連載コラム「映画道シカミミ見聞録」第47回
こんにちは、森田です。
今回は2020年10月23日(金)全国公開のアニメーション映画『どうにかなる日々』を紹介いたします。
原作者の志村貴子は、学園ドラマや群像劇を中心に、性別や年齢、大人と子どもといった境界で揺れる人々の心や関係を巧みに描くことで定評がある漫画家です。
ここでは、原作からアニメに引き継がれた主題を読み解くとともに、映画化によって際立った作品の魅力や作家性を説明していきます。
CONTENTS
劇場版『どうにかなる日々』のあらすじ(2020)
本作は『放浪息子』や『青い花』などで知られる志村貴子が、それら代表作と並行して2002年から2004年に発表した同名オムニバス漫画をアニメーション化したものです。
元恋人の結婚式で出会ったふたりの女性が惹かれあう「えっちゃんとあやさん」、男子校の教師が生徒に告白されて翻弄する「澤先生と矢ヶ崎くん」、思春期の小学生とAVに出演した従姉が一時的に同居する「しんちゃんと小夜子」、その続編で幼なじみの中学生がしんちゃんに想いを募らせる「みかちゃんとしんちゃん」の4編が原作から抜粋されています。
そして、各話のタイトルには、原作の英題である“Happy-Go-Lucky Days”からとられた4つの単語があてられています。
ここから、それぞれのエピソードで描かれる関係とテーマをみていきましょう。
4つの物語とキーワード
1.「Happy 出会い」
“そういうワケで、ファーストキスは女の子なんだけど”というモノローグではじまる第1話は、「同性の関係」やふたりを結びつける「性」、そしてそれらを特別視するわけでない「フラットな視点」といった全編に通底する特徴を最初に示しています。
語り手のえっちゃん(cv.花澤香菜)が高校生だったころ、思い出に残るキスをしてみせた百合(cv.早見沙織)は、いつのまにか男性と結婚していました。
式場の化粧室で、涙を拭っていたえっちゃんのまえに、百合の短大時代の彼女のあやさん(cv.小松未可子)が偶然にも居合わせます。
元恋人からおなじ傷を負わされたふたりはすぐに心を通わせ、時を待たずに付き合いはじめました。
進展が早いことや、一夜を過ごすまでのコミカルなやりとりをみると、ここでは性が対象でありながら過剰な重みは与えられていません。
この「特別なものではない」という感覚は、決してそれを軽んじているわけではなく、その後のふたりの初々しい生活を垣間見るとわかりますが、「あたりまえに大事なこと」なのです。
体を重ね、「百合って結局、何だったのかしら?」とあやは何気なく問いかけます。
答えは手にしたマグカップの湯気のごとく宙に浮いたまま、彼女はまた口を開きます。
「でもえっちゃんと会えたわ。」
2.「Go 出来事」
第2話の舞台は男子校です。卒業式の日に、教師の澤(cv.櫻井孝宏)は生徒の矢ヶ崎(cv.山下誠一郎)に「先生のこと好きなんですけど」と告白されます。
前話につづき、また淡々とした切り出し方ですが、澤の心は静かに波立ちます。
しかしこれは昨年の話。その後ふたりのあいだにはなにも起こらず、澤は妄想が過ぎたと思い込み、またとくに感慨もない卒業式を迎えます。
そして教員たちと行った居酒屋で、偶然にも働いていた姉と再会した澤は、姉が恋人と同棲している家に招かれ、夜を明かします。
恋人が矢ヶ崎と似ていたこともあり、酔っぱらった澤は枕元で姉がぐるぐる踊る夢をみて、翌朝姉にこう語ります。
「ほんとはおれも入りたい。ぐるぐるまわる輪の中に。」
毎年変わらずやってくる卒業式。澤が代り映えのない日々に求めていたのは、そこから抜け出すことではなく、むしろ積極的に近づくことでした。
そこで澤は、卒業証書を渡し終えたあと、今度は「謝恩会やりませんか?」と呼びかけてみました。
するとクラス全員の男子が付き合ってくれたのです。澤が生徒たちを連れて青空を歩くシーンは、言葉にならない彼の快感をよくあらわしています。
3.「Lucky 変化」
女性、男性の物語を引き受けて、第3話からは少年少女の関係に軸を移します。
小学生のしんちゃん(cv.木戸衣吹)とみかちゃん(cv.石原夏織)は幼なじみ。毎日一緒に夏休みの宿題をしています。
その様子を押し入れから覗き見ているのが、しんいちの従姉小夜子(cv.ファイルーズあい)です。彼女はAVに出演したことで親から勘当され、一時的にしんいちの家に身を寄せていました。
小夜子はしんいちにちょっかいを出し、みかに迫るようけしかけますが、みかも小夜子の存在が気が気でありません。
そして、ついに小夜子のビデオをみてしまい衝撃を受けたふたり。それ以来、しんいちは頻繁に夢精するようになりました。
一方でみかも、ある日しんいちを自宅に誘います。
事もなげに上着を脱ぐみかを、しんいちは「まだ早いよ」と言って制止します。
小夜子は、潮時を見計らっていたかのように、実家に帰ることを唐突に告げます。
いつもの暮らしが戻っても、みかと宿題に取りくむしんいちの顔は晴れず、「今だからいうけど、ぼく、ほんとうは寂しかったんだ」とつぶやきます。
みかは「なんの話?」と返しますが、この“寂しさ”は小夜子が去ったことだけを指しているのではなく、意識しないでも変化していく心と体に対し、すなわち“自分自身との別れ”にも向けられている響きがあります。
小夜子がいなくなったあと、しんいちとみかが言葉少なく沿道を歩くシーンは、刻々と進む「性のめざめ」と「小さな死」を予感させます。
このことはつぎの話で、より具体的に展開されます。
4.「Days 日常」
最後の第4話は、中学2年生になったしんいちとみかが描かれます。
前話の“寂しさ”が示唆していたように、しんいちは寡黙な男子になっていました。おなじように沿道を歩いていても、無駄口はきかずに背中で答えています。
一方でみかは、しんいちへの想いをより募らせ、頭から離れない小夜子のビデオを見飽きるほどに再生していました。
みかの思いの丈に触れるには、「しんちゃん、屈折しちゃったね。……でも、好き」という一言を引くだけで十分でしょう。
文化祭の準備で、しんいちと倉庫に暗幕を取りに行ったみかは、ふたりきりの状況を利用し事に及ぼうとしたものの、胸をさわられて動揺してしまいます。
しんいちの行動が、やはり小夜子の存在を想起させ、みかは彼の煮え切らない態度を責めます。
ため込んでいた気持ちを一気に言い放ったみかは、家に駆けこみ、例のビデオテープを勢いに任せて引きちぎり、「すっきりした」と表情を緩めます。
第2話の教師、澤は“輪に入る”ことで日常を手に入れましたが、みかは“輪(テープ)を裁つ”ことで新たな日常を歩みはじめました。
そして、文化祭でベストカップルに選ばれたふたりには、中学生らしい“ある賞品”が贈られました。
うつむきながら手を取りあうふたり。冒頭と同様に、映画はモノローグで締めくくられます。
「わたしたちは、それを風船に見立てて思い切り膨らます、なんてことはしませんでしたとさ。」
文字どおり地に足のついたラストで、エンドロールの最後にも雑踏の音が鳴り響きます。
以上から、「特別なものではない、あたりまえに大事なもの」という、さまざまな性をめぐる一貫したテーマを本作に見いだすことができます。
漫画を際立たせたアニメ化のポイント
志村貴子『どうにかなる日々』新装版書影
原作者の志村貴子は、本作のアニメ化にこのようなコメントを寄せています。
原作は地味な作品ばかりを集めたオムニバス形式の作品集です。描いてる真っ最中の私は別に地味に作るぞという意気込みで描いてはいないのですが結果的に地味と評されることが多いのです。(映画公式サイトより)
“地味”という評価に触れていますが、ここまでみてきたように、一見するとなんでもない「日常」は、出会い、出来事、そして変化に富んでいます。
また、アニメではどのエピソードにもかならず「歩くシーン」が印象的に挟まれており、平凡に映る登場人物たちが絶えず「ある地点に向かい動いている」ことがうかがえます。
個人の生(性)も、その集合体である社会のなかの関係性も、明確そうにみえてじつは揺れ動いていることを丁寧に描ける志村は、むしろドラマチックな目をもっているといえるでしょう。
漫画では、省略、余白、間などを用いた表現技法により、“視力”の落ちた読者の目に多様な世界や自由な見方を提示しています。
キーワードから浮かび上がったテーマにつづき、原作のもつそのような作家性を、アニメではどのように表現しているのかをみていきましょう。
1.コマ割りとフレーム
原作漫画は、長方形が並んだシンプルなコマ割りによる、平面的な画面構成になっています。
これがおそらく“地味”といわれる1つの理由ですが、それはあくまで見かけの問題で、1つ1つの物語には人々の変化をとらえた劇的な(性的な)瞬間が描きこまれています。
コマ(形式)と物語(内容)のこの対立、緊張関係が、静かだけど心を動かす独特な雰囲気を醸しだしています。
一方、アニメはどうでしょう。映画は決められたフレームのなかで物語が展開します。
漫画にはコマの大小がありますが、映画はいわゆる大ゴマさえないまま、観る者に一連のイメージを届けます。
つまり、劇的な瞬間を背後で演出する平面性や質素さが、アニメにおいてはより顕著になるのです。
2.吹き出しとアフレコ
志村の漫画は“地味”の裏をかえして、吹き出しとコマ枠だけでマンガが成立してしまうと、その手腕を高く評価する声も聞かれます。
コマ枠については前述しましたが、吹き出しはそれとは対照的にいびつな形であったり、はみ出ていたり、どこにかかっているのかわかりづらかったりと、比較的自由に描かれています。
これにより、「枠」の境界で漂う登場人物の心のありかを、切実さを抱えたまま表現する効果が生じています。
あいまいで、居場所の定まらない言葉たち。アニメではもちろん、吹き出しはありません。
そのため、漫画よりも想像力を働かせ、それがいま、どんな形をしているのか、画と声を頼りに探っていくことが求められます。
本作ではとくに、「百合って結局、何だったのかしら?」(第1話)、「謝恩会やりませんか?」(第2話)、「(…)ほんとうは寂しかったんだ」(第3話)、「(…)なんてことはしませんでしたとさ」(第4話)という自問自答が、さまよう彼らの心とともに耳に残ります。
3.文字と肉声
声に関しては、もうひとつアニメ特有の機能があります。
「肉声」という表現があるように、人間の声にはなにかしらの身体性が感じられます。
原作のキャラクターはみな繊細ですが、そこにひとの声が入ると、抑揚や震えといった演技の枠を超え、背後に人間がいるという次元において、その弱さや脆さをいっそう実感できます。
逆にわたしたちが「漫画的だね」というとき、荒唐無稽なストーリーや現実にはありえない出来事を取りあげながら、突き詰めれば「なにをやっても死なない身体」に違和感を覚えているのだと考えられます。
志村作品の魅力の根幹をなすものに、傷つきやすい者たちが、他者を征服しない弱さをもって、だれかと懸命につながりあおうとする性格があることは、言を俟たないでしょう。
声によって生身の身体性が宿るアニメでは、脆弱性に基づくその倫理的な姿勢がより露わになります。
それなりに特別な日常
各話の主題や、原作とアニメの比較から志村作品のポイントをおさえてきましたが、私たちの生きる日常も、こうまとめられるでしょう。
こんなどうしようもない日常でも、その都度の出会いや出来事、また変化を追っていけば、「それなりに特別な日常」になること。
だからいま、無理にその枠を受け入れたり、焦って出たりする必要はないということ。
つまり中途半端でも、その場にとどまっていて、まったく構わないこと。
また、各エピソードに話のピークがないことは、そこで得たものが一過性ではないことと、主人公が住まう世界がそのさきもつづく可能性を提示しています。
実際に、「えっちゃんとあやさん」は『青い花』に、「しんちゃんとみかちゃん」は『放浪息子』に舞台設定を変えて引き継がれています。
どちらもすでにアニメ化されていますので、本作とあわせて彼らの“日常のつづき”もぜひご覧ください。
アニメーション映画『どうにかなる日々』は、2020年10月23日(金)全国公開です。