連載コラム『タキザワレオの映画ぶった切り評伝「2000年の狂人」』第3回
今回はご紹介するのはフランスのドキュメンタリー『リトル・ガール』。
毎年11月20日に行われる、トランスジェンダーの人権と尊厳について考え、社会に対して主張や運動を行う世界的な記念日「トランスジェンダー追悼の日」。
今年2021年には日本でもトランスマーチが大々的に行われ、新宿に400人もの人々が集まりました。
そんな記念日に公開を合わせてか、未成年のトランスジェンダーが直面する困難や彼女を支える家族の姿を描いた映画『リトル・ガール』が11月19日(金)より、全国順次公開となりました。
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映画『リトル・ガール』の作品情報
【公開】
2020年(フランス映画)
【原題】
Petite fille
【監督】
セバスチャン・リフシッツ
【作品概要】
フィクションからドキュメンタリーへと移行しながら、一貫して社会の周縁で生きる人々に光を当ててきたセバスチャン・リフシッツ監督は、カンヌ、ベルリンをはじめとした世界中の映画祭で高く評価されている。
本作『リトル・ガール』も2020年ベルリン国際映画祭で上映後、様々な映画賞を獲得し続けている。また、劇場の封鎖されたフランスでは、同年12月にテレビ局ARTEにて放送。視聴者数1,375,000人、その年のドキュメンタリーとしては最高視聴率(5.7%)を獲得。オンラインでは28万回以上の再生数を記録し、大きな反響を呼んだ。
映画『リトル・ガール』のあらすじとネタバレ
フランス北部、エーヌ県に住む少女・サシャ。
母親、カリーヌによると、出生時、彼女に割り当てられた性別は“男性”だったが、2歳を過ぎた頃から自分は女の子であると訴えてきたと言います。
しかし、学校はサシャを女の子として扱うことは出来ないという見解を出し、スカートを穿いての通学を認めませんでした。
さらに女の子の多く通うバレエ教室では、サシャだけ男の子の衣装を着せられる羽目に。
まだ幼く自分の身を守る術を持たないサシャの代わりに、母親のカリーヌがありのままのサシャを受け入れてもらえるよう、学校や周囲へ働きかけます。
しかし学校の態度はサシャに対し、独善的な不寛容に徹していました。
ワンピースを着たがるサシャに対し、男の子として振る舞うよう強制し、男子からは「女っぽい」と言われ、女子からは「男のくせに」と疎外されてしまいます。
幼いサシャを囲う社会は彼女が彼女らしく生きる障壁となっていました。
カリーヌは精神科医の診断書をもらい、彼女が病気ではないこと、異常ではないことを学校に証明します。
映画『リトル・ガール』の感想と評価
自分とは異なる他者に対し、不寛容で無関心な悪意ある差別主義者の間にも、LGBTQIA+が性的マイノリティを指す言葉であると浸透してきた2020年代。
本作が日本で公開された意義を見出すとすれば、それは社会的認知が広がりつつあるという証左になったことでしょう。
フランスに住むごく普通の女の子が、トランスジェンダーという属性を持つだけで社会的に不利な状況に貶められ、偏見に基づく差別、社会構造が彼女に対し差別をもたらすなど、あらゆる困難に直面することになります。
子どもが辛い理不尽な目に遭っているところを見るだけで胸が締め付けられるような思いになる本作ですが、それと同時に当事者でない観客にとってはある種罪悪感を感じる一幕もありました。
本作が最も訴えているのは、シスノーマティブな社会への問題提起。
つまり割り当てられた性別と性自認とが合致していて当たり前だという概念は、無自覚なシスジェンダーが無自覚ゆえに一般化してきた通説に過ぎないということ。
本作においては(日本では珍しいほどに)字幕監修やパンフレット、宣伝に至るまで、ジェンダーの問題に対し、真摯に向き合っていました。
マイノリティへの目線
“性別違和”という言葉も少し前までは性同一性障害という心の病気と混同されやすい表現がなされていた事に対する是正であり、日本においてはトランスジェンダーの定義がテレビ番組のイメージなどから先行して”ニューハーフ”や”オネエ”、”女装家”と誤解されているのも事実。
本作を通して、ジェンダーについて学ぶという姿勢は、映画鑑賞の動機として挙げられやすいところではありますが、今回の記事ではそれに対して批判的な立場を取ることをこの場で断らせていただきます。
まず言うまでもない大前提ですが、マイノリティとは学びや理解を得るための教科書ではありません。
個人が持つ属性の一つに過ぎず、社会から虐げられている人だから善人、腫れ物に触るように扱わなければいけない特殊な人でもありません。
ただの人です。
本作のサシャが直面する困難を通して、トランスジェンダーが不利益を被る状況に対する理解が得られたり、マジョリティであるシスジェンダーが無自覚に受容している特権性に気付くこともあるでしょう。
特に性別を強調されない(無徴とされる)男性の方がサシャの状況に対して同情以上にシス男性であることに対する原罪のような後ろめたさを感じる
ただ前述した通り、彼女はマジョリティにとって都合の良い教材ではありません。
同情を誘う道具では無いはずです。
しかし本作のドキュメンタリーとしての作りは、カメラが透明で聞き手として存在している(はずの)監督は登場ないのです。
「ありのままの姿」を捉えているようで、実際サシャの顔のすぐ隣にはカメラがあり、劇中の彼女の振る舞いはカメラがあることを意識した上で行われているという事実。
「ありのままの姿」として撮影された映像をトランスジェンダーに対し理解ある監督が、サシャに感情移入する形で不寛容な社会の欺瞞、それを乗り越えようとする家族の連帯という味付けをし、ドキュメンタリーをドラマチックに仕上げているのです。
被写体が未成年のため、公表をはじめとした自己決定も1人で行えず、母親の助けを必要としている以上、彼女の将来を考えた配慮は少なからずなされています。
しかし発達途中である彼女の姿を捉え、それを作品として公開してしまった事実は、幼い当事者を教科書に仕立て上げてしまったという問題があります。
アクティビストではない、個人の自由だけを主張しているサシャはロールモデルになることを表明していません。
カメラはサシャ本人にピントを合わせていながら、そこに母親や監督などの目線が介在してしまっていることは被写体が未成年の当事者である点から批判的に語らざるを得ません。
またカリーヌの口から間接的に語られるものが多く、彼女が直接差別や偏見の目に晒されている場面は映されません。
問題提起には直接描いた方が訴求力があったかも知れませんが、そこまで残酷な現実を見せられたら、晒される彼女自身も観客も耐えられなかったでしょう。
しかしその割には作中、着替えや水遊びなど、彼女のプライベートな部分をアップし過ぎている箇所が多々見受けられました。
完成した作品は結果として変にプライベートに干渉する割に直接的な差別に遭い傷つく場面などに関してはセンシティブな距離の取り方をしている奇妙なバランスになっていました。
もちろん、サシャがトランスジェンダーを知る教材になってしまないよう作り手の配慮でしょう。
しかしそれは不十分でしたし、ルッキズムに基づく差別の比較的少ない二次性徴前のトランスジェンダーを取り上げたことで本作を鑑賞した観客の一部に「女の子にしか見えない」という二重構造の差別を生み出させてしまっていました。
本作が公開されてしまったという事実に対する批判をしましたが、本作の良いところは政治的に正しい振る舞いや態度を一方的に押し付けていないところ。
悪意のある差別に対し、画面越しに明確な怒りを伝えてはいるものの、娘の性別違和に困惑し、自分を責める母親やサシャを理解できない友だちに正しい理解を「教えてあげる」わけでもなく、ガイドラインを引いてあげることもしない。
それでも親心や友情が彼女のありのままを受け入れる手助けとなり、尊重できる関係性を築き上げいきます。
間にカメラが入っているとは言え、監督をはじめとした作り手の介在を越えて、人と人とが互いを尊重し合える関係性を構築していくさまは自然発生的に起こりうる可能性に気付かせてくれる場面には、画面越しに彼らの成長を見守るしか出来ない観客に感動を与えました。
理解の入り口はエンタメにこそある
参考映像:『スーパーガール』(2016)に登場するドリーマー
サシャの部屋にはマイリトルポニーや12インチの着せ替え人形が沢山あり、並べるように飾られていたのはスーパーガール、ワンダーウーマンなどDCコミックのキャラクターたち。
本作には直接関係しない話題ですが、 DCコミックに関係づけて今年シーズンフィナーレを迎えたドラマ『スーパーガール』(2016)にはテレビドラマ史上初となるトランスジェンダーのヒーロー、ドリーマーが登場し、役を演じたニコール・メインズが当事者としてドラマでの出演、6月のプライドコミックへの寄稿など幅広く活躍しました。
女優として、日本未公開のトランスジェンダーによるヴァンパイア映画『Bit』(2019)や『スーパーガール』シーズン4(2018)以降に出演する前から、ニコール・メインズはトランスジェンダーの生徒が性自認に従って更衣室やトイレの使用に関する権利のために活動していました。
本作では母親のカリーヌが抽象的に語っていたのみの「学校がトランスジェンダー女性を女性として扱わない対応」とは、女子トイレ、更衣室の使用を禁止し、職員トイレや最悪男子トイレを使わせてようとする人権侵害を指していました。
メインズは学校を訴え、2014年に勝訴。学校の処置が人権侵害にあたるということを証明しました。
こういった前例が法的な場で少しずつ積み重ねられることで、これからのトランスジェンダー当事者の子ども、学生がこれ以上不自由な思いをしないよう、彼女たちの尽力によって状況は少しずつ改善しており、本作のサシャ同様、将来に微かな希望を見出すことが出来ます。
まとめ
今回はトランスジェンダー追悼の日にあわせて、映画『リトル・ガール』をご紹介しました。
幼い子どもが構造的な差別によって理不尽な目を遭う様子が描かれるため、観ていて非常に辛い思いをする作品です。
しかしながら、彼女を支える家族が血のつながりや目に見えない絆に囚われず、両親は娘が自由に過ごせる日々のために、兄は妹と普通に過ごせるようにと、それぞれの奮闘があり、彼らが連帯によって本来享受すべき当然の権利をようやく手に入れる様には(マイナスがゼロになっただけとは言え)前向きな気持ちになれます。
監督のサシャへの配慮、日本での宣伝においても、批判的な視線を排除せず、問題意識を保つ努力が見られ、成長したサシャ本人の意思によっては本作品が回収され、公開禁止になるなど、最大限本人の意思が尊重されると対外的に示すことで、彼女を教科書として扱わなかったことが後追いとは言え証明されるでしょう。
現状、全体的な評価は持ち越しとなりましたが、本作を希望を見出せる物語として受容できるかどうかは、今後の現実社会にかかっています。
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タキザワレオのプロフィール
2000年生まれ、東京都出身。大学にてスペイン文学を専攻中。中学時代に新文芸坐・岩波ホールへ足を運んだのを機に、古今東西の映画に興味を抱き始め、鑑賞記録を日記へ綴るように。
好きなジャンルはホラー・サスペンス・犯罪映画など。過去から現在に至るまで、映画とそこで描かれる様々な価値観への再考をライフワークとして活動している。