連作コラム「映画道シカミミ見聞録」第36回
こんにちは、森田です。
今回は3月1日よりテアトル新宿ほかで公開中の映画『Noise ノイズ』を紹介いたします。
秋葉原に代表されるそのノイジーな空間や人間関係にこそ、自分を愛するための契機がある、ということを伝えていきます。
映画『Noise ノイズ』のあらすじ(松本優作監督 2019年公開)
(C)2019「Noise」製作委員会
2008年6月8日、東京・秋葉原で死者7人、負傷者10人を出した殺傷事件が生じました。
ひとりの青年が引き起こしたそれは、のちに「秋葉原通り魔事件」と呼ばれるようになります。
本作はこの事件をモチーフにした、狂気と混乱に満ちた現代社会で生きる人間たちの群像劇です。
松本優作監督は1992年生まれで、15歳のときに経験した親友の自死と、テレビに映し出された秋葉原の無差別殺傷事件に着想を得て脚本を執筆。23歳でついに映画を完成させました。
ここでは作中の“ノイズ”に耳を澄ませて、そこで提起されている問題や、その先にかすかに聴こえる”救済の声”をみていきましょう。
絶望という名の“ノイズ”
(C)2019「Noise」製作委員会
本作では全編にわたって数々の「ノイズ」が聞こえてきます。
まずはなんといっても「秋葉原」の雑踏。そこに「雨」が降れば、ますます鬱陶しくなります。
事件を報じる「ラジオ」の音はどこか孤独で、寂しい響きです。
地下アイドルの美沙(篠崎こころ)が歌う「ライブハウス」での「音楽」も、狂騒と寂寥とが背中あわせになっています。
地上に出ても、「電車」や「バイク」がけたたましく騒音を立てています。
そう、この街の「ノイズ」からは逃れようがありません。
そして、その一角に佇む電話ボックスに、「録音」した脅迫メッセージを警察に送りつける健(鈴木宏侑)がいます。
彼は実際の事件の青年像に近い人物です。中上健次の小説『十九歳の地図』や、永山則夫の『無知の涙』を読んでいる形跡も見受けられます。
3人を悩ますノイズ
(C)2019「Noise」製作委員会
配送員のアルバイトをしている健は、いつも母親の深雪(川崎桜)からお金をせがまれています。
そのたびに僅かな給料の一部を差し出すものの、深雪のつくった借金と未納代により、ついにアパートを追われてしまいます。
健を悩ますノイズは、「孤独」、「貧困」、「ワーキングプア」です。
やはり「秋葉原通り魔事件」の死刑囚を想起させます。
その事件で母親を亡くしたのが、美沙でした。彼女は地下アイドルとして活動する一方で、女子高生リフレで働いています。
残された父親との関係は、うまくいっていません。
美沙にとりつくノイズは、おもに「トラウマ」です。
彼女と似た境遇にあるのが、女子高生の里恵(安城うらら)です。彼女は母親が家を出て行ってしまって以降、父親と会話のない日々がつづていました。
里恵は高校を中退し、最終的に家出をしてしまうのですが、彼女にとってのノイズのひとつはみずからの「性」でしょう。
また美沙と理恵には「父子関係」という乱れが見いだせます。
彼らが抱えるそれぞれの「ノイズ」が、秋葉原というノイジーな場所で混ざりあうとき、いったいなにが起きるのでしょうか。
そこに、あえて「希望」を聴きとってみます。
音楽という名の“ノイズ”
David Bowie『Heroes』/1977
「ノイズミュージック」という音楽の言葉を、一度は耳にしたことがありませんか。
ここでは詳しく述べませんが、それこそ「街頭の音」や「電子音」などを特徴的に用いて、伝統的な音階やポピュラー音楽とは異なる響きをもつ楽曲です。
たとえば、厳密には「ノイズ」とは定義されないでしょうが、ブライアン・イーノ(1948年~)が先駆者とされる「アンビエント・ミュージック(環境音楽)」では、ノイズが心地よく加えられています。
そのイーノがアンビエント音楽を創始する時期にあり、元キング・クリムゾンのギタリストであるロバート・フリップと組んで、デヴィッド・ボウイ(1947~2016)のアルバムを制作したことがあります。
1977年発表の『Heroes(邦題:英雄夢語り)』です。
ベルリンで録音された本アルバムは鋭く、ノイジーなサウンドで構成され、インストゥルメンタル曲も多く収録されています。
ここにはなにが秘められているのでしょうか。音楽家のサエキけんぞう氏によるライナーノーツを引用します。(99年10月発売のアルバムより)
おそらくボウイは物凄いパワーで増殖するノイジーなパンクに対抗し、圧倒的なクオリティを備えながら、かつヘヴィーさ、インパクトではパンクに負けない作品を作ろうとしたのでしょう。
まず「ノイズは力である」ということです。
また楽曲としての「Heroes」の歌詞には、映画『Noise ノイズ』の叫びとも共鳴するところがあります。
それはこのようなメッセージになっています。
「何者も”彼ら”を追い払えはしないけれど 、たった一日だけ 、わたしたちは英雄になれる。 」
健たちの生きる環境は、たしかに、自分ではどうすることもできないものばかりです。そしてまた「何者もふたりを守りはしない」とボウイは歌います。
美沙と父、あるいは里恵と父の関係は、だれも守ってはくれません。
ただそれでも、何者でもなくても、“英雄”になれる。そう、ボウイは歌うのです。
それは秋葉原の事件のように、凶行に及んでしまう危険性がつきまといます。
また、映画のラストで里恵の父は「刑が執行されたから一緒に秋葉原に行こう」と言うのですが、それは娘が求めていた和解の言葉ではありませんでした。
執行はただの「事実」に過ぎず、彼らの「真実」をなにも明かしてはいません。苦悩に満ちた人生はこれからもつづくのです。
ボウイはそれを“何者も僕たちを助けはしないだろう”と冷静にみています。
しかし、そういった現実の厳しさは認めながら、虐げられた者たちがおなじ場所で出会ったとき、それは互いにとってのヒーローになれるという可能性もあるはずです。
それを示すかのように、夢破れた美沙と、犯行を諦めた健は、秋葉原という街でめぐり逢います。
さきほどのライナーノーツのつづきを引いてみましょう。
「ヒーローズ」ではさらに、時代や国というものから簡単に押しつぶされそうになる一人の人間、若者に対して、根源的な蜂起を訴えているようにも思えます。
“ノイズ”にこそ潜む人間性
ミュージック・マガジン8月増刊号/2000年8月10日発行
“ノイズ”に垣間見える可能性というものを、今度はミュージック・マガジン2000年8月増刊号『プログレのパースペクティヴ』を参考にして考えてみます。
本誌には、ジャズにポップス、即興に電子音楽と、数十年にわたりさまざまな音楽に携わってきた先鋭的ミュージシャンであるデイヴィッド・トゥープ(1949年~)のインタビューが掲載されています。
“noise”とは文字どおり“雑じる音”ですが、トゥープは音楽におけるそれをこうとらえています。
「たくさんの音楽がミックスされ、そこからまったく新しい何かが生まれる…つまり変容だ」P49
「ノイズは力」のつぎには「ノイズは変容」です。それを人間に敷衍すれば、「人間は変われる」という状況を指すのではないでしょうか。
「もし、音楽がアイデンティティの表現手段なのだとしたら、できる限り多くのカルチャーやアイディアを包含すべきだし、そうすることでより広い可能性を含めたアイデンティティも確立されるんだ」P50
映画『Noise ノイズ』の登場人物たちはみな“アイデンティティの確立”に悩んでいます。
「ノイズ」が邪魔をしているからとも受けとれますが、逆に“より広い可能性”へ変化を遂げることもできそうです。
たとえば、ビーチボーイズのブライアン・ウィルソン(1942年~)とその楽曲を評して、トゥープはこのように言います。
「“別の生き方もできるかもしれない”という気持ちにさせてくれるところが、とてもインスパイアリングだった。」P55
「実際の彼はサーファーではなく、自宅の地下で曲を書いているシャイな男だった。女の子と話もできない彼が恋の曲を書いていた。つまり、別の自分を想像していたんだ。」P55
本作にも”地下”アイドルが出てきましたが、そこは“別の自分”になれる場所です。
むしろ、ごちゃまぜな空間だからこそ「新しい表現」、すなわち「愛すべき自分」が生まれる契機があるのです。
ということは、一見すると非人間的な社会において「ノイズにこそ、人間性が潜む」といえるでしょう。
またこれが、「明日こそ愛を探せるかもしれない」と謳う本作のコピーの意味するところです。