韓国版ゾンビ映画として話題の『新感染 ファイナル・エクスプレス』が実写映画デビュー作のヨン・サンホ監督。
2017年10月21日より、東京・ユーロスペースにて公開されるアニメ映画『我は神なり』の監督でもある。
『我は神なり』は彼が実写であろうとアニメであろうと良質な作品を作り出す作家である、真骨頂が見られる衝撃の社会告発アニメです!
CONTENTS
1.映画『我は神なり』の作品情報
【公開】
2017年(韓国映画)
【監督】
ヨン・サンホ
【キャスト】
ヤン・イクチュン、オ・ジョンセ、クォン・ヘヒョ、パク・ヒボン
【作品概要】
ダム建設によって水没予定地になった村に補償金目当てで現れたインチキ宗教団体と、その故郷の村に帰ってきた粗暴のトラブルメイカーが真実を叫ぶが警察や村人から相手にされず、男が独りで詐欺集団と対決していく社会告発的なアニメ作品。
実写映画『新感染 ファイナル エクスプレス』で海外から絶賛的な評価を受けたヨン・サンホ監督の長編アニメ第2作。
第34回シッチェス・カタロニア国際ファンタスティック映画祭アニメーション部門最優秀作品賞、第38回アヌシー国際アニメーション映画祭コンペティション部門招待作品、第86回アメリカ・アカデミー賞長編アニメーション部門エントリーなど海外評価が高い作品。
2.映画『我は神なり』あらすじ
ダム建設によって水没予定地となった村。
それにより村人は補償金を手にしてはいたが、先行きの希望はなく、重く運命だけがのしかかっていて、活気の失せた男たちは働きもせず、昼間からマッコリを呑んだり賭け事に興じています。
そんな中、唯一活気に溢れていたのが、村の外れに簡易的に建てられた教会でした。
先の不安に希望を失いかけてた村人は、若い牧師ソン・チョルウを慕って信者となり、ともに祈りを捧げ唱和をしています。
しかし、そのカリスマ牧師と熱心な信徒たちの祈りの場に見えた教会は、長老を名乗る詐欺師チェ・ギョンソクがお布施を搾取するためだけに作られた教会だったのです。
ダム建設で補償金を得て、村を出ていくことを余儀なくされた村人を信徒にして、永住できる安らぎの地となる祈祷園建設を目的にして、信者から補償金だけを巻き上げようと画策していたのです。
ある日、水没することが運命づけられた村である故郷に、粗暴なトラブルメーカーのキム・ミンチョルに帰ってきます。
ミンチョルは理由もなく妻と娘に乱暴な接し方をする男で、娘がソウルにある大学に通うために進学預金も勝手に引き出して使ってしまうような親父でした。
ところが、ミンチョルは妻子や村人たちの通う教会の本当の正体は、詐欺師ギョンソクの陰謀だと察知します。
しかし、警察も村人も札付きの悪であるミンチョルの証言や言い分にまったく耳を傾けず、誰も相手にはしてくれません。
孤軍奮闘するミンチョルは四面楚歌に陥り、“悪魔に憑かれた男”と烙印を押されてしまうのですが…。
3.ヨン・サンホ監督プロフィール
1978年生まれ。デビュー作は1997年の短編アニメ『Dの誇大妄想を治療する病院で治療終了直後の患者が見た窓の外の風景』。
2004年アニメ製作会社ダダジョー設立。
短編アニメ2006年に『地獄、二つの生』、2008年に『愛は蛋白質』は国内外の映画祭に招待されています。
2010年に釜山国際映画祭予告編アニメを演出。2011年に『The King of Pigs』で長編アニメデビュー。
2013年に長編アニメ第2作『我は神なり』にて、シッチェス・カタロニア国際ファンタスティック映画祭のアニメーション部門最優秀作品賞、ポルト国際ファンタスティック映画祭アニメーション部門脚本賞受賞など、海外の映画祭で高い評価を獲得。
サンホ監督の初実写作品『新感染 ファイナル・エクスプレス』
現在、カンヌ国際映画祭をはじめ世界各国の映画祭で絶賛された実写『新感染 ファイナル・エクスプレス』と、その前日譚にあたる長編アニメ『ソウル・ステーション/パンデミック』で脚光をあびる韓国を代表するアニメ作家。
4.アニメ映画『我は神なり』のテーマは?
アニメーション映画や実写映画と評価の高いヨン・サンホ監督ですが、今作『我は神なり』を通じて問いかけたかったテーマについて次のように述べています。
「エセ宗教を通じて、人間の信念の本質のようなことを問いかけて見たかった気がします。「果たして人間は信念がなくても生きていけるのか?」。あるいは、「間違った信念を持った人をあざ笑う権利が、私たちにはあるのか?」など、人間が持っている信念、信頼の本質について問いかけたかったのです」
この作品を注意深く鑑賞すると、信仰において絶対的な神の存在と、それを信じる牧師や信者いう関係性を通じて、親子のあり方の対比に気が付かされることでしょう。
神と子のメタファーとして、いくつかの“服従させられた”父と子の関係の描かれ方が、“不在の存在”と“無言の存在”、そして時に“粗暴の存在”として、“父親の存在”が散りばめられています。
ヨン・サンホ監督の信仰に対する信心の問いかけであり、根深い韓国の現状にある格差問題やヒエラルキーに深く食い込んだテーマを抉っている快作といえるでしょう。
この深掘りしたテーマはアニメ作品の枠を超えて問題作といえ、サンホ監督の脚本を書く力に驚かされる衝撃性を内包しています。
今作『我は神なり』をサンホ監督は実写化を想定して脚本を書いたそうですが、資金が集まるに至らなかった事も映画を見れば、内容の際どさから理解はできます。
また、作品に描かれていることは、何も韓国と特有のお国柄の問題だけのことではありません。
日本ではあまり意識させまいと目眩しで隠されてはいますが、中間層が消滅した日本にも極端な格差社会に入っており、ヒエラルキーの構造は同じくを見ることができるのではないでしょうか。
今作は間違いなく、ヨン・サンホ監督の代表作の1本と言い切れる作品です。
5.登場するキャラクターは大友克洋作風なのか?
この作品に登場するキャラクターが描かれたフライヤーを見ると、直感的に思い起こすのは大友克洋の描いたコミック「気分はもう戦争」やアニメ映画『AKIRA』との類似性を誰もが思い浮かべると思います。
しかし、それはあまりに短絡的な思考であることは、今作『我は神なり』を観ているとやがて気が付かされます。
確かにキャラクターの絵柄は、漫画界の巨星である大友が描いたものと、サンホ監督が描いているものは似てはいるのは事実。
しかし、大友の場合は、それまでに作者や読者である日本人が無自覚に持った欧米への外見コンプレックスを指摘した衝撃(漫画革命)であったといえるでしょう。
それに対して、サンホ監督は当初は実写映画を目的に脚本を書き、現実社会に向けて“ある種の社会告発”をしたかった内容が先で、忠実に韓国人キャラクターを描いたものだからです。
なぜ、あえてこのようなことを書いたかといえば、観客の目がキャラクターの類似性に気を取られてしまって、本質を見誤ってほしくはないからです。
また、今作のアニメの動きは日本産のアニメに比べたら、ギコチナイ動きであるという事実のは映画を観てすぐわかるでしょう。
しかし、キャラクターの画風やアニメーションの動きを超えて、サンホ監督が韓国社会の見つめ直す必要がある根本を指摘して、信念を持ち作品に込めているのに圧倒されます。
(*第6章でサンホ監督が日本の漫画に影響されたことは触れますね)
物語の前半部分に組み込まれた人物背景やキーワードの振りを、後半部分では掛け合わせながら、加速度を増して収集と連結をさせ、テーマを浮かび上がらせる技量で見事に描いています。
(*例えば、神と信徒、神と悪魔、親子、父と子、飼い主と飼い犬、男性と女性、町と村(都会とダムに沈む村)、健常者と障がい者、詐欺師と騙される者など、これらをまとめて、「運命」)
そこで、これを読まれたあなたに、日本アニメを観るような感覚で見間違いを避けるためにも、先入観では触れていただきたくはない作品です。
とはいえ、ギコチナイ動くも含めていえば、かつての“昭和(1970年代)の日本アニメ”が持っていた、あの暗くて重い雰囲気はこの作品にあるので、そこは堪能していただきたい点ですね。
6.サンホ監督に影響を与えた『殺人の追憶』『ツインピークス』などなど?
今作『我は神なり』が持つ独特な暗さや重苦しさはアニメであっても、実写の韓国映画に決して見劣りはしません。
ダムに水没される運命を持つ村のイメージや作品の世界観について、ヨン・サンホ監督は次のように述べています。
「韓国の田舎の村は、十数年前までは「温かくて人情の厚い」という言葉で語られる場所でした。しかし、ポン・ジュノ監督の『殺人の追憶』以降、韓国の田舎の村の持つ不気味なイメージが台頭し始めました。私も『我は神なり』で、一見スリラーと似合いそうにない田舎の村という設定で、怪しげな雰囲気を作ることができるだろうと思いました」
確かに『殺人の追憶』や『哭声/コクソン』にはじまり、日本未公開の韓国作品まで観たことはあるのですが、不気味な田舎の村を題材に扱った作品が多いのは事実です。
日本映画で例えるなら、筆者が先ず類似性を思い浮かべる作品は、1977年の野村芳太郎監督の『八つ墓村』と1983年の田中登監督の『丑三つの村』です。
都会と田舎、また時代の変化を示す溝として、田舎の村が都会に住む者から見て不気味というのは世界各国同じなのでしょうね。
また、ダムに水没する村のアイデアについてサンホ監督は次のように述べています。
「この村を「終末が運命づけられた村」にしたいと思いました。そして、現実の世界において、「村の終末」とは何だろうと悩んだ末に、ダム建設による水没予定地域の村という設定にたどり着きました。そのことが、村の住民たちの感じる喪失感や疎外感の底にあるのです」
『我は神なり』の冒頭で粗暴な父親キム・ミンチョルも、村人と同じく、抱えられない喪失感や疎外感を抱えていたのでしょう。
個人的にはダムに水没する村をモチーフにした作品から思い出されたのは、1978年に鈴木則文監督の『トラック野郎・一番星北へ帰る』の菅原文太演じた桃次郎が心の奥に持つ喪失感を抱いていましたね。
人は根無し草になれば、流れに身を漂わせるしかないのかもしれません。その点ではミンチョルも桃次郎も同じかもしれませんね。
サンホ監督のアイデアは、世紀末ではない時代でさえも区切られた地域においては、人の過去は奪い取られ、未来を見失い終末感を持つという面白い発想ですね。
さて、このようなアイデアのほかにも、ヨン・サンホ監督は憧れの監督として、イ・チャンドン監督の2007年作品『シークレット・サンシャイン』を例にあげて、「許すことの二重性」「和解の二重性」の視線が好みであると語っています。
また、1990年のデヴィッド・リンチ監督として大きな話題となった『ツイン・ピークス』では、平和に見える田舎町がはらむ怪奇で恐怖に満ちたイメージが好きだと言っています。
さらには、サンホ監督は、日本の漫画家である古谷実の「ヒミズ」が好きで絵柄や表現、雰囲気に多くの影響を受けたと述べています。
ということで、確かに大友克洋の影響も受けてはいるのでしょうが、正確には“漫画革命後”の次世代の派生として存在しているのではないでしょうね。
7.韓国映画『哭声/コクソン』を観たあなた!酷似を見つけられるか?
ヨン・サンホ監督の『我は神なり』に不穏な空気を感じつつ観ていると、やがて、2017年春から公開中の『哭声/コクソン』を思い出すことは間違いありません。
“真実を語る悪人”と“偽りを言う善人”の何を観客は理解して認めればいいのか、そして、信じればいいのか分からない展開へと陥っていく点は似ています。
また、『哭声/コクソン』の場合は、田舎の村の韓国人と日本人というよそ者との認識の溝を感情移入の境にしていたところが秀逸でした。
しかし、『我は神なり』は良い意味でギコチナイ動きを見せるキャラクターを含めて、誰も信じきれず感情移入できないまま、驚愕のラストまで展開していきます。
第5章で並べてある“運命のヒエラルキー”の何を信じるか?信じることをあざ笑えるのか?ここに要注目です!
これ以上は話せないので、ぜひ、『我は神なり』を劇場でご覧になってくださいね。
まとめ
ヨン・サンホ監督は、2016年に韓国で公開された『新感染 ファイナル・エクスプレス』で、国内No.1という見事な実写デビューを成し遂げました。
今後も実写映画の監督として、彼は引っ張りだこになることは間違いありません。
おそらくは、韓国の多くの投資家がサンホ作品に資金投入した際に、小規模な回収しかできないリスクのあるアニメ映画を選択するより、実写映画での回収を求めてくるでしょう。
しかし、ヒットメーカーに躍り出たヨン・サンホ監督には、今後もアニメ作品は制作してほしい!
そう思わせるのものが『我は神なり』にはあるし、アニメ映画であったからこそ実現したテーマを持った快作が生まれたに違いありません。
実写映画であれ、アニメ映画であれ、今後もジャンル問はず才能を見せ続けるだろう奇才ヨン・サンホ監督。
今作『我は神なり」のメイン・モチーフが信仰であることを問われたインタビューで「私はほとんどすべてのことについて疑問を感じる人間だということです」
実写とアニメという“映像表現に疑問を抱きながら”活躍してほしい、韓国映画界の新星です!
『我は神なり』は、2017年10月21日より、東京・ユーロスペースほか全国順次公開!
ぜひ、お見逃しなく!