連載コラム「映画道シカミミ見聞録」第50回
こんにちは、森田です。
今回は7月31日(金)よりテアトル新宿ほか全国公開中の映画『君が世界のはじまり』を紹介いたします。
原作はふくだももこ監督の短編小説『えん』と『ブルーハーツを聴いた夜、君とキスしてさようなら』。これを1本の映画に再構成したものが本作です。
ここではその映画化に際して新たに与えられたタイトルに注目し、「君」とはだれで、なにが「はじまり」なのかを読み解くことで、テーマに迫っていきます。
映画『君が世界のはじまり』のあらすじ
舞台は大阪。ある夜更け、住宅地にパトカーのサイレンがけたたましく鳴り響きます。
高校生が父親を刃物で刺し殺したという情報が、無線で交わされています。
いったいだれが、なぜ刺したのか? この町には、退屈で、息苦しい日々を送っている生徒は少なくなく、主人公の縁(松本穂香)とその親友の琴子(中田青渚)もその1組です。
おなじ高校に通う純(片山友希)は、母親が家を出ていき、父との2人暮らしに耐え切れず、ショッピングモールでいつも時間をつぶしています。
純はその屋上で、東京から転校してきた伊尾(金子大地)と出会い、モールの非常階段で衝動的に体を求めあうようになります。
伊尾は伊尾で、父の再婚相手と関係をもちながら、卒業したらこの何もない町を出て、東京に戻りたいと考えています。
また琴子こそ衝動に駆られるタイプで、彼氏をつぎつぎに変えては、授業をさぼって校舎の地下室で煙草をふかしています。
しかし、そこに偶然居合わせたサッカー部の業平(小室ぺい)に一目ぼれしてからは、彼一筋を貫こうと決意します。
サッカー部主将の岡田(甲斐翔真)は琴子に憧れていましたが、自分が彼女の眼中にないことを認識しており、まずは縁に近づき、恋焦がれる琴子の様子をともに複雑な心境で見守っていくことにします。
このように、それぞれ満ち足りぬ6人の男女が、じぶんの“刃物”が飛びださないようにかかわりあうなかで、物語は進みます。
2つのえん=「円」と「縁」
よく青春は「無軌道」と形容されがちですが、彼らの行き場のなさ、途方に暮れる感覚は「円」に近いとみえます。
縁(ゆかり)が琴子から「えん」と呼ばれるのがまさに象徴的です。ふくだ監督はインタビューでこう語っています。
やっぱり自分が当事者であった頃、大人たちが青春をすごくいいものとして、美化して捉えたがるけど、その渦中にいる、しかもすごく世界が狭い自分たちにとっては「大人の思いを描く青春という箱に入れられている」みたいな感覚があったんです。(「ピクトアップ」2020年8月号より)
無軌道に走る若者たちが美化された青春だとすれば、本作では狭い世界で縁(ふち)までの距離を推し量っている高校生たちが描かれているといえます。
ここからは、よりつぶさに“えんの青春”をみていきましょう。
自転車の円
殺人事件の冒頭から間もなく、縁と琴子が自転車に2人乗りして登校するシーンに切り替わります。
なにかのアンサーのように映しだされる「自転車」は、その後の場面でも、橋のうえで琴子の母のまわりを走ってみせたり、校庭に円を描いてまわってみせたりと、重要なモチーフとして登場しつづけます。
この描写は北野武監督の『キッズ・リターン』(1996年)を連想させますが、いずれの自転車も2人をどこか遠くへ運んでくれる、やさしいものではありません。
出口がない環境のなかで、それでもこぎつづけなくては倒れてしまうという「青春の円」を見事にあらわしています。
仲間の縁
自転車が倒れてしまわないもう1つの方法は、片方に「スタンド」を立てることです。
縁と琴子のペアをはじめとし、彼らはその時々に「支え」となる相手と向きあっていきます。
それはいってみれば、群像劇にふさわしい仲間の存在になりますが、縁というものが腐れ縁ふくめ“清濁併せ呑む”ように、“自他を傷つけかねない強烈な希求”がスタンド代わりになることもあります。
単なるやさしさは求めていない、というのは純と父の関係によくみてとれます。
純の父は、ふくだ監督が前作『おいしい家族』で描いた父親像と同様に「母親」と化して、家事を完璧にこなしています。
純がどんなに寝坊しても、また遅く帰ってきても、食事を用意して待っています。
この“やさしさ”に純は“気が狂いそう”になり、混乱したままネットでその言葉を検索すると、ある楽曲を見つけます。
それが、ブルーハーツの《人にやさしく》です。
『リンダ リンダ リンダ』との比較
この曲はタイトルとは裏腹に“気が狂いそう”という歌いだしではじまります。
ブルーハーツの楽曲を重要なモチーフにしている作品は数多くありますが、なかでも山下敦弘監督の映画『リンダ リンダ リンダ』(2005)と本作は比較すべき点があります。
どちらの脚本も向井康介が書いており、編集もおなじ宮島竜治が担当しているからです。
つまり兄妹のような作品だからこそ、その違いをみればテーマが浮かびあがってくるのです。
実際に山下監督は、16年前の自分たちには引きだせなかったもう一つの“青春”が本作には映っている、と述べています。
自分と向井は“青春”というものをどこか疑っていたんじゃないかと思う。若者たちの持つ衝動やエネルギーに照れを感じ、寄り道だらけの物語を作った。(映画公式パンフレットより)
ここから逆に確認できるのは、本作には斜に構えずに、真正面から青春を捉える目がある、ということです。
そして、この姿勢をもっとも的確に示しているのが、夜のショッピングモールのシーンです。
スクリーンを見つめる10の瞳
業平との初デートにこぎつけた琴子でしたが、業平が縁のことを話すのが気に食わず、縁を避けるようになります。
そんな折に、「高校生が父親を刺した」というニュースが報じられます。
その夜、琴子を除く5人は、営業終了後のショッピングモールに忍びこみ、これまで抱えこんできた気持ちを一気に解き放ちます。
生と死の感情が嵐のように吹き荒れる乱痴気ぶりは、まるで『台風クラブ』(相米慎二監督/1985年)の一夜を校舎からモールに移したかのような画です。
ひとしきり騒いだあと、5人はフードコートの椅子に一列に座り、殺人を犯した生徒とじぶんたちはなにが違うのかを語りあいます。
親がうっとうしかったり? 大学どこ行こうか迷ったり? ほんとうは好きなのに嫌いと言ってみせたり?
これら押しつぶされそうな不安を、一人ひとりがカメラ(スクリーン)にむかって問いかけます。
そう、「君」とは最終的に、劇場の暗闇で息をひそめるように座っている、わたしたちまでを指すのです。
はじまりはいつも君
「君」とは“親を殺していたかもしれない私”であり、スクリーンを見つめている孤独な“あなた”である。
催事場に展示されていたギターとドラムセットを手にした彼らは、即席のバンドを組んで《人にやさしく》を演奏しはじめます。
マイクを握る業平は、そこで血まみれの少年を目撃します。
じぶんたちの代わりに、父親を殺したのかもしれない生徒の幻に、業平は「ガンバレ!」と歌詞にあるよう声を張りあげます。
『リンダ リンダ リンダ』ではあえて避けられていた直球。しかも、美化されることのない泥(血)にまみれたストレートです。
翌朝、登校した縁は琴子に想いを告げるべく、逃げる彼女を追いかけます。
雨あがりでぬかるんだ校庭にふたりは突っ伏し、泥だらけになって、ついには笑いだしてしまいます。
世界の開闢を知らせるような笑い声。なにも解決していなくても、これからどうなるかわからなくても、いま、ここで、“君が世界のはじまり”と言えるだれかがいる。
だから、刃物を出すのは今日でなくてもよい。
それまでずっと弧を描いてきた校庭から、ふたりすこし顔を見あげてみると、そこは縁のない空がどこまでも広がっているのでした。