映画『救いの接吻』は、2019年4月27日(土)より東京写真美術館ホールほか全国順次公開。
ヌーヴェルヴァーグ以降、フランス映画界の希望であり続けている名匠フィリップ・ガレル。
彼が1989年に制作した自伝的映画『救いの接吻』がついに日本で初公開されました。
家族愛が綴られた本作はフィリップ・ガレル監督らしさが凝縮された作品と言えます。
今回はそんな『救いの接吻』のあらすじを紹介しながら、監督の魅力を紐解いていきます。
映画『救いの接吻』の作品情報
【公開】
1989年(フランス映画)
【原題】
Les Baisers de secours
【監督】
フィリップ・ガレル
【キャスト】
ブリジット・シィ、フィリップ・ガレル、ルイ・ガレル、モーリス・ガレル、アネモーネ、イヴェット・エチエバン、オーレリアン・ルコワン
【作品概要】
『救いの接吻』の監督を務めたフィリップ・ガレルは、13歳の頃から映画を制作し始め、早熟の天才として「神童」とまで呼ばれていました。
これまで数多くの「私的」な作品を世に出し、コアな映画ファンに絶大な支持を受け続けています。
驚くことに、本作の主要な登場人物のほとんどがフィリップ・ガレルの家族です。
今ではフランスを代表する俳優になった息子のルイと父で俳優のモーリス。そして当時ガレルの妻だったブリジット・シィ。
極端なまでに個人的な作品に描かれたのは、必然的にも家族愛でした。
映画『救いの接吻』のあらすじとネタバレ
愛する夫が監督を務める、愛の物語の主演に抜擢されていたジャンヌは、突然その役から降ろされてしまいました。
さらに、その主演の座には、別の女性が充てがわれてしまいます。
読書に勤しむ夫マチューの元にジャンヌが涙を浮かべて現れました。
悲しむジャンヌは、夫に説得を試みますが折れる気配はありません。
2人の愛の関係に危機感を感じた彼女は、突飛な行動に出ます。
自分にとって代わられた女優ミヌシェットの元へ向かったのです。
彼女は半ば強引に役を取り戻そうとしますが、その脅迫めいた言葉の数々にミヌシェットは呆れた様子を見せていました。
そんなジャンヌにも舞台の仕事がありました。
ある日、彼女は愛について対話をするというシーンの稽古に励んでいました。
演技指導の監督は彼女にダイナミックさを求め、時に頷き、時に首を傾げていました。
そんな監督の視線の先で、彼女は憂鬱な台詞を吐いていました。
後日、マチューの元にミヌシェットが現れます。
ジャンヌからの口撃にむしろ燃えた彼女は、自分がどれだけ適役なのかを力説します。
それにうなづくように同意していたマチューは彼女の口元に近づこうとしました。
映画『救いの接吻』の感想と評価
ヌーヴェル・ヴァーグ以降のフランス映画界を代表する名匠フィリップ・ガレル。そんな名監督の日本での需要はどうでしょうか?
『レオン』で有名なフランス人監督リュック・ベッソンや『ポンヌフの恋人』で知られるレオス・カラックスなどと比較してみると、毛色は違えど、なんだか存在感が薄いのではないでしょうか。
確かに彼の代表作を1つあげるのは中々難しいですし、作品も掴みどころがなく、捉え方によっては平坦で退屈な物語が多い。
そんな、日本ではイマイチパッとしないフィリップ・ガレルの埋もれていた作品が、今、日本で公開されるというのはとても意味のあることです。
本作『救いの接吻』はそんなフィリップ・ガレル監督の作品において共通する特徴がシンプルに盛り込まれています。
それでは、その特徴を紐解いていくと同時に、フィリップ・ガレル監督作品の魅力に迫っていきましょう。
ミニマリズム=洗練された質素さ
「ミニマリズム=洗練された質素さ」はフィリップ・ガレル監督作品において、大きな特徴の1つです。
本作『救いの接吻』でもその特徴を良く見て取れます。
例えば、1つのベッドと数えるほどの家具しかない、極端なまでに簡略化されたアパートの1室。登場人物に至っては、大半がフィリップ・ガレル本人の家族で形成されていて、街ゆく人々さえもカットされています。
さらに、情緒的で文学的なフランス語が平易かつ簡素に表現され、映像には白と黒の2色しか存在しません。
このフィリップ・ガレルの描くミニマリズムさによって、本作の愛の物語は乾いたものになっています。
彼はかつてこの特徴を問われ「金がないからそうせざる得ない」と発言しましたが、こうした外部要因以外にもワケがあります。
それを本作『救いの接吻』の台詞で伺うことができます。
「私は映画を作る前に頭の中に白紙を準備することができる」ガレルの分身でもあるマチューは道端でこう発言します。
この発言にこそ、ガレルの特徴でもあるミニマリズムさを垣間見ることができるのです。
過去のトラウマ、培ってきた知識や体験。ガレルの作品では個人的体験の影響が作品に色濃く影響されると言われていますが、まず彼はそれらの情報をフラットにできる「整理能力」に優れていることがわかります。
映画を制作をする前に一時的に頭の中の引き出しにしまい込んだ雑多な情報の中から、自分が今その白紙に書き写したいことだけを取り出すことができるということです。
「情報でごった返した頭の中をひとまずフラットにできる」その能力が、映像を質素なものへと誘う秘訣だと言えるでしょう。
演技指導への強いこだわり
白紙上に自分の体験や記憶を書き写し、それをスクリーンに投影したところで単なる“ホームムービー”になってしまうのではないかと疑問を抱くこともできます。
フランスを代表する映画批評誌カイエ・デュ・シネマ上で、フィリップ・ガレルについてこうしたことが書かれていました。
Phillippe Garrel disait quelque chose d’approchant qu’il ne comprenait pas pourquoi la Fémis ne donnais pas de cours de direction d’acteurs, car selon lui, la mise en scène, c’est la direction d’acteurs.
「私はなぜ、フェミス(フランスの映画大学)が演技指導の授業を行わないのか理解できない」
フィリップ・ガレルはこんなようなことを言っていました。なぜなら、彼にとって演出というのは、演技指導そのものだからです。
このことからもわかるように、ホームムービーを映画たるものへと変容させる要因こそ、俳優であり演技指導だということです。
劇中、白紙に乗せられ、ガレルによって肉付けされた俳優たちは、ガレルの思惑の中で演技をすることになります。
この俳優を私物化しているかのような手法は、同じフランス人監督ロベール・ブレッソンにおける俳優=モデル理論に通じるところもあります(ブレッソンは俳優の不自然な演技を嫌い素人を起用することで有名で、挙げ句の果てにロバを使いました)。
参考映像:『やさしい女』(1969)
しかし、ブレッソンが俳優=モデルを機械的なまでに禁欲的な、いわばマネキンのようにしてしまう一方、ガレルは彼らに感情を与え、さらにエゴを吹き込みます。
『救いの接吻』で、女優ジャンヌは自分が夫の作品から外されたことに深い悲しみを感じ、代わりに主演を張ることになった女優の元へ出向いて、役を返せと言い放ちます。
その滑稽とも言えるほどの愛への執着心が、自分のエゴイズムさを助長させ、他人や家族そして自分にも危害を加えようとしてしまう。それはジャンヌに限らず、マチュー、そしてルイにも言えることです。
ある意味人間的な実直さを帯びた人物たちは、白紙の上で躍動し、ガレルの記憶や体験をより躍動感溢れるものに変容させていくのです。
そのおかげで、私たちは映画内で彼らに親近感を感じながらも、そのエゴに違和感を覚え距離を置きたくなる。観客は俳優との間に付かず離れずの関係を築き、ガレルの映画世界と絶妙な関係を結んでいくのです。
小さな存在であり続けること
これら大きく分けて2つの特徴からわかることは、フィリップ・ガレルは「過信家」な映画監督ではないということです。
彼は社会に自らを開いているのではなく、自らの内にこもり続ける内省的な芸術家なのです。
フィリップ・ガレルの作品世界というのは、あくまで私たちがそれぞれ抱える人生の中の1つの物語に過ぎない。彼は自分以外のこと、つまり蚊帳の外のことについて進んで外部に発信しようとはしません。
映像を用いた説教者として私たちに行動を促しているのではなく、ただ1人の「個人」として映画を作っているに過ぎないのです。
もし、彼が世界の真理を語り、民衆に何かを訴えたいのであれば、白紙なんか準備せずに、知識や経験を凝縮させフル活用するでしょう。
フィリップ・ガレルは自己を大きな存在であると過信せずに謙虚に観客に振る舞い続けるのです。
この点が、フランスを代表する唯一無二の監督で居続けられる所以なのかもしれません。
まとめ
『救いの接吻』はフィリップ・ガレルらしさが炸裂した作品です。
そして、そんな作品に描かれた愛の物語自体もシンプルで美しいものになっています。
夫婦の間にいる子供が絶対的な接着剤となって、良くも悪くも2人を繋ぎ止める。
その繋がりは終わることはなく、持続し続けます。
幼いルイ・ガレルのあどけなさと自然な振る舞いに凄まじい才能を感じさせると同時に、フィリップ・ガレル自身の素直な苦悩も垣間見ることができます。
まさに、監督としてのガレルと、親としてのガレル、贅沢にもその2つを味わえる作品を是非堪能してみてください。
映画『救いの接吻』は、2019年4月27日(土)より、東京写真美術館ホールほか全国順次公開。