連作コラム「映画道シカミミ見聞録」第32回
こんにちは、森田です。
日本映画大学は2019年2月10日に、イオンシネマ新百合ヶ丘にて「第5回卒業制作上映会」を開催します。
今回は学生たちの卒業制作映画を取りあげ、各作品のあらすじだけでなく、映画制作を通して学べる力のひとつを紹介したいと思います。
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日本映画大学の卒業制作
卒業制作とは4年間の集大成となる映画制作です。学生たちがみずからの力で映画をつくりあげます。
具体的には、企画・脚本・キャスティング・ロケハン・リハーサル・撮影・ポストプロダクションの工程をこなしていき、劇場で上映するまでの宣伝や、ポスター・予告編制作なども学生主体でおこなっていく、というものです。
つまりキャスト以外のスタッフは基本的に学生が務めているとお考えください。
本稿の後半でまた触れますが、それだけ主体性があるということは、それだけの困難や失敗も経験しています。
制作の過程でも数々の“ドラマ”を生みながら、2018年度はドラマ3本、ドキュメンタリー2本の映画が完成しました。
【日本映画大学 卒業制作上映会の公式HP】
2018年度卒業制作 作品紹介
ドラマ作品は『鎖国のまち子』(監督 和野瑞樹)、『死ねないわたしたち』(監督 石川恭彰)、『晴れのち』(監督 尾﨑優一)の3本で、いずれも26分の尺です。
ドキュメンタリー作品は『寒立馬』(監督 吉田信治)、『モラトリアン 暫停中的留学生』(監督 羅麗君)の2本で、前者が45分、後者が42分の長さとなっています。
それぞれのあらすじから、いまの学生たちに共通する感覚を眺めてみましょう。
『鎖国のまち子』(2019|26min|ドラマ)
三十路の誕生日を目前に控える諸橋まち子(笠原千尋)は、20年前のロボットアニメをこよなく愛する女性です。
現実の恋愛からは目をそらし、自分の世界に閉じこもるまち子の姿を、友人は「鎖国」と表現します。
そんなまち子にも、職場で新たな出会いが訪れることから、物語が進展していきます。
和野瑞樹監督は「コスパが悪いので付き合わない。面倒くさいから恋愛しない。彼女がいるのにメリットが無いので結婚しない」という人が多い気がすると言い、つぎのコメントを残しています。
毎日仕事でコスパやメリットについて考える日々が嫌というほど続けば、恋をすることの尊さに気づくこともあるのではないかと思います。
たしかにそうですね。人々の生活空間が“効率性”という言葉に侵食されていくなかで、“非効率”はその抵抗として機能し、それに生きる姿勢はある種の“尊さ”を帯びるかもしれません。
わたしたちはすでに、「効率」と「幸福」とが別物であることを、よく知っているはずです。
他者と関係を築くことは、もっともやっかいで、もっとも面倒くさいことであるからこそ、効率では計れない人生にもっとも必要なものが見いだせるのでしょう。
『死ねないわたしたち』(2019|26min|ドラマ)
その「他者関係」の複雑さや奥深さを教えてくれるのが、本作です。
高校3年生の真央(金井美樹)と遙(杉本桃花)は、「いつか高いところから一緒に飛び降りよう」と理想の場所を求めさまよっています。
ふたりでだけでいること、そしていつか一緒に死ぬこと、それが彼女たちの願いでした。
いつも待ちあわせをしている歩道橋で飛び降り自殺があったことで「先を越された」と感じたふたりは、自分たちの選択を迫られていきます。
他者との関係を示す言葉には、親子、友人、恋人とさまざまにありますが、真央と遥のそれはなかなか的確に言い表せません。
ふたりは互いを必要としています。しかし同時に死という別れを希求しています。
石川恭彰監督は彼女たちを「心の深い部分に踏み込めないことに悩み葛藤」していると語り、以下のコメントからはそれでも求めあう理由がうかがえます。
もしかしたら、間違っていたとしてもいいのかもしれない。その瞬間に自分も含め相手と一緒なら大丈夫なんだと思えるように。そんな思いで、ふたりを描いていきました。
『晴れのち』(2019|26min|ドラマ)
なにが正しくて、なにが間違っているかわからないけど、「その瞬間に一緒なら大丈夫」という他者関係は、本作の主題にも重なります。
高校2年生の三田晴子(小泉理沙子)が恋心を抱く対象は父親です。
早くに母を亡くした家で、晴子は母親代わりとして家族を支えてきました。
そこに叔母が“新しい母親役”としてあらわれ、居場所を奪われることを恐れた晴子は、父への想いを隠しきれなくなっていきます。
「親子」というわかりやすい関係であっても、『死ねないわたしたち』のように“定義できない関係”があることがわかります。
尾﨑優一監督は「この映画は男女の恋愛映画なわけでもないし、かといって家族映画ってものにしたいわけでもなかった」と述べたうえで、こうつづけます。
「好き」ということがこの作品にとって大事と思い、そのことを中心に考え始めました。しかし、「好き」ってことにも様々な種類があることに晴子や他の人物を通して気づかされました。
なるほど「好き」という言葉は不思議なもので、だれもが一度は経験していても、どれひとつとして同じ感情はないでしょう。
以上のドラマ作品3本から共通して見いだせるのは、「生きるために他者を求めるも、その関係、その感情は名指しできない」ということです。
それは「不透明な現代」を反映している面もありますし、「まだ何者でもない」という学生の特徴が作品に象徴されているともいえます。
その不安定性や流動性は、時として物語上の“粗”になりますが、現実に即した多義性を物語に与えることもあるはずです。
そういった微妙なあわい、みずみずしい緊張関係は「卒業制作」を観る楽しみのひとつに数えられるでしょう。
『寒立馬』(2019|45min|ドキュメンタリー)
残りの2本はドキュメンタリー映画です。
ドラマ作品の紹介においても垣間見えますが、日本映画大学が前身の専門学校時代からもっとも大切にしているのは、「徹底して人間と向きあうこと」です。
そして、この理念から生まれる映像作品のひとつとして「ドキュメンタリー」を重視し、映像・映画を教える大学としては数少ない独立したコースを設けています。
その成果の一部は、2016年度の卒業制作『ひいくんのあるく町』(監督 青柳拓)がそのまま劇場公開に至ったことや、2017年度の卒業制作『山河の子』(監督 胡旭彤)が「第9回座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル」で大賞を受賞し、「PFFアワード2018」にも入選を果たしたことなどからも、確認できます。
2018年度の取材対象は「寒立馬」と呼ばれる馬を育てる村の人々と、日本で暮らす「外国人留学生」です。
まず前者の寒立馬とは、寒さと粗食に耐えられる持久力をもつ馬で、本作の舞台である青森県下北郡東通村に生息しています。
それを目当てに全国から観光客が訪れる一方、東通村は深刻な過疎化に悩まされています。
僕はこの作品を通じて過疎化とは人だけの問題ではなく、土地・文化をもまた少しずつ減衰させてしまう問題になっていると強く感じました。
そう語る吉田信治監督は、人口減少の一途をたどる村と、絶滅の危機が迫る寒立馬の物語を交差させ、文化や故郷について考えるきっかけを提示しています。
『モラトリアン 暫停中的留学生』(2019|42min|ドキュメンタリー)
過疎化の問題とは対照的に、こちらは近年ますます増加する留学生の話題です。
日本映画大学で学ぶ留学生の数も年々増えてきており、それに応じてじつに多様な視点をもつ映画が生まれはじめています。
本作の羅麗君監督が留学生であることも、その証左でしょう。母国と日本の両国を知る者だからこそ気づくテーマがあり、ここではさまざまな悩みを抱える5人の留学生を追うことで、彼らの実情を映しだしています。
なお、さきに挙げた『山河の子』の監督も中国出身で、彼女は中国ロケを敢行して作品を撮りました。
映画の現場が多国籍になっていくことは、それだけ表現の幅が広がるということで、映画の可能性はまだまだ汲みつくされることはありません。
映画制作で身につく「社会人基礎力」
その可能性は表現内容にとどまらず、互いに協力して映画制作に挑む姿勢そのものにもあります。
とくに近年、経済界からの要請が強い「社会人基礎力」が養える点などがそうです。
これは経済産業省が2006年から提唱している“仕事に必要な基礎的な力”で、「前に踏み出す力(アクション)」、「考え抜く力(シンキング)」、「チームで働く力(チームワーク)」の3つの能力から構成されています。
大きく変化する社会構造と環境のなかで、これからは「基礎学力」と「専門知識」だけでなく、それらを活用するための「社会人基礎力」が重要視されるようになる、ということです。
それぞれの力を具体的にみていくと、まず「アクション」は“一歩前に踏み出し、失敗しても粘り強く取り組む力”を指します。
つぎに「シンキング」は“疑問を持ち、考え抜く力”を意味し、最後の「チームワーク」は“多様な人々とともに、目標に向けて協力する力”のことをいいます。
これはどれも、映画制作の過程で経験する力です。
映画づくりに主体性や創造力が問われるのはもちろんのこと、現場では往々にして予期せぬ問題に直面します。
そこでは、課題発見力と解決に向けた方法を繰り返し模索していくことになります。
また映画制作においてチームワークが必要なことは言うまでもありません。
卒業制作の現場では、全スタッフが学生ということもあり、それらの力を総動員して取りかかります。
ある卒業制作現場でのエピソード
数年前の卒業制作でわたしがエキストラとして参加した現場では、こんなこともありました。
季節は夏、場所は霊園で、ある家族のお墓参りのシーンを撮影するところでした。
わたしはその親戚の役で、墓前で一緒に手をあわせます。
炎天下のなか、立っているだけでも汗が吹きだす状況ですが、シーンの都合上、黒いスーツを着こんでいます。
まさに地獄のような暑さ。もちろん、そこで機材を組んだり、撮影したりする学生たちのほうが大変です。
彼らはエキストラのわたしたちに水分や塩飴をこまめにくれるのですが、肝心の撮影がなかなかスタートしません。
構図や演出が決まらないのです。
学生の現場ではよくあることですが、全員が対等な関係のため、それぞれの意見をすりあわせていくのに時間がかかるのです。
長く待っているあいだはテントに誘導してくれますが、照り返しが強くて、完全には陽射しをさえぎることができません。
どこにいても太陽から逃れられないでいたところ、わたしたちの顔は真っ赤に日焼けしてしまいました。
これのなにが問題かというと、肌が痛いといったことではなく、カットがつながらなくなる可能性があることです。
おなじシーンで、午前に撮ったカットと、午後に撮ったカットの顔色が明らかに異なっていたら、編集するときに困りますよね。
なんとかお墓のシーンを撮り終え、学生たちはつぎのシーンの演出をどうするかと考えます。
結論からいうと、“エキストラ親戚”たちはその後の会食の場面で、お酒を飲んでいることになりました。
わたしたちは赤ら顔で、上機嫌な感じで、家族のキャストに絡みました。
いまでは笑い話ですが、ふりかえれば学生たちはそこで「シンキング」を実践したのだと感じています。
映画の現場だけでなく、社会では思ったように物事が進むほうが、むしろ稀なことでしょう。
逆境をチャンスに変えてしまう、それを習慣として身につけている人材がどれほど重宝されるかは、想像に難くありません。
すなわち「社会人基礎力」は「映画力」と言い換えることができるのではないでしょうか。
卒業制作上映会では、その意味をふくめた彼らの集大成を、ぜひご覧ください。
【日本映画大学公式HP】
【日本映画大学 卒業制作上映会の公式HP】