、ユングが言うところの「内向的」類型である。彼は外に向かって開かれているというよりは、自分の内側に向いている。彼はしばしば重い沈黙に包まれ、何を意図しているのか知りようがないというところがある。ウィリアム・ウィルフォードは、そのような沈黙が、一般人の理解できない言葉を突然語りだす「異言」と同質なものだとみなしている。この場合は、なにか高次の力による憑依のようにも思えて、神秘的ですらある(マルクス兄弟の喋らないハーポは、最も幼児的な行為を繰り返すが、どことなく神秘的だ)。
④ 愚か者は、自分自身の存在に強く固執するがゆえに、過剰に存在的である。しかし同時に、空っぽであるがゆえに、あまりにわずかしか存在していない。だからか、愚か者の振る舞いは、しばしば半–演技的に見える。
⑤ 道化としての愚か者という観点において最も重要なことは、多くの人が指摘していることだが、価値の転倒(転覆性)ということである。愚行(場合によっては「狂気」)は日常生活の限界をはみ出している。そのことによって、愚行が絶えず示すことができるのは、日常の価値観を転倒させることである。
⑥ これはいわゆる「愚か者の勝利」という定式である。「愚か者が勝利するときには、それはノーマルな秩序、彼自身の愚昧、不器用さ、また何をどう為すべきかについての彼独特の考え方にうち勝っての勝利なのである」(『道化と笏杖』57〜58頁)。フールが示す愚行によって、ノーマルな秩序が覆され、自分は正常で賢いと信じている人々こそが、実は愚かなのだということを認めさせることになる。ご存知の通り、これはソクラテスにまで遡る「無知の知」の逆転のロジックである。
映画は愚行を愛する
人類の長い文化史をたどれば、比較的最近、映画の誕生とともに、スクリーンで「愚か者」をしょっちゅう目にするようになった。特に「愚か者の勝利」〔おバカさんの勝利〕は、ハリウッド映画が最も愛する10の物語プロットのうちのひとつだというのが、気鋭の脚本家ブレイク・スナイダーが説くところだ。ここでは、ブレイク・スナイダーが主人公を「政治的なフール」に分類しているハル・アシュビー監督『チャンス』(1979)と、「社会フール」に分類しているロバート・ゼメキス監督『フォレスト・ガンプ/一期一会』(1994)を取り上げてみよう。同じ「愚か者の勝利」といっても、この二本の映画を細かく見てゆくと、かなり違ったものだということがわかるだろう。
神にいたる道化:『チャンス』を観る
『チャンス(原題:Being There)』予告編
(1)映画はワシントンのさほど広くはない屋敷から始まる。その屋敷内に生まれ長年屋敷で庭師の仕事をしてきた中年の男チャンス(ピーター・セラーズ)は、いつものように朝起きると早速テレビのスイッチを入れ、外界との唯一の接点であるテレビの画面を眺める。彼は生まれてこの方、屋敷から一歩も外に出たことがないのだ。そのうえ、チャンスは東西南北すらわからない「愚か者」あるいは「白痴」(idiot)なのである。彼の愚行はといえば、まったく無害にも、四六時中見ているテレビのなかのジェスチャーを真似することだ。その日、主人が亡くなり、弁護士によって家から立ち退きを宣告されたチャンスは、生まれて初めて屋敷から首都の猥雑なダウンタウンへ出てゆく。
(2)この映画では、チャンスに遭遇する人々はチャンスが語ることを文字通りには受け取らず、なにかそれ以上のことを暗示するものと思い込む。しかし、チャンスは文字通りにしか語っていないし、彼には自分の発言を別様に理解させるという能力はまったくない。チャンスはテレビで見たばかりの者の「ふりをする」のだが、同時にチャンスはただあるがままに「そこにいる」(Being There オリジナルタイトル)だけである。彼の発言に隠喩的な意味(賢者の教訓、深遠な真理)を読み込みたがるのは、周囲の人々の欲望なのだ。人々の転移的な欲望がチャンスを「知っているはずの主体」(ラカン)の位置に立たせている。
(3)最初にこの感情転移にとらわれるのは、財界の大物ベンジャミンである。信頼できる後継者のいないベンジャミンの密かな欲望は、自分が死んだ後も生き続ける法人資産を託す資本の代理人を発見することである。ベンジャミンは死の床で終にチャンスにそれを見いだす。若妻であるイブ(シャーリー・マクレーン)をチャンスに託すこともでき、思い残すことはない。
(4)最初は半信半疑であったイブは、瞬く間にチャンスの虜になる。チャンスとイブのロマンスは、厳密に言えばロマンスではなく、イブの一方的なヒステリー的妄想である。チャンスは「性的なこと」を何一つ知らない。テレビはキスまでは教えてくれるが、さすがにセックスのジェスチャーまでは教えない。ラカンのテーゼ「性的な関係はない」を否が応でも想起せずにはいられない(第8講参照)。
(5)ベンジャミン邸で偶然チャンスに会った大統領は、チャンスが自分にとっていずれ脅威になるかもしれないことを漠然と感じ、不安になる(陰性転移)。出自のまったく分からないチャンスのことが四六時中頭を離れず、FBIやCIAを巻き込んで情報源を探させるが何も見つからない(チャンスには出生届すらない)。大統領の苛立ちは頂点に達し、夫婦のベッドへも影響する。
(6)アメリカ権力の真の由来:ベンジャミンの葬儀のシークェンスでは、アメリカの権力の所在が大統領にはなく、大統領などフリーメーソンである財界人たち(ベンジャミンの私設墓地はピラミッドに巨大な目という意匠である)の恣意的な決定によるものであることが暴露される。そこでチャンスの名前が大統領候補に上がるのは、チャンスの有能さからでは毛頭なく、彼の象徴的な無記名性という点、いわばその「空虚さ」からである。愚か者が大統領になるかもしれない究極の勝利が、チャンスのゼロ存在に発していることの痛快さ(ドナルド・トランプが大統領になってから、この風刺は著しく力を失ったが)。
(7)ところで、この映画にはチャンスが本当は単なる庭師であるということを「知っている」者が二人いる。屋敷に住んでいた黒人家政婦のルイーズとベンジャミンの私設医師である。幼時からチャンスのことを知っているルイーズは完全に転移を免れている。テレビに登場するチャンスの姿を見て、それをアメリカにおける無能なる白人支配の徴候と受け取る。独自な探偵的調査によって真相を「知っている」医師は、イブが本当にチャンスを愛しているのを察して、ベンジャミンにチャンスの真の姿を伝えることを断念する。
(8)最後のシーンに至ると、「愚か者の勝利」は、もはや人間の領域を超えたものになる。チャンスは池の傍らに植えられている木の枝を直し、その後でやおら池の上を歩いていく。少しいったところで自分が歩んでいる池の深さを雨傘で測り、疑う様子もなく、池の真ん中へと去ってゆく。チャンスは終にイエスと同じ位置にある。観客にとってこのシーンは、奇跡に立ち会わされているバツの悪さを感じさせる。奇跡とは、言い換えれば、「神」のカラクリのことだ。つまり、「神」は人々の欲望によって造り出されるのだが、その場所を占めるのは空っぽな者であること、ただそれだけである。だからこの映画は「神」は純粋無垢な者ではあるが、あくまでも「愚か者」(そしてあきらかに精神病者)だと暗示していることになる。これは、すさまじい転覆性ではないか。
天が許し給う愚行:『フォレスト・ガンプ/一期一会』を観る
『フォレスト・ガンプ/一期一会(原題:Forrest Gump)』予告編
(1)映画はアラバマ州グリーンボウ生まれのフォレスト・ガンプ(トム・ハンクス)が自分のストーリーを語るというところから始まる。フォレストは人よりも知能指数が低い少年として登場する。そのフォレストの愚行も、これまたまったく他者に危害与えるものではなく、ただひたすら走るということである。これは偶然の産物だったことが映画の始まりで示される。幼い頃、背骨の歪みで脚装具なしではうまく歩けなかったフォレストが、同級生のいじめに会い、生涯のあこがれの人であるジェニー(成長した姿はロビン・ライト)から、「逃げて」といわれ、思わず駆け出してしまうことに始まる。
(2)いったん走ってみれば、だれよりも脚が速く、走ることがフォレストにはほとんど天性であった。その後、その脚力とスピードでアメフト選手にスカウトされて「大学生」になる。ベトナムの戦場では、またしてもその脚力で負傷した戦友を次々と救い出し、勲章をもらう。友情に篤いフォレストは戦場で亡くなった友の遺志をついで、海老取り漁を再開し、いつの間にか巨万の富を築いてしまう。しかし、フォレストの人生の大半は、ジェニーを思うことに費やされている。アメリカ大陸を理由もなく何度もジョギングで横断するという「愚行」のさなかにも、別れたジェニーのことを思い続けている。やがて、キャップに髭面でただひたすら走るフォレストに求道者の面影を見る人々が彼の後につき従ってジョギングするようになる。それがテレビや雑誌でも取り上げられるようになり、一躍時の人になる。
(3)一方、ジェニーの半生はフォレストとは対極の道をたどる。幼時に父親から性的な虐待を受け、それが彼女の自立を早める。50年代の女子大時代にはトラッドな恋愛をそれなりに実践していたのが、60年代にはジョーン・バエズのようなフォーク歌手をめざすもうまくいかない。ブラックパンサー党の反戦活動、ヒッピー的生活、フリーセックス、ドラッグパーティーと戦後アメリカのリベラルなカウンタカルチャーの影響をすべて被って、その申し子のような人生を送ってきた。その間に人生に疲れて一度フォレストのもとに戻ったジェニーは、一夜限りのセックスでフォレストの子供を身ごもる。やがて、人生の最期を覚り、フォレストと結婚して二人の間の息子を彼に託すのが、HIVに感染して余命幾ばくもないという80年代のこと。ジェニーの側からこのように映画をたどれば、けっきょく愚行を繰り返してきたのはジェニーの方であって、だからフォレストのように愚鈍であっても、愚直な生き方が実は賢いのだと、観客がそう信じないわけはない。
(4)だが、フォレスト・ガンプの転覆性は、チャンスに比べてはるかに低い。フォレストの「勝利」自体が、幸運な起業家が富豪になる道筋とあまり変わらない。ジェニーとの関係も、すぐに離れ離れになってしまうが、最後は固く結ばれるというハリウッド的な異性愛物語のプロットに収まってしまう。映画の冒頭で天から白い羽根が舞い降りてきて、ラストで再びその羽根が天に舞い上がるという描写があるが、これはあまりにあからさまな天使の祝福だ。フォレストはあらかじめ天に選ばれているかのようだ。それはフォレストが愚か者ではあっても、秩序にとっては順応的で、危険な要素がまるでないからだろう。
(5)ここでは、あえてジェニーの「愚行」に言及すべきだろう。ジェニーの愚行は、勝利することなく挫折に終わるまったくの徒労である。映画から読み取れるのは、ジェニーの愚行が、アメリカ自由主義はそこまでは許容するが、それを越えたらすぐさま介入するだろうというラインを示していたこと、つまり自由主義の境界線上であらかじめ挫折を約束された「造反」だったということだ。それが真の転覆性を持つには、何かが欠けている。別の言い方をすれば、アメリカのカウンタカルチャーが一度として革命的なものにならなかったのは、「愚かさ」が転覆的になるまで、突き詰められていなかったからではないか。ロバート・ゼメキスにそのことを描くつもりはなかったが、ジェニーの愚行は、少なくともそれに気づかせてくれる。
文献一覧
ミル『自由論』(斎藤悦則訳)講談社古典新訳文庫、2012年
ウィリアム・ウィルフォード『道化と笏杖』(高山宏訳)、白水社、2016年
ブレイク・スナイダー『10のストーリー・タイプから学ぶ脚本術』(廣木明子訳)、2014年、フィルムアート社
田辺秋守プロフィール
日本映画大学 教授、専門は現代哲学・現代思想・映画論。
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻博士課程満期退学。ボッフム大学、ベルリン自由大学留学。
著書に「ビフォア・セオリー 現代思想の〈争点〉」(慶應義塾大学出版会、2006)。共訳書に、ベルンハルト・ヴァルデンフェルス著「フランスの現象学」(法政大学出版局、2009)。
『カンゾー先生』(今村昌平監督、1998)ドイツ語指導監修。週刊「図書新聞」映画評(「現代思想で読む映画」)連載中。WEBではCinemarcheで講義「映画と哲学」を連載。