こんにちは、映画ライターの金田まこちゃです。
このコラムでは、毎回サスペンス映画を1本取り上げて、作品の面白さや手法について考察していきます。
今回ピックアップする作品は、第22回ホラー小説大賞受賞作『ぼぎわんが、来る』を、2010年に映画『告白』を大ヒットさせた中島哲也監督が豪華キャストで映像化した作品『来る』です。
この『来る』ですが、賛否両論が巻き起こっているようで、賛否が分かれる要因として「この映画はホラーなのか?」という点のようです。
ホラー小説大賞受賞作を映像化したのだから「当然映画もホラーなのでは?」と思う人も多いでしょう。
しかし、映画版は人間の面白さを強調した、サスペンス的な面が強い映画となっています。
そこで、今回は原作の『ぼぎわんが、来る』と映画『来る』の違いを比較していきたいと思います。
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映画『来る』のあらすじ
東京の製菓会社で働くサラリーマン田原秀樹は、恋人の香奈と結婚し、大勢の友人や同僚に祝福される幸せな結婚式を挙げました。
その後、香奈は子供を身籠り、秀樹も育児に参加する為の準備を進め、育児に参加するパパと交流する目的で、イクメンブログを開設します。
全てが順調に思えたある日、秀樹の会社に謎の来訪者が訪れます。
取り次いだ後輩の高梨から「知紗さんの件で」と伝言を受けた秀樹は、まだ生まれてもおらず、誰にも話をしていない知紗の名前を出された事を不審に感じる秀樹。
来訪者は結局姿を見せず、取り次いだ高梨は体に謎の傷を負い、大量の血を流して倒れます。
秀樹に蘇る幼少の記憶。
秀樹は幼馴染の少女から「自分は連れて行かれる、秀樹も嘘つきだから連れて行かれる」と伝えられていました。
「何に?」と質問する秀樹に少女は答えません。
高梨が謎の負傷をし、入院して会社に姿を見せなくなってから2年後、娘の知紗が生まれ、秀樹は災いから家族を守る為に、家の中にお守りや、お札を貼っていました。
しかし、ある日秀樹が帰宅すると、お守りやお札は切り裂かれており、秀樹は忍び寄る「何か」の存在を感じます。
秀樹は友人の民俗学者、津田大吾に相談し、津田の知り合いのフリーライター、野崎を介して霊媒師の比嘉真琴を紹介されます。
真琴と野崎の協力を得て、一時は安心した秀樹ですが、「何か」は真琴の予想を超える程、強大な力を持っていました。
次第に真琴の力では、どうする事もできなくなります。
そこへ、日本最強クラスの霊媒師で真琴の姉、比嘉琴子が現れ、日本中の霊媒師を集め「何か」を封じる為の戦いを開始します。
映画と原作の違い①「映画版はホラー作品ではない」
原作小説の『ぼぎわんが、来る』は、民間伝承に基づいた化け物「ぼぎわん」が、現代社会に生きる秀樹の一家を狙い、秀樹に関わる人達も次々と襲われるという恐怖を描いた作品です。
しかし、中島哲也監督は、『ぼぎわんが、来る』の原作を読んだ際に、「ぼぎわん」の恐怖よりも、登場人物に興味を持ち「この人たちを実写にしたらどうなるんだろう?」と考えた事が、映画版製作のキッカケとなりました。
その為、『来る』は中島監督としては「ホラー映画を作った」という認識ではなく、「人間ドラマ」を作ったという認識で、本作で強調されているのは「人間の面白さ」です。
中島哲也監督は、乾いた印象の、毒のある表現が特徴的で、本作の結婚式のシーンは、まさに本領発揮という印象です。
挙式する側と招かれた側の温度差を、悪意たっぷりで表現しています。
また、原作の人物像を映像化する為に、キャスティングにもこだわっており、中島監督は野崎を演じた岡田准一さんの「芯が強い正義の人ではなく、虚ろな部分を見てみたい」と考え、引き出す事にこだわりました。
撮影が進むにつれて、岡田さんが野崎を掴んでいく様子を目の当たりにし、中島監督は手応えを感じたそうです。
逆に秀樹を演じた妻夫木聡さんには「キャリアがあるのに、貫禄が無く軽い」という印象を受け、その軽さを徹底的に反映さえ、秀樹のキャラクターを作り上げています。
岡田准一さんの「虚ろ」と、妻夫木聡さんの「軽さ」対照的ともいえる2人のキャラクターが、中島監督の考える「人間の面白さ」を強調しています。
そして、松たか子さん演じる比嘉琴子が登場して以降、原作では琴子と野崎が2人で「ぼぎわん」との戦いに挑みますが、映画では霊媒師大集合で行われる、大掛かりなお祓いシーンに変更されています。
中島監督は「面白いライブを観たと思ってもらえれば」と語っており、恐怖よりも面白さや楽しさを優先させている為、ホラー映画として身構えて観賞するより、何も考えず、純粋に楽しむエンターテインメント作品となっています。
映画と原作の違い②「映画版は現代の空気や問題を強調している」
原作小説の『ぼぎわんが、来る』では、秀樹達の家族が、ぼぎわんに狙われる理由は、祖父母の代に関連する「ある出来事」でした。
しかし、映画の『来る』では、正体不明の化物に狙われる理由は、秀樹と香奈の夫婦間に原因があり、この原因は「現代社会の問題」とも呼べます。
スマホが普及し、誰もが場所を気にせずに、自分の時間を過ごせるようになった昨今、カフェやファミレスなどで、恋人や友人同士が無言でスマホをいじり、自分の世界に入っている光景を目にした事はありませんか?
共同体の意識が崩壊した現代社会で、その個人の隙間を狙ってくる存在が、本作の「何か」です。
「家族を大事にすれば防げる」というのは、原作も同じですが、映画版は更に「共同体の崩壊」を強調する為、一部のキャラクターが、原作では踏み越えていない一線を超えてしまっています。
特に香奈のエピソードがメインになる第二部は、「全員が、自分の立場と正当性だけを主張する」という日本社会の嫌な部分を強調する展開となっています。
映画と原作の違い③「化け物の正体」
原作小説のタイトル『ぼぎわんが、来る』から、『来る』に変更されている通り、映画版では襲ってくるのは「ぼぎわん」ではなく、「何か」としか分かりません。
原作では、「ぼぎわん」の名前の由来や正体、姿形までハッキリと描かれており、秀樹達の家族が襲われる理由も含めて、全てが分かっているからこその恐怖を感じる展開となっています。
「人間の面白さ」を強調した、映画版の『来る』は、全体のバランスを考えてか、化物の正体を探る展開は無くなっています。
だからこそですが、本作には「人間関係を大事にしないと、よく分からない化物に狙われるぞ」という、中島監督の現代社会に向けた、化物を用いた警告のように感じます。
まとめ
小説の『ぼぎわんが、来る』と映画『来る』は、別の楽しみ方をする作品だと言えます。
原作者の澤村伊智さんは、「原作をそのまま映画にするのは難しい」と感じ「怖くて面白い映画にしてください」と伝えたそうです。
澤村伊智さんは「怖い話って、怖がっている人間の話」と語っており、何を怖がるかは人間の捉え方次第という所があります。
映画での怖さの主軸が「人間」に変わっていますが、これは中島監督の恐怖の対象が人間だったからでしょう。
『来る』は、「何か」に狙われる単純な恐怖や、人間関係の不愉快さ、「何か」に立ち向かう琴子と霊媒師の戦いを素直に楽しむなど、怖いだけじゃない、人によってさまざまな楽しみ方ができる作品です。
澤村伊智さんも、映画の完成度に満足しているようですね。
ただ、原作の民間伝承や古い文献から「ぼぎわん」の正体を探り、組紐や銅鏡などを使って戦う展開を「映像で見てみたかったな」とは思いますが、原作と映画を比較して、いろいろ考える事も観賞後の楽しみ方だと思います。
次回のサスペンスの神様の鼓動は…
ホラー映画『ヘレディタリー継承』を、家族関係を描いたサスペンス映画として考察していきます。